2008年12月31日水曜日

おほつごもり

26日
「奏」でゲニウスの忘年会。瀬尾、福間、添田、雨矢、高貝、杉本、の諸氏と。帰りは瀬尾さんと一緒に。いろんな話をしたようだが、すっかり忘れている。恵子さんのおいしいい料理。

28日
拙宅で忘年会。Troy一家、木村、岩田、七森、さんたち。翌日から四国へ行くという息子もかけつけて。ずいぶん飲んだが酔っぱらいはしなくなった。御苦労さま、女房殿。

30日
どうにか年内に来年の、大学の同じ授業のシラバスを書き終えた。Web入稿ということなので、それを済ませたのが深夜だった。水村美苗の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』を読んでいたので、その影響もかすかにあるのかもしれない。「日本語で書くとはどういうことか」などと考えてしまった。いずれにせよ、この現代において、書くということはどんな意味をもつのか、もたないのか、それを掘り下げることが課題であることに変わりはない。

31日
いよいよ「おほつごもり」。
9月、10月からの急転直下の経済不況、百年に一度などとも言われているが、その責めを負うべき政府や大手の経営者たち(とくに、某経済界の集まりの会長など)の「影」も感じられない、おかしな世の中である。虚構の金融マジックの果てには、それを裏返すどんな「てこ」もありえなかったということか。往時の「自己責任」論者たちの、欺瞞と不誠実がこういう結果を招いたのだろう。来年はすべてが白日にさらされ、一歩ずつ真摯な歩みがどの分野でもありますように!

みなさまよいお年をお迎えください。

2008年12月24日水曜日

ギフト

本当にひさしぶりに、湯浅さんからメールが届いた。これはクリスマスプレゼントのようなもの。この美しい英語に、ぼくはただものも言えず、見とれているだけ。ありがとう。


Dear Mr. Mizushima,

I should have written before – when you sounded sad; when wild roses were in bloom in Central Park; when you shared a moving thought with us on your blog; when I fell in love with Shakespeare because Hamlet played in the park, as a Manhattan skyline faded into summer dusk, was so ethereally beautiful; when the class of 2008, your last students, graduated with so much affection toward you; when a 14-billion dollar deal, on which I worked for over a year, closed; when you began your new adventure, teaching what you love to college students; when I walked across Brooklyn Bridge with my young colleagues on the first warm day of the year, feeling quite young myself; when your translation of an English poem was particularly good;when Lehman Brothers collapsed; when I learned that your father-in-law had passed away; when I spent one blissful week with old friends at their home in southern California overlooking the Pacific Ocean; when you were coping with the void left by your father-in-law . . . . I should have written to you before.

It has been snowing all day in New York City, and the City that has lost its confidence, feels unusually somber despite colors and lights, trimming windows, buildings, trees along the avenues and the 72-foot Norway spruce at Rockefeller Center. It is less than a week before Christmas, and it is rather quiet. And for the first time in almost two years, I have time to think thoughts not relating to my “deals” long enough – long enough to actually write to you. I do not have one coherent thought, a theme, to write about after such a long absence.
So, I will just say I am very sorry that I did not write before.

Mashiho

(December 19, 2008)


ニューヨークのクリスマスの夜も、これまでとはずいぶんと違うものになりそうだ。ゆっくりと静養してください。来年もあなたにとっては激動の年なのだろうから、せめてこれからの休日だけはゆっくりと休んでください。

ありがとう。

2008年12月20日土曜日

旅人かへらず

透谷顕彰碑
 
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白秋・赤い鳥小鳥
 
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西脇順三郎の『旅人かへらず』の57番と126番に、「さいかち」という植物が出てくる。正確に調べていないので、あるいはもっと出ているかもしれない。

57
さいかちの花咲く小路に迷ふ

126
或る日のこと
さいかちの花咲く
川べりの路を行く
魚を釣つてゐる女が
静かにしやがんでゐた
世にも珍しきことかな

「さいかち」って何だろうという思いが、頭の隅に残っていた。不思議なことに『旅人かへらず』を読み直したりするごとに、この植物のことを思い出していた。頭でっかち、というようなことばとライムを踏ませたりしたのは、西脇のでかい頭のことをまず思わざるを得ないからなのかもしれなかった。

千石英世さんの『9・11/夢見る国のナイトメア』という最近まとめられた本、そのⅢのパートは『翻訳から文体へ』という見出しで様々なエッセーが収録されている。そのなかの「乾いた文体」と題されたどこかでの講演の記録のようなものが特に面白かった。これは英文学者、福原麟太郎のエッセイをもとに、「文体」に対する千石流の自由な思考が展開してゆくものの一つだ。福原は「濡れた文体」と題してオール日本の小説家を批判し、その対極に西脇の文体を「乾いた文体」として挙げる。千石さんはそこから、ロマン主義の文体の「濡れ」を指摘し、小林秀雄に代表される批評の「濡れた文体」の特徴を「否定」の文体というようにまとめている。面白いことに、「乾いた文体」の保持者には英文学者(吉田健一を思え)やそれにシンパシーをもつ人が多くて、「濡れた文体」は仏文の徒が多いという。この指摘はさもありなんとぼくも思った。そこで挙げられている西脇を、特にその『旅人かへらず』を読み直したということだけの話で、千石さんのご本のことやら、その文体論の面白さなども含めて、金曜日の立教での授業で話したのである。西脇順三郎という詩人のことを学生諸君にどういうようにぼくは話したか。

――思想や倫理から限りなく遠い詩人、
疲れているとき読み返すと癒される?癒されるかも、
オタクのきびしい原型かも、でも、だから、かぎりなく自由かも、
限りなく、限りなく、この世を超えた「幻影の人」を
実にチンケな日常の中に見出す手品師だけど、
そういうことを含めてだれもこのひとの有する「距離」を
本当に計測した人はいない、
西脇における女の重要性をだれか考えて欲しい、
それから、彼の言う「淋しき」の爆発力と無力を、――

こういうことを喋って授業を終えた。そのあとぼくは新宿からロマンスカーなるものに乗り箱根へ逃げ出した。

この計画は、十一月に亡くなった義父が生きていたときに、女房と二人で考えたものだ。介護専門の女房の気晴らしに、12月に義父をショートステイにやり、箱根でも行こうというものだった。ホテルも予約していた。義父はスパッという感じで亡くなった。すべてぼくらには配慮すべきなにも今はないのである。

箱根で一泊して、今日は強羅のポーラ美術館というところで、「佐伯祐三とパリ」という特別展を見た。馬鹿にしていたが、ものすごくハードな深みのある展覧会であった。ひどく疲れた。この美術館のたたずまいも魅力あるものだった。

帰りは小田原で下車した。箱根には何回も行ったことがあるのに、小田原は初めてだった。すてきな町だった。透谷の顕彰碑を見た。そのあと、小田原文学館に行く。なんとそこでぼくは「さいかち」に再会したのである、いや正確に言うと、そこに行く道が「西海子小路」というのである。サイカチ小路だ。この路の端正な姿に感動する。サイカチが棘のある豆科の植物で、この通りには二本しか残っていないが、通りの名を記念してプレートまであるのだから、小田原の凄さを見た。この通りの家で、谷崎と佐藤の確執があり、それよりもっと昔には、齋藤緑雨が住み、いや小田原とは実は文学者の町なんだということを改めて確認したのである。まず、透谷、ゼーロンの牧野信一、「民衆詩派」詩人の福田正夫、かれらはこの土地に生まれたが、この地の風光にひかれてここに住んだか仮寓した文学者は多い。まず北原白秋と尾崎一雄。二人は小田原文学館の別館に一雄はその書斎を再現し、白秋はけっこう豊かな展示のある「白秋童謡館」なる瀟洒な家屋で記念されている。

そこを観ているうちに、昼飯を食っていないことを老夫婦は思い出す。小田原で途中下車したとき、駅で帰りの切符は買った。六時半だ。今はもう4時半を過ぎた。男の方は、酒を飲みたい。川崎長太郎も小田原の作家なのだった。幻影の抹香町を求めたい。駅へむけて歩みをすすめた。なんと、長太郎が日参したという「だるまや」を発見。そこで食べて飲みました。


小田原のさいかち通りの淋しき
思い出せない首吊りあとの淋しき
ロマンスなきロマンスカーの淋しき
木枯らしの橋を渡れば他国かな、尾崎の句の淋しき
牧野の雑誌「文科」すべて四輯の淋しき
辻潤もこの地を愛した、それの淋しき
透谷とミナの霞んだ写真の淋しき
赤い鳥小鳥の淋しき
ニシワキやサイカチの枯れて淋しき
サイカチ通りで狂信者に遭へる淋しき
だるまやで川崎長太郎に遭えぬ淋しき

2008年12月13日土曜日

感謝

昨晩は、詩の仲間たちが集ってくれて、ぼくの『樂府』出版のお祝いを、国立の「奏」でやってくれた。
新井さん、高貝さんも参加してくださり、とてもうれしかった。木村君の一時内地「帰国」祝いもかねており、彼の北海道の原野での建築中の「家」の写真などを見ながら話もはずんだ。そのうち、おくれて千石先生も来てくださった。千石先生の最近出版した本『9・11/夢見る国のナイトメア』(彩流社)の話も。福間さんがこの本を詳細まで読んでいるというような感じで批評していたのは、さすがだな思った。ぼくも気合を入れて読もうと思った。

相当に酔っ払って、岩田さん、千石先生、と議論しながら、あやうく片倉駅を乗り過ごすところだった。

みなさん、ありがとう。

2008年12月6日土曜日

加藤周一の死

加藤周一が昨日亡くなった。89歳だった。まともには読んではいないが、朝日の不定期の連載コラム『夕陽妄語』はよく読んだ。試験問題などにも何回も使ったりした。腰を据えた観察と的確な批評は、この国の浮薄を撃つだけではなく、文章自体も再読三読にたえるものだった。いよいよ、「知識人」らしき「知識人」はこの国からは払底し、売り尽くしの札が貼られるであろう。同じ頃11月28日にレビィ・ストロースは百歳の誕生日を迎え、サルコジ大統領が慶賀のために自宅を訪問したそうである。いろいろといわれるサルコジだが、この20世紀の偉大な文化人類学者を敬う気持は、人気取りの一環であれ、多少なりとも抱いていたということで、これと比較してわが邦のだれそれはと言うべき言葉もないのである。

昨日は立教の第9回目の授業だった。選んだ作品の合評に関して、ある受講生のリアクションカードを読んでいたら、冷たい批評が多すぎるという言葉が気になった。相互に批評させるのだが、率先して手をあげる人がいないので、ぼくが指名することになる。それが少し偏っているなとは思っていたけど、どうしても意見や批評をちゃんと言えるような学生を指名しがちになるのだ。その学生たちのコメントが冷たいと、この女学生は書いていた。冷たいというのはどういうことだろう?そう思えば、反論すればいいのではないか。次第に、いろんなことが表面化してきたようでもある。リベラルな場を作り出そうと、ぼくは最初の授業で語ったが、そのことの意味を再考しようと思った。あと少ししかないけれど。

2008年11月23日日曜日

Separation

Separation     by W.S. Merwin

Your absence has gone through me
Like thread through a needle.
Everything I do is stitched with its color.

William S.Merwin(1927- )というニューヨーク生まれで、今はハワイに住んでいるという詩人の、Separationという短い詩を見つけた。義父のあまりにもあっけない死が信じられずにいる。葬儀も昨日で終り、今日は女房と二人で、なにをすることもなく一日中家にいた。


別れ

あなたがいないということ、そのことがわたしを貫いてしまう
針の穴を貫く糸のように
わたしのなすすべてが、あなたの不在の色で縫い合わされる

2008年11月20日木曜日

wake

義父の通夜。八王子のサン・ライフで。

すべて親族者のみの出席。むべなるかな、97歳という年齢、そして東京への移住。

木村和史に受付を頼む。

明日は告別式、そして焼き場へ。

―ひとつの死があらたな生を開いてくる、そういう
死を、父たちが死んでくれるように―

2008年11月19日水曜日

義父の死

百歳までは大丈夫、不死身と思っていた義父(97歳)が、昨晩の8時半に死んでしまった。いつものように、三名プラス猫一匹の夕食、そのときの義父はすべてを完食した。いつものようにnhkのつまらないニュースを見て、国谷さんのクローズアップ現代の、ジョセフ・ナイが出たオバマの特集を見る。義父は、オバマ、オバマなどとうれしそうに叫び、翻訳される文字を読んでいた。ぼくは二階の勉強部屋に行く。そのうち女房がぼくを呼ぶ。娘は父が、おかしいという。痙攣のようなものを起こしたので、車椅子の父を父の部屋に連れて行った。そこで、ぼくを呼んだのだ。父がぐったりしている。抱いてベッドにうつす、苦しそうにわめく。「お父さん、お父さん」と言って手を握る。舌がだらんと出るような感じ。横にする、だいじょうぶですか、静かに、静かになる、安らかな顔、そのまま答えない。死んだのだ。この、あっけなさ。

義父のかけがえのないたたずまい、静かで決して声をあらげたことのない人だった、勤勉そのものの明治男、
愚痴をいわない、義父のすべてが、今までぼくを生かしてくれたのだと今になってぼくは思う。思えば、長い長い付き合いだった。義父はぼくに碁を教えてくれた、ぼくらは結局何局碁を打ちましたか?お父さん!数えきれないですよね。ありがとう。

2008年11月17日月曜日

そこのみにて光輝く

昨日、西荻窪の古書店のネットワークみたいなもの、Nishiogi Bookmark主催で行われているイヴェントの第27回目というが、「そこのみにて光輝く―佐藤泰志の小説世界―」というものに参加した。1990年に亡くなった佐藤泰志の小説の好きなものたちだけが集ったというようなintimateな集まりだった。福間健二の、文壇ジャーナリズムと泰志の作品の関係、泰志の病と医者との関係、それをどうとらえるかが泰志の伝記を書く上でのアポリアだという話は切実だった。泰志の友人代表として木村和史も話したが、泰志に絶交を宣言したこともあるという話だった、彼の泰志を大きくとらえて離さない視点の暖かさは独特のもので、福間の話ともども心に残った。それから佐藤泰志の作品が世に埋もれることを憂い、泰志の作品はだれかがきっといつでも読みたくなる作品であるということを信じて、分厚い『佐藤泰志作品集』を昨年出した、今時珍しい、志の出版人、クレイン社の代表である、文 弘樹さんの話も素敵だった。岡崎武志さんの軽妙な司会もよかった。泰志の遺児で長女の方も来ていた。その話は一番衝撃的だった。作家としての父の存在、父の作品、そして父の自裁の意味、それらは現在、彼女がたどりつつある物語のようでもある。

そのあと9時から福間健二監督の映画『岡山の娘』のレイトショー。東中野のポレポレ。ここは何回か行ったことがある。福間のこの映画は始めて観た。和史と一緒に観る。これまでにいろんな情報も耳にし、監督当人や出演者の何人かもよく知っているのだから、初めて観たような気はしなかった。佐藤泰志の長女と、この『岡山の娘』の娘さんをどこかで重ねて観ている自分に気づいた。二人とも、世俗的には、だらしない、どうしようもない父親をもったが、そこから逃げるのではなくて、どこかでその父親のだらしなさも含めて、もっと言うなら、旧式の彼らの虚勢や弱さを、あえて背負って恥じない「若さ」の質、新しい若さとでもいうべきものを、この二人は自然に湛えていたのである。そういうことを感じた。また映画に先立って行われた、若松孝二監督と福間のトークショーもよかった。私は初めて若松孝二という稀代の反権力のカリスマのような監督の謦咳に接して、いやただマイクを通してその声を聞いたに過ぎないのだが、すっかり好きになってしまった。それは、今までの文脈にからめて言えば、泰志や『岡山の娘』の父たちとは截然と異なり、インテリではなかったからだ。乱暴な言い方かもしれないが、若松監督の佇まいがしめすのは、日々の労働そのものに打ち込むこと以外なにも考えない人間のあり方だった、そういうあり方を、実は泰志の小説も、福間の映画も求めていたし、もとめているのではないだろうか。

2008年11月14日金曜日

お生憎さま、すべて幻

 立教大7回目の授業。今日は吉増剛造さんのエッセイと詩について喋る。その「激しさ」と静かさなど。次回の課題は「過激な詩を書く」というもの。

 前回の課題は、アクロステイックなど、すこし「仕掛け」のある詩ということだったが、結構いろんなものが出された。ビジュアルなもの、あいうえお唄、アクロステイックが多いが、そのなかでもっと複雑な沓冠、など。沓冠は一編だったが、判じ物だが、これはしぶい傑作である。

 
 
ある一生

落ちて生まれた我らは確か、無二の愛子
愛想尽かされたが故の、この隘路。
いまだ我らは、悲しき蜻蛉
憎み憎まれ、互いに悪玉
苦しみの恋は徒花と説いて
寂しくくっ付き、枯れる雄蕊と雌蕊。
廻り廻る、永遠の回転木馬なのです。


 

2008年11月2日日曜日

Where are we?

 
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アメリカの友人Troyにブランチに招待されて、座間キャンプに行く。ところが、女房だけ、要求された写真付きのIDカードのようなものがなかったので、これは頓挫する。息子と僕は免許証があったけど。それにしても、このわけのわからない厳重な警備よ。しかも日本の屈強な自衛官が警備しているのである。ライフルを持ち、写真付きのカードかなにかなければダメだというのである。招待した友人夫婦は、ぼくらのことを説明して通してくれというようなことを言ったけど、決まりだからだめだと突き放された。日本の自衛官がそういうのである。普通の日本の主婦で、運転免許など持たないものが写真付きのidカードなど持っているはずはない。女房は健康保険証を差し出したけど、だめだった。

ということで、そこでのブランチはやめにして、引き返して、友人たちの娘(日本の小学校の4年生に通わせている、基地の近くで、他にも基地のなかから通っている子供たちもいる)が好きだという、一軒の回転寿司屋で友人一家3名、ぼくら3名で食べた。おいしかった。

そのあと、友人たちの家、これは座間キャンプとは異なり相模原駅のそばの一角にある。しかしここにも警備の自衛官がいた、さきと違うのはアメリカ人の警備兵(MPか?)もいたことである。日本人はしぶっていたが、アメリカ人のはからいで、女房もokとなり、やっと居住区のスペースには入ることが出来た。友人たちの計画によれば、ブランチのあと、ここでビールを飲みながら談笑するということだったのである。ベースの豪華なブランチは食いはぐれたが、友人の家(この8月に彼らはテキサスからきた。ヴァネッサ、これは友人の妻だが、国防省の仕事に応募して、基地の学校のカウンセラーになったため)でのビールやバネッサが作ってくれたスコーンなどを味わうことができたのである。そして、この写真は彼らの家のある空間である。全く別の国、日本の喧騒もなにもない。大樹が茂り、清澄な空気が秋の空を漂う。

なつかしいテキサスの地ビール、Shiner BOCKを飲み、マドリン(娘の名)の弾くチェロを何曲か聴く。

そして友人たちのここでのこれからの幸福を祈りながらも、この家の電気代や光熱代、家賃のすべてが無料であることを思うと、その思いやりのすごさに、わが日本の政権のどうしようもない馬鹿さをあらためて考えざるをえなかった。貧乏なぞは、サブプライム問題なぞは、どこ吹く風?というような空間だったが、ヴァネッサが帰りに送ってくれた車の中で言うには、イラクにゆく兵士の子供たちもここにはいるということだった。

 
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2008年10月31日金曜日

詩集『楽府』刊行

 
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うまく、スキャンできず、あまり鮮明ではないが私の詩集『楽府』FOLK SONGの表紙です。なんとか今年度中に間に合いました。出航の知らせまで。

2008年10月28日火曜日

こんなにも

こんなにも、
なにもこんなにも、
うしなう、そういう機微だけで、
詩は季節や家族や国家などを巡ったのかしら?

自家中毒のひとでなく、この言語は、
自らと、そうでないものの、模倣に尽きる、
あたらしさは古さを抱く一瞬? それとも忘れる今?
そこここにわたしは付箋を貼る、よせばいいのに。

やがて やかれゆく熱の
しらじらと
むいみ

ここから普遍まで
帝国まで
ジャンプできるかしら?

2008年10月27日月曜日

萩1


萩尾花五つを忘れ風立ちぬ
夏の盛りに白毫寺をたずねた、沈黙の葉のような汗を思い出す。
芽に子、あるいは芽だけ、萩をそう書く理由はあるのだろう、
すすきを尾花と言い換えるのと、似ているが違う。

あやまって秋となる。白秋の白の罅割れ
女郎花、をみなを思ふ、ふふ。
あらましを語れば厭世の人の千人斬り、
ますらをの醜のますらをの片恋さ、

人はみな、ええい、ままよ、よし!
言うぞ、言うぞ、秋と
湯殿川のこのススキの穂先を。

秋萩の咲きて散りぬる、ほへと!
くそっ、この
愛するひとにこひをする快楽!


―参照歌―
○人皆は萩を秋といふよしわれは尾花が末を秋と言はむ(万葉V10.2110)
○吾妹児に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを(万葉V2.120 弓削皇子の紀皇女を思へる御歌4首、より)


萩は絶対、白と!
どうして、きみはいうのか?
秋の草花の色をかすめて、白がそこに座ると、
風はすでに冬岸にむけて無数のはねを飛ばしている。

女郎花咲く野の萩
遠く呼ばれる
肩の荷を暗い背から降ろした
きみのために川が しとねのようにながれゆく

玉梓は折るだろう、玉梓は織られるだろう、
野の果てに秋の手紙、
萩は見れども飽かぬかも。

白露、白萩、散る、
行き逢う少女ら
いまだ飽かなくに、

―参照歌―
万葉集V10  2107~2118 など。

2008年10月25日土曜日

秋の道

二時から、東大和市中央図書館。

図書館友の会という、いろんな活動をしている会、しかも年期の入った会から招かれて話をする。市の文化祭という行事の一環らしい。「ことばとの出会い」と題して、2時間近く。最近の自分自身のテーマである、フロストとブレヒトの二つの詩を基盤に、さまざまなことを喋った。

疲れて八王子。久しぶりに「多摩一」に寄る。生ビール2杯、吉乃川の冷(これをついでくれるときに、グラスを受ける枡も一杯になるように零しつつ注ぐ、したがって一杯が約二杯に相当するといってよい)1杯。冷奴とサバの塩焼き。さすがに、いつもの「養老の滝」より数段美味でした。

2008年10月24日金曜日

あいしてます

 池袋駅から大学までの道でびしょ濡れになってしまった。授業のためのコピー(学生たちの、その時の優秀作品)。控え室の機械でひたすら各種とりまぜ合計600枚ほど、毎週やっていることだが。とにかく早く行って、誰よりも早くコピー機の前にいることを心がけている。湿っているときは、こういう機械はあまりうまく稼動しないものだが、なんとかやりとげた。ほぼ80名近い受講者のうち、今日は70名近く出席か。こんな雨の日は、私の時代には、たぶん授業はなかっただろう。それよりも、私自身が出席しなかったことだけは確かだ。

十名の作品を選び、作者のコメント、それについての数名の出席者の感想、批評。今日で五回目、そのうち作品の提出は3回、三本ということになる。なるべく同一の人の作品は選ばないようにしようと思ったが、それをやめて、私がいいと思った作品を選ぶことにした。当然だぶる人が出てくる。その人の名前も当然覚え、みんなも覚えることになる。わたしの授業のなかでの、スター詩人が出てもいいのだ。

来週は休みだから、課題をうんと自由にして、ロードムーヴィー?からビジュアルな?詩までということで、形式の冒険から、なにか新しい「ことば」を出現させるようなことをやってみてほしいと言った。アクロステイックでもアナグラムでも。再来週が楽しみである。

あくびがでるわ
いやけがさすわ
しにたいくらい
てんでたいくつ
まぬけなあなた
すべってころべ
        (谷川俊太郎)

2008年10月18日土曜日

Reeferなど

こんなものもあります。ちょっとけだるくて、つらそうな歌だけど、それもいい。
ぼくは今の若いというか、こういう音楽に取り組んでいる相応の年代の人たちのことはよくわからないが、この曲の感じはよくわかる。

どこかに60年代以降のカウンター・カルチュアのまっとうな香がするからだ。息子たちの音楽も、これとは違うが、そういう香がする。

なんか、ぼくたち老人やそのつぎの世代ではなくて、つながりがありながらも新しさを切り開く音楽や映像が、こういう世代から出てきて欲しい。出そうな気配もある。


2008年10月17日金曜日

elmentalな自然物

大学4回目の授業。課題詩の合評、今回は8編選んだ。テーマはsomething only I know about.

あまり、特筆すべき傑作はなかった。

授業では、「出会い」の②ということで、ル・クレジオと岩佐なをとブコウスキーについて話した。ル・クレジオにおける「パナマのエンベラ族」との「出会い」、岩佐における「霊的、彼岸的なるもの」との「出会い」、ブコウスキーにおける「日常」との「出会い」などについて話した。

ところで、ル・クレジオのノーベル文学賞受賞のお祝いに、10月11日の朝日新聞に、今福龍太が書いていた。

 
とりわけ七十年代初頭にはじまるパナマ・メキシコ滞在とそこでのアメリカ大陸先住民との決定的な出会いが、彼の小説のヴィジョンと文体を大きく変容させた。水、太陽、大地、風といったエレメンタルな自然物の示す凝縮された宇宙をまるごと抱きとめ、それを文明社会における調和的な生の枯渇に対置させた。子供、先住民、移民、女性といった周縁的存在への繊細な共感と感覚的浸透の強度は、現代作家のなかでも例外的にきわだっている。激烈な世界化の波のなかで、西欧的理念に背を向ける少数者の世界を支持しつづける彼は、ある意味では反時代的な作家の極北に位置するともいえるだろう。
 自然界の豊かな静寂と、人類の古い叡智のかすかな持続の声だけに耳を澄ませてきたル・クレジオの体内の静謐な海。それが彼の小説言語の源泉だ。受賞による喧騒によってそれが一時的に波立つことがあっても、彼の海はすぐにも平静な群青の拡がりをとりもどすことだろう。


まさにそうだし、こうとしかいえない捉え方である。そういう意味で、ル・クレジオの06年の訪日のときの世話人(多分)でもあり、彼を奄美や北海道のアイヌの森などに連れていった知己の言葉であろう。

2008年10月13日月曜日

水より柔弱なるはなし

ブレヒトの詩に、―老子出関の途上における「道徳経」の成立の由来―という長いタイトルの詩がある。その註釈をベンヤミンが書いている。この註釈とそれに方向付けられた原詩を私は心腐るとき、くじけているときに読むことにしている、というより今日あたりからそうしようと思ったのである。

「史記」の老子出関の話を下敷きにしたこの詩は、ベンヤミンによると、「友情」(フロイントリヒカイト)の持つブレヒト詩における特別な役割をしめすものだという。ベンヤミンはこの詩のテーマを「友情」に見ているといっても過言ではない。

老子と国境の役人、貧しい税関吏との友情。そして、この友情を支えるのは明朗とした、屈託のなさ、ハイターheiter(iはこの字ではないけど)である。このハイターという特質が、老子と老子に教えを書き残して欲しいと乞う税関吏の二人の人間性を支えている好ましいものである、そういうふうにベンヤミンは註釈する。老子の家僕である少年の気質もそうだと、ベンヤミンは言う。「屈託の無さ・ハイター」という言葉の響きは、私にはベンヤミンという批評家が終生望んだ生の「理想」の響きとして聞こえる。

供をしている少年は、税関吏に自分の主人のことを、「この人は教えを説いて生活してきたんだ」と説明する。だから課税されるような貴重品はないというわけだ。それは嘘ではないことが税関吏にはよく分かったのだ。その次のパートから原詩を引用してみよう。


だが税関吏の男は、屈託のない(ハイター)調子で
なおも尋ねた、「どういう教えを悟ったというのか?」
少年は言った、「動いているしなやかな水は
時が経つとともに強大な岩にさえ打ち勝つ。
いいかい、堅固なものが負けるのだ」。


昼の最後の光を失うまいと
少年はいま牡牛を駆り立てた。
そして少年と牛と老師はすでに黒松のところを回って姿を消した、
そのとき突然、我らが税関吏のうちに興奮が兆し、
そして彼は叫んだ、「おーい、お前!止まれー!


あの水というのはいったい何なのですか、老師よ?」
老師は牛を止まらせた、「そのことに関心があるのかな?」
男は言った、「私は一介の税関役人でしかありません、
しかし、誰が誰に勝つというのは、私にも興味があります。
知っているのなら、話してください!


どうか書き記してください!この少年に口述してください!
そういうことはやはり、持ち去るものではありません。
私の家には紙だって墨だってあるのですから、
それに晩飯だってあります、私はあそこに住んでいます。
ところで、それはひとつの言葉なのでしょうか?」


老師は肩越しに男を
見た。継ぎの当たった上衣。裸足。
そして額に一本の皺。
ああ、勝者が老師に歩み寄ったのではなかったのだ。
そこで老師は呟いた、「お前も?」

10
礼を尽くした願いを断るには
老師は見たところ年をとりすぎていた。
というのも、老師ははっきりした声で言った、「問いをもつ者は
答えを得るに値する」。少年は言った、「それにもう冷えてきています」。
「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」。

こうしてあの偉大な81章から成る「箴言」の書が完成したというようにブレヒトは書き、ベンヤミンはそれを、「老子道徳経」を、友情が成立させた書物というふうに、そう夢想することを楽しむかのように、ベンヤミン自身もなんの屈託もなく(ハイター)註釈する。それを読むわれわれ、ベンヤミンの悲運を熟知している後生たちは、ここに生の励ましを得なければなにを得るというのか。

ベンヤミンは次のように書いている。

まず第一に、友情は無思慮に働くものではない、ということ―(9連を引用したのち…水島註)税関吏の願いがどんなに礼を尽くしたものであれ、老子はまず、願いをなす者にその資格があることを確認するのである。
第二に、友情の本質は、小さな親切を片手間になすところに、ではなく、きわめて大きな親切を、それがごく些細なことであるかのようになすところにある、ということ。老子はまず、問いを発し答えを求める資格が税関吏の男にあるか、それを確かめたあとで、この男を喜ばせるために旅を中断して、それに続く世界史的な何日間を提供するわけだが、その際のモットーはこうである―
「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」。


私は、この「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」という老子の屈託のない簡潔な言葉に、この世の友情や、師弟愛や、総じてコミュニケーションの原基を見る。

こういう話をもどかしく、先日友人に、夜の、もう終電近い電車の中で話し続けたのである。その日は財部鳥子さんの話を聴き、そのあともビールを飲みながら親しくこの敬愛する詩人と雑談を交わすことができた。そのときの印象が、まさに明朗とした「屈託のなさ」というものであった。対話していると、私の憂鬱など一刷毛で消えてしまう、そういう感じ。その思いが、この詩とベンヤミンを想起させたのかもしれない。友人は電車の中で、私の話を静かに聞いてくれた。そして、次のようなドイツ語を、若いときどこかで見たといって、私の手帳に、「屈託なく」書いてくれたのであった。

Leben ist ernst,
Kunst ist heiter.

人生はまじめ、真剣、芸術は明朗、屈託がない。

2008年10月10日金曜日

糞尿の丘

三回目の、立教大の授業。今日は、前々回の課題作品の合評を、授業の前半に行うというのが僕の予定。しかし、80名という受講者を考えると、すべて出来るわけが無い。前回に提出してもらった作品のすべてにコメントを書いたが、そのなかの7作を選び披露することにした。コピーをずいぶんした。

その7作品のなかでも、傑作はというと、それが「糞尿の丘」という奇異なタイトルの作品であった。私は、教室で、これら7作の詩の作者に、自作詩についてのコメントと、朗読を求めた(実際は、朗読が最初で、コメントは後)。その一番に「糞尿の丘」を取り上げたのだった。以下その作品を、作者には無断で、しかも横書きで全文引用する。

糞尿の丘

国道沿いの坂の上から 桶の中の糞尿を垂れ流しますと、
その流れる音の口真似を 母は時々するのでした。
坂は今では おおよそ薄の群生に おおわれております。
ほかには 何だかよくわからぬ 草がぼうぼう生えております。

その坂を上がって 私はピアノのお教室に 通っておりました。
冬になると 凍った坂道を下るのが とうても恐ろしい。
山なみの近くに迫った 灯りの少ない夜道を 川音に沿って下っておりました。
一本足の白鷺が 川べりの岩の上に佇んで 私のゆく先を指し示しておりました。

水音が ごおごおと唸っています。
その下を走るは 糞尿の流れ。
そして 色々のかなしみ または 生命。

幸せな時代になったと かつて糞桶を担いだ母は言います。
幸せな時代になった。
それでも 尻から垂れ流れるものは 昔と少しも変わらず、
足元でうねる 生と死の気配は 常に私の靴の裏をなぶる。

人気のない夜の道を 私は歩いておりました。
道沿いの民家の明かりは すでに消えており、
住人は すでに眠っているか 死んでいるかをしております。
眠っていても 死んでいても どちらでもよいのです。

冬の夜の満月は すべらっこく 凍りついた白さです。
東のお山の上空から 霜枯れた糞尿の丘を 静かに照らしておりました。


この詩の注釈をベンヤミンがブレヒトの詩について行ったやり方で、そういうやり方しかこの詩については出来ないから、やってみたいのだが、今日はタクランケ氏と相原の立ち飲み屋で飲んだので、出来そうにないからやめておく。しかし、この詩を眺めていると、私でなくとも、だれかが「注釈」をなすであろう、そういう詩であると私は考える。

ところで、この詩の作者は女性であり、しかも、この「糞尿」の話は、母から実際聞いた話だと言う。これには吃驚したが、この「糞尿」のイメージ、そのもののイメージについて、この詩の詩人と私には大きな違いがあるのかも知れない。しかし、たとえ、そうであれ、この詩はいい詩である。「異国の丘」という歌があることを、この詩の作者は知っているのだろうか?無意識でなした、反逆の美しい詩として、これを読むことも可能である。これは今日、教室では言わなかったが。

2008年9月30日火曜日

九月尽

塩魚の歯にはさかふや秋の暮れ 荷兮
鬼貫や新酒の中の貧に処ス   蕪村


というわけで、秋の暮れでもないのに、そういう季節感をもたらす寒い日である。

(日乗)
9月27日、福間さんのワークショップに行く。個と、それを突き抜ける見通しの弁証を聴く。その運動こそ、人が求めてなしえぬものであり、また、期せずしてそうなる、あるいは、強いられて個は世界と同致させられる、さまざまな形があるだろうと思った。ナンがクリストと一体化する恍惚は?

そのあと飲みすぎた。いつものように。

9月28日、
西郷信綱の死を知る。国文学の世界に「天窓」を開けた人であったと思う。

9月29日、9月30日、
職場。

2008年9月27日土曜日

秋のオード

湯殿川の道のコスモスが今年も咲き誇っている。それに憩う秋の蝶や、自らの獲物を待つ蜘蛛など、今朝の散歩は光のなかの饗宴だった。

 
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昨日は大学での授業。80名近い受講者に吃驚したが、どうにか言いたいことは言えたようである。学生諸君の真面目さにも感動した。慣れてきたら、もっと交流ができるだろう。とにかくあがってしまって、マイクのスイッチがどこにあるかわからずに、地声でやってしまった。終わったあと、その場所がわかる。しようがないや。どっと疲れた。昔の教え子で今、大学院生のSさんが、聴講に来てくれた。

2008年9月23日火曜日

Ophelia



John Everett Millais(1829-96)展を渋谷、Bunkamuraのミュージアムで観る。漱石の『草枕』で言及されていたオフィーリアの絵の実物をともかくも拝むことができた。昔、昔この絵の複製をアパートの汚い壁に貼り付けていたこともあった。「草枕」の語り手の画工は、この絵について語った後に、自分も「一つ風流な土左衛門を書いてみたい」と言うが、なぜか、このオフィーリアを土左衛門と呼ぶ漱石のこの部分だけは鮮明に覚えていた。今日美術館でもらったパンフレットの後ろには、この部分を含めた草枕の一節が引用されていた。

キーツやテニスン、ワーズワース、バイロンの詩の一節が絵のタイトルであったり、その詩に触発されたテーマの絵など。解説を読まないとわからない絵が多い、というより、絵画そのものが、風景画にせよ、当時の文学や時代の好尚と密接な関係を有して存在する、そういう絵であるので、絵のそばの解説を読まざるをえない。すばらしい肖像画、かわいらしい子どもたちのそれ、眺めるだけでいいのだが、つい誰、それの?ということで「読んでしまう」、ということで非常に疲れてしまった。

ラファエル前派という集団の一員の実物を、ロンドンのテートギャラリーまで行かなくて、日本は渋谷で見ることが出来たということだ。ロンドンで見たら、また違う感じ方があったのかもしれない。

ビクトリア王朝の栄光と衰退のすべてを、どれだけ観る者が深く感じられるかによって、これらの絵の印象も違ったものになるだろう、などと思った。

2008年9月22日月曜日

 秋風は物いはぬ子も

 昨日は、職場の文化祭を見学した。一年生有志たちの出し物であるゲームのようなものに参加する。楽しかった。雨だったのが残念で、室外の、三年生の模擬店などゆっくりと回ることができなかった。

 今日は立教大に行き、千石先生の案内で控え室、図書館、教室などを見て歩く。図書館のカードを作ってもらった。いよいよ、金曜日から授業が始まる。愉しみでもあり、不安でもある。まあ、肩の力を抜いて、学生諸君と向き合うことからはじめよう。大学は今日が後期の始まりということで、にぎわっていた。雨のなか、若い人たちのエネルギーに圧倒されながらも、自分の身内にもなにか湧き出るものを感じた。

 帰り、近くの夏目書房という古本屋で、尾形 仂の『歌仙の世界  芭蕉連句の鑑賞と考察』(講談社学術文庫)、他を買う。これは『卯辰集』所収の「山中三吟」歌仙を尾形が細かく評釈したものである。八王子に帰る電車のなかで、ずっと読んでいた。そのなかに次の芭蕉の句を発見して、強烈な印象を受けた。歌仙だから独立して味わうのは意味がないのだが、あえて、この句だけを覚えておこうと思った。

 秋風は物いはぬ子も涙にて

これは初折裏の9句目の句だが、そのこととは関係なしに、この句だけが屹立して迫ってきたのである。秋の愁いの伝統的な句と言えば、それまでだが、私はこの句を家に帰って、ニュースを見ていて、もう一度深く思い出すことになった。福岡と千葉の子どもたちの死を報じたそれを見たとき、ゆくりなくもこの芭蕉の句が胸を突き上げてきたのである。「物いはぬ子」ではなくて「物いへぬ子」なのだが、秋の嘆賞ではなくて、子どもたちの悲惨さなのだが。文化祭で輝いている生徒たち、今日の学生たちの姿、それに決して到達できない悲運の幼子たちの姿を二重写しにする「秋風」に泣いたのである。

2008年9月18日木曜日

燈ともせ

いろんなことがあった一日だった。

午前中に、八王子のハイフェッツという弦楽器専門店に友人を連れて行く。テキサス生まれの男で、再来日した、十年来の友だ。日本で生まれた彼の娘は、今十歳になる。ヒューストンで育ち、そこでチェロを習った。日本への引越しのときに、弦が切れてしまった。チューニングなどもおかしいというので、ネットで調べて、この店に行ったのだが、以前から、眼には留めていた。とても雰囲気のいい店で、多分オーナーだと思うが、口下手な職人気質という感じの人が、弦を付けてくれ、チューニングしてくれた。しめて2300円だった。簡単だった。そのあと隣にあった、すかいらーく、で生ビール2杯を、チキンのから揚げのようなものをツマミにして飲んだ。彼が言うには、明日自分だけでテキサスに行かねばならぬという、例のハリケーン「アイク」の被害を、メキシコ湾沿いの家がまともに受けてしまい、一階部分が全壊したということだ。その片付けと、隣近所の手伝いのために、三週間ぐらいは滞在しなければならないということだった。彼の不運をともに嘆いたが、いつものように、陽気な、どうにかなるという調子に戻った。

そのあと、タワーレコードに頼んであった、息子たちのデビューアルバム「The World According to Stewart」というCDを受け取りに二人で行く。息子への祝儀のつもりで、ちょっと多く購入した、そのうちの一枚を、友人にプレゼントする。彼は、息子のことも知っているので、自分で払うと言ったが、相模原などのCD屋でもう一枚買ってくれと言って、渡す。

いつもは授業が5時間もあって、一番大変な日なのだが、文化祭の準備ということで、パートタイムの講師であるぼくは暇になった。我が家では、毎週木曜日が義父のお風呂の日であり、看護士さんと女房の二人が奮闘して97の明治男を洗う日である。ちょっとした失敗があり、義父の脚をいためてしまった。医者が来て縫ったりした。肝をつぶしたが、たいしたことにはいたらなかった。大丈夫だった。たまたま休みの日だったので、二人の奮闘と大変さを如実にあらためて知った。

いろいろやらねばならぬことがあるのだが、少しも展開・発展してくれないこともあり、そうでもないこともある。もう急ぐ必要もないが、かといって安泰に構えていられるような気分でもない。

永き夜や思ひけし行く老いの夢    蕪村

秋の燈やゆかしき奈良の道具市    蕪村

燈ともせといひつつ出るや秋のくれ   蕪村

(どうも最近、ブソニストになったようだ。)

【ゆかしき】

寄らないで過ぎちゃった、
遠い
道。

燈ともせと
ももすもも

老いのはなやぎ、
因果のことわりではない
ふらここ、ゆれよ!

寄らないで過ぎちゃった、
道。
遠い
遠さ。

秋の燈
ゆかしき
奈良の
お水取りのきよらかな狼藉の火

ふらここ、ゆれよ!

寄らないで過ぎちゃった、
鮎のゆかしき。
そういうもののすべての
ゆかしき。

秋の燈のゆかしき人のゆかしさよ!

2008年9月16日火曜日

悪いことか?

朝、車を崖の壁にぶつけてしまった。大した損傷ではないが、非常に滅入ってしまった。職場の駐車場での事件。人がいなくてよかった。人にぶつけなくてよかった。反省する。運動能力の衰え、反応の遅さ、そういうことを考えて、高齢者は便利さをあがなわなければならない、ということ。

帰宅したら、久しぶりの、女房の外出日だった(あなたは、人が話したことを、ちゃんと聞いていないから、と帰宅した女房に叱られた)。新しい介護士さん、若い男性が来ていた。挨拶を交わす。義父は寝ていた。そのF君という介護士さんと少し話す。いい青年だった。男の子の介護士さんというのは、もちろんいるのだろうが、我が家では初めてだった。義父はどう思っただろう。

外出した女房が、デパートで金沢の特産物展があって、加賀の日本酒720ml瓶をお土産に買ってきた。私が、常々、倉田良成の「食日記」の感想を、うらやましげに語るのを聞いて、不憫に思ったからだろう。この酒は、冷や、ロック用と指定があるほど辛くて、とても美味しかった。「ひやおろし、常きげん」という石川は鹿野酒造の製造である。原料米「五百万石100%使用」と書いてある(この酒造の名誉にかけて、これは100%確かなことだろう)が、私には、もうそんなことはどうでもいい。汚染されていようが、されていなかろうが、どうでもいい。おいしかった。致死量にいたる毒でも、という気概がなければ、この嘘に満ちた国で生きていけるはずはない。

2008年9月15日月曜日

老猫尊者

敬老の日。齊藤史の歌集から目に付くものを選んでみた。最初はそういう意識はなかったので、選んだ歌は歌集(講談社学芸文庫版)の少し後の方が多くなっている。

○我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生れしことに黙す(母)

○月 神のごとく昇るにあやまちて声もらしたる森のかなかな(森)

○佳き声をもし持つならば愛さるる虫かと言ひてごきぶり叩く(小動物)

○秋日の空間を截る光にて過ぎたるものを仮に鳥と呼ぶ(鳥)

○衰へし尾羽に風のそよぐとき鶏の雄なることはさびしき(鶏)

○死魚を洗ひきよめて食む事も終りの日までつづくなるべし(魚)

○乳のますしぐさの何ぞけものめきかなしかりけり子といふものは(けもの)

○いかなる人間の営みありしオホツクの夏は夏霧冬は氷雪(北国)

○あかしやの花を食べ擬宝珠の花をたべわが胃あかあかとなほ営めり

○なかなかに隠者にさへもなれざれば 雲丹・舌・臓物の類至って好む(飲食)

○夢の中に風ふきとほるさびしさは枳殻(からたち)垣をめぐらせてなほ(夢と睡眠)

○正史見事につくられてゐて物陰に生きたる人のいのち伝へず(流説)

○すでにしておのれ黄昏 うすら氷の透けるいのちに差すや月光(月)

○夏草のみだりがはしき野を過ぎて渉りかゆかむ水の深藍(水)

○老いたりとて女は女 夏すだれ そよろと風のごとく訪ひませ(女)

○棍棒のやうに立ちゐる男二人 相撃つかはた立腐るるか(男)

○短歌とふ微量の毒の匂ひ持ちこまごまと咲く野の女郎花(短歌)

○秋の水を器に充し挿す花の何もあらぬがむしろよろしき(秋)

○一瞥のあはれみを我に賜ひたる老猫尊者目脂わづらふ

○老いてなほ艶とよぶべきものありや 花は始めも終りもよろし

○深くしづかに潜行しつつ老はすすむ 日本をまたぐミサイルの下(老年)

○みづからの神を捨てたる君主にてすこし猫背の老人なりき(天皇)

○遠き無慙かくちかぢかと眼に見せてテレビは誰のたのしみのもの

○並び待つ人等のあとに従きて聞く〈前の方になにがあるのでしょうか〉

○まだ落ちてゆく凶凶(まがまが)しき空間のあるといふことがわれの明日ぞ

○おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は

○携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか(人生)


齊藤史の短歌にある、怒りのようなもの、それが好きである。たくまざるユーモアもさすが。それにやっぱり叙景の歌もいいです、これは万葉の響きがする。「夏草のみだりがはしき野を過ぎて渉りかゆかむ水の深藍」これは特にいいですね。今日発見しました。「深藍」はどう読みますか。「ふかあい」、水のと三、深藍と四音で、三と四で七音の結句を作っているところ。

2008年9月13日土曜日

荒野

 井上荒野の『切羽へ』がブックオフで半額だったので、最近の直木賞というのは、どういうものかも知りたくて買った。もう一つは、見沢知廉の『七号病室』(作品社)も半額だったので購入する。前者も後者も、面白くなかった。

 今日、そこで定年を迎えた学校の「文化祭」だったので、6ヶ月ぶりに卒業生たちに会いたくて行く(たぶん、文化祭にくるだろう)。5、6名の連中と会う。みんな元気そうだった。仕事を始めて、ぼくより給料のいい奴もいた。明細を見せてもらったが、給料から差し引かれる項目がほとんどなかった、よく見ると社会保険には入っていないのである(というより、会社がその加入をすべきなのだが、していないということだろう)。「おまえな、会社によく相談しろ」と言う。面倒くさいなどといわずにね。ぼくも、今勤めているところは、社会保険などない。それが最初からの条件?である。ぼくと、彼のような若い、これからの人間との違い。手取りの見た目の大きさに、だまされるなよ、と言う。

2008年9月12日金曜日

萩何句何首

久しぶりに。
6日に、昔の「文芸部」の教え子たちと飲む。三名とも、今は大学院の学生。一人は一橋、一人は外大、一人は都立大。楽しかった。
7日は散歩の途中豪雨に打たれる。湯殿川一帯が急に暗くなり、稲妻と雷鳴、いつの間にか人の子一人いなくなった堤防を必死に走りながら帰る。こわかった。でも、幼い頃に帰ったような気もして、叫びながら走ったのである。午後のあやかしに遭ったようでもあった。
8、9、10、11と授業。その間に書評を一つ書く。気に入らず、直して今日12日送る。
またチャレンジした禁煙、一ヶ月目を迎えた。この一ヶ月の間に、二回喫煙した。一回は橋本でSさんと飲んだとき、もう一回は那覇でKさんたちと飲んだとき。それ以外はなんとか禁煙できている。こんふうに思うことにしている、「もう一生分の煙を吸ったのではないか」と。実にはかない、はかない禁という状態。

寂しさや須磨にかちたる浜の秋
浪の間や小貝にまじる萩の塵

この芭蕉の、「奥の細道」の句は、旅程も最後近くの敦賀の「種(いろ)の浜」で詠まれたものだが、いつもこの「萩」の句には驚く。小貝との取り合わせの素晴らしさ。それを秋の浪が包み込む。

駅にゆく坂道に咲く萩の花
思い出は淡き紫萩咲けり     蕃

「今日は、いとよく起きゐたまふめるは。この御前にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし。」と聞こえたまふ。かばかりのひまあるをも、いとうれしと思ひきこえたまへる御気色を見たまふも心苦しく、つひにいかにおぼし騒がむ、と思ふに、あはれなれば、

 おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露

げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる、をりさへ忍びがたきを、見出だしたまひても、

 ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先立つほど経ずもがな

とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、

 秋風にしばしとまらぬ露の世をたれか草葉のうへとのみ見む
と聞こえかはしたまふ。(『源氏物語』―御法―より)

 この鼎唱はたとえばチャイコフスキーのピアノトリオ「偉大な芸術家の思い出」のエッセンスと通い合うような気がする。今聴きながら書いているのだが、このイ短調の切迫した曲の美しいモチーフと、この三人の歌がぼくの心の中で共鳴している(無理にそう思っているのかも知れないが)。ところで、この場面は五島美術館所蔵の国宝の絵巻にも採られているのだが、これについて三谷邦明・三田村雅子夫妻共著の「源氏物語絵巻の謎を読み解く」(角川選書)では次のような解説がされている。「紫上の命が失われていく瞬間を描くこの場面は、互いに愛し合った夫婦が、その最後の瞬間にさえ信頼を取り戻せないことを示唆している。紫と養女明石中宮の距離と光源氏の距離を比べれば、前者の方がはるかに近く、紫が最後の最後にはこのなさぬ仲の娘にすべてを委ねていることは明らかである。それに対して源氏は紫の心を捉えられないばかりか、不断の心労に巻き込んでいくばかりの存在になってしまっている。源氏の後方に靡く秋草は激しい野分の訪れを告げているが、その風が今御簾を吹き上げ、紫の最後の生気を奪い取って行く。紫をおびやかす風が、源氏その人から発するかのように描かれることで、紫の病の本当の原因も、ここに示唆される。」これは、またあまりにも酷な読み方ではある。紫はここではそのような源氏を心の深くから「許している」のではないか。だから「つひにいかにおぼし騒がむ、と思ふに、あはれなれば」と彼女の心中が語られているのではないか。

というようなことを、ぼくは2002年にノートに書いている。紫の上の、萩の歌、

 おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露

「萩」というと思い出す歌である。芭蕉の名句とともに。

 探求す文の間に秋の草  蕃

2008年9月2日火曜日

『歌仙の愉しみ』(1)

『歌仙の愉しみ』(岩波新書)を読んでみた。序にあたる部分を丸谷才一が書いている。そこで書かれている俳諧(俳諧の連歌、連句)についての説明と、いつものような、それが近代文学に与えるカンフル剤的な意味合いについての言辞は省略する。丸谷による連衆の紹介を書き写せば、「詩人と歌人と小説家」、同じく連衆を「仏文系と国文系と英文系」、「静岡県生まれと三重県生まれと山形県生まれ」「教員の子と神官の子と医者の子」というように紹介している。こういう紹介の仕方にすでに丸谷的な俳諧味があるといってほめてもいいかも。すなわち、大岡信、岡野弘彦、丸谷才一の三名によって巻かれた「歌仙」八つ(8巻)と、それぞれの巻の各自の句意や付合いの加減についての三名の楽しいお喋りが付加されたのがこの本である。さきほどの丸谷の「わたしたちの歌仙」という、これだけは書き下ろしだが、序にあたる部分が本の最初にあるという体裁。それによれば、1960年代の半ばごろ、安東次男を宗匠として大岡と「歌仙」を「事始」めして四十年余り、「近頃は大岡さんを宗匠格にして岡野弘彦さんとわたしの三吟で巻くことが多い。これがわりあひ具合がいいみたいです。」
さて、この三吟八歌仙は成立順に、岩波書店の雑誌『図書』の2000年9月号から2008年1月号にいたる8冊にわたる雑誌に掲載された。ただし、作品自体である36句の歌仙は、それよりも(掲載時よりも、もっと)前に成立している。たとえば、2008年1月号初出の「まっしぐらの巻」という歌仙について、「ちょうど一年前の2007年一月十一日、木曜日だったと思います。私が発句を出す順番に当たっていまして、…お二人に見ていただきました。宗匠がこれがよかろうとおっしゃってくださって、丸谷さんとも意見が一致しまして、
来むかふは猪年の老いのまっしぐら  乙三
これが発句に決まったのでした。」と、この巻で発句をつとめた乙三=岡野弘彦の発言が、この巻の「お喋り」の冒頭にある。どういうことだろうか?一年近くも、それぞれの句の推敲があったということもあろう。私が言いたいのは、どうしてもそれぞれが作りあげた句に対しての事後の「お喋り」が必須であるということだ。カノンである『芭蕉七部集』などに、このような「お喋り」が付随していることはない。いくら「共同体」の、「集団」の文芸と言っても、江戸時代の人にサッカーのルールを教えるのと同じような事態があるから、「評釈」「お喋り」の連綿たる積み重ねがあるのだと言える。要するに、これらの「評釈」「お喋り」を含めてしか、それぞれの歌仙は読めないのである。その「面白さ」も。正直に言うとそうなる。

2008年9月1日月曜日

石川淳『歌仙』

石川淳「歌仙」

くれなゐの花には季なし枕もと
  まだきに起きて初霜を履む
くもり日の枝に残れる柿いくつ
  またのみ直すどぶろくの酔
失せものをたづぬる方に月あはし(月)
  ひとの苦労を茶ばなしにする


むつかしや梅にも露は置くものを
  木の芽どきにはつのる癇癖
ネクタイのサーモンピンク春浅し
  蝶飛びかふは誰が家の窓
うすものに透きたる肌は夢ならじ
  かぶりつきには利いた顔なり
つれなくも木戸に入るさの月の影(月)
  虫の音聴いてかへる横町
やや寒のなま物識と笑はれて
  客を迎へて酒徳孤ならず
わが宿は隣の花のさかりにて(花)
  春追ふ旅のわらんぢを編む


飛行機の影より霞みわたりけり
  ほのかに低し先哲の墓
つづめたる思想は思想に非ずかし
  雲の中なる神霊は何
五月朔明けなば旗の揚がるらむ
  女まじりに押出す勢
水清し地は解放を名に負ひて
  稲穂の波に歌のたかまる
草花をかざしに挿してをどる輪に
  雁のたよりの一人を欠く
山東の郷談月にこころよく(月)
  手妻のたねも売れる祭礼


国越えの峠なかばにしぐれけり
  はきならしたる海軍の靴
穴子ずしまた染めかへす暖簾にて
  初雷の江戸の青空
花吹雪橋には獅子の舞ひつれて(花)
  善隣春はめぐる船旅

2008年8月29日金曜日

那覇でひたすら

ひさしぶりに那覇にゆく。26日夜、「レキオス」で12時まで飲む。それから、もう一軒歌を歌うところのようなところで翌日の午前3時半まで飲む。メンバーはKさん、Iさん、小生。それからタクシーで宿がわりの友人宅まで帰る。27日、猛烈な二日酔い。吐き気に悩まされる。昼ごろ起床。昨晩Iさんと飲みながら「沖縄対詩」を今日二人でやろうと約束していたことを思いだす。Iさんが不定期にやっている泡盛居酒屋に昼過ぎに行く。二人とも二日酔い、ぼくのほうが強烈で「対詩」もやれる状態ではない。マンゴーや島特産のプリンのようなものをご馳走になり、3時間ぐらいふたりで「ユンタク」(おしゃべり)をする。すこしずつ二日酔いが抜けてゆきそうな気配だが、まだふらふらしている。ホッピーをビールがわりにご馳走になりながら。いやはや。お土産に「下がり花」の球根をもらい別れる。ありがとう、Iさん。

まだ暑い国際通りをふらつき、5時過ぎに泊の友人宅へ。もう一人の共通の友人が、座間味島にダイビングに行っていて、彼とここで合流して一杯やるというのが今晩の予定である。三名とも、もとの職場の同僚である。ダイビングの友人は小生よりまえに沖縄に来ていた。東京でその昔よく飲んでいたが、故郷が沖縄の友人のところで飲むという話がおたがい老年?になって実現したわけだ。

08年の夏、退職した年の夏、その夏の最後の、いい思い出になった。泡盛づけの那覇だった。

(詩人I氏の店)
 
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(立法院あと)
 
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2008年8月25日月曜日

草の葉

―Or I guess the grass is itself a child,…….
それとも草はたぶんそのまま一人の子ども、……
                     ホイットマン「ぼく自身の歌」6より― 


奥行きのない暑さ、
この暑さの彼方、
、、、、、、
なにもないということが世界だった。たぶん
因果や、探検、
恐怖や、快楽
、、、、、、
大統領選挙まではまだ日がある、
そんなにのんびりとはできない。たぶん
ぼくはぼくに憑かなくてはならない、
もうだれとも、どんな関係とも無縁だから、
、、、、、、
愛撫の果てに聴くアイヴズの“The Unanswered Question”、
夏の果ての木槿、
それとも草…
草の葉…
、、、、、、

2008年8月24日日曜日

夏の終り

 奈良、京都、神戸をいそがしく周ってきました。すっかり涼しく、というより肌寒ささえ感じる日曜日です。あの炎熱の日々がなつかしく思われます。断崖から落ちるような気候の変化です。

 奈良の春日大社からはじめて、高円をめぐった写真です。ずいぶん歩きました。旅のなかで、この日が一番暑かったのですが、その暑さも、もうすっかり秋のそれでした。

(イチイガシの巨木)
 
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以下、春日大社神苑の万葉の花と歌より、

(手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも V10)
 
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(秋さらば移しもせむとわが蒔きし韓藍の花を誰か採みけむ V7)
 
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(神苑の池と樹)
 
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(萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝貌の花 V8 山上憶良)
 
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高円散策、
(志賀直哉旧居百日紅)
 
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(新薬師寺・会津八一歌碑ちかつきてあふきみれともみほとけのみそなはすともあらぬさひしさ)
 
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(白毫寺への道、畑の瓢箪)
 
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(白毫寺への階段)
 
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(白毫寺・高円の野の高み・志貴皇子をしのぶ萩)
「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに」笠金村の志貴挽歌の反歌の一首V2
 
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万葉の歌に深く心ひかれた小さな旅でした。

2008年8月18日月曜日

答えのない質問

京王八王子の駅ビルに行った。入り口から少し離れたところに「献花台」が設けられていた。この前の殺人事件のことを忘れないようにしようと思うのだが、生きること、生きていることは、その記憶を、祭壇の上で萎れている花々のように、どうしてもそうしてしまうものでもある。「八月十五日」、これも「いつも、いつでも」それぞれの記憶の仕方と忘れる方法が、まああるのにちがいない。忘れる方法は記憶する方法に比して一杯あるだろう。政治家、カクリョウのヤスクニ参拝などというのも、数多い忘れる方法のなかの一つのようなものである。

そのビルのタワー・レコードで久しぶりにcdを買った。一つはジャクリーヌ・デュ・プレの、エルガーとディーリアスのチェロ協奏曲。お目当てはもちろん、ディーリアスを聴きたかったから。もう一つは810円の安売りで売っていた、アイヴズのオーケストラ作品集。アイヴズ(1874~1954)はアメリカの作曲家。そのなかのThe Unanswered Qestionという曲を何回も聴いた。タワーレコードが企画販売したCDでBMG JAPAN制作、その解説(宮澤賢哉)は次のようにこの曲のことを記している。

エール大学を卒業後、彼はニューヨーク大学の法科の夜間に通いながら、保険会社を設立し起業する。そして余暇に作曲を行っていたのであるが、1906年にアイヴズは、二つの短いオーケストラのための小品を作曲している。その一つがこの「答えのない質問」である。アイヴズの革新的な創作の先駆けとなった作品といえる。弱音器を付けた弦楽器が“何も知らず、見ず、聞かない一預言者ドルイド僧の沈黙”を表す美しいコラールを奏でる中、ソロ・トランペットが7回“存在の永遠の質問”を繰り返すといった象徴的なドラマを描いている。この問答は激しく活発になり衝突するが、最後には平静な孤独の中に沈黙が訪れる。

これを読んでいて、泣きたいほどもどかしい解説であると思った。わめきたくなるといったほうが正確かも。でもこんなのに文句をつけるのはよそう。私が言いたいのは“  ”の引用のことである、どういうことか、すごく知りたくなるのに、なにも言ってないと等しい。どこからの引用ですか?存在の永遠の質問とは?預言者ドルイド僧などについて、激しく知りたくなるのに、宮澤さんは何も書いてくれない。「最後には平静な孤独の中に沈黙が訪れる」、よく言うよ。これはどういうことですか?意味不明の文だ。平静な孤独?
孤独の中に沈黙が訪れる?馬から落馬したのか?解説など読まなくともいい、ということにはならない、アイヴズなど名前だけは知っていて、そのCDが廉価だから買ったという私のような者もほかにいないとは限らない。そういう愛好家にとって「解説」は必要です。

Wikipediaから参考になりそうなところを引用しておく。

○ Ives had composed two symphonies, but it is with The Unanswered Question (1908), written for the highly unusual combination of trumpet, four flutes, and string orchestra, that he established the mature sonic world that would become his signature style. The strings (located offstage) play very slow, chorale-like music throughout the piece while on several occasions the trumpet (positioned behind the audience) plays a short motif that Ives described as "the eternal question of existence". Each time the trumpet is answered with increasingly shrill outbursts from the flutes (onstage) — apart from the last: The Unanswered Question. The piece is typical Ives — it juxtaposes various disparate elements, it appears to be driven by a narrative never fully revealed to the audience, and it is tremendously mysterious. It has become one of his more popular works.[12] Leonard Bernstein even borrowed its title for his Charles Eliot Norton Lectures in 1973, noting that he always thought of the piece as a musical question, not a metaphysical one.


○ Starting around 1910 Ives would begin composing his most accomplished works including the "Holidays Symphony" and arguably his best-known piece "Three Places in New England". Ives' mature works of this era would eventually compare with the two other great musical innovators at the time (Schoenberg and Stravinsky) making the case that Ives was the 3rd great innovator of early 20th century composition. Arnold Schoenberg himself would compose a brief poem near the end of his life honoring Ives.
Pieces such as The Unanswered Question were almost certainly influenced by the New England transcendentalist writers Ralph Waldo Emerson and Henry David Thoreau.[8] These were important influences to Ives, as he acknowledged in his Piano Sonata No. 2: Concord, Mass., 1840–60 (1909–15), which he described as an "impression of the spirit of transcendentalism that is associated in the minds of many with Concord, Mass., of over a half century ago...undertaken in impressionistic pictures of Emerson and Thoreau, a sketch of the Alcotts, and a scherzo supposed to reflect a lighter quality which is often found in the fantastic side of Hawthorne."


ということです。アメリカ・ルネサンスの思想家たちの影響を深く受けている、こういう部分が私には面白い。

それに、一つ気づいたのが、Charles Ivesは起業家であり保険業界でも有名な経済人であった。詩人のWallace Stevens(1879-1955)も保険会社の仕事を死ぬまで勤めた。同時代人であり、同じ職に就いていた二人には何らかの交流があったにちがいない。そして、この二人とも、彼らの本業のspare timeに一方は作曲し、一方は詩作した。そしてともに、モダンな作風をアメリカにもたらした。そういうことをもっと知りたいと思った。

you-tubeから。

2008年8月10日日曜日

『白秋』、三崎にて。

昨日は初めて三崎に行った。高貝さんの新しい本、美しい『白秋』出版のお祝いを三崎でやろうということで、三崎の住人でもある新井さんのご案内でいろんなところを回り、お世話になった日であった。高貝さん、福間さん、ぼく。

よく飲み、よく食べ、よく話した。新井さんの、これも美しい本『シチリア幻想行』のシチリアの世界とは、もちろん異なるが、なぜか、ぼくは新井さんが描いたシチリアの光と闇を三崎の海に重ねていたようだ。

すばらしい一日だった。

(城ヶ島から見る三崎漁港)
 
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(白秋記念館)
 
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(白秋歌碑)
 
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(バスを待つ)
 
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