2008年6月29日日曜日

高貝弘也『白秋』を読む。

宛名のない手紙

 高貝弘也の『白秋』(書肆山田)を読む。この手紙形式で書かれた北原白秋の「童謡」についてのエッセイの美しさは比類がない。対象への純粋な愛情がどの行文にも静かに秘められていて、それが読む者の胸をまっすぐに打つ。ここには高貝という稀有な詩人だけが発見できる詩人白秋の「現代的」な意義があるのだが、そのことについては後日ゆっくり考えてみたい。
わたしは、ただ幼いときから、白秋の童謡になじんできただけのものです。けれどもこれから、白秋の高く広い世界へ、あなたとともに足を踏み入れようとしています。それは、迷ってばかりの堂々巡りが関の山かもしれません。せめて、トンボの眼玉に潜りこんで、千も萬もの小人と一緒に、言葉の光を内側から覗きたい…と思いながら、この寄る辺ない文をはじめます。何かにつけて、あなたの感じ方と違っている点などあるかもしれません。そのつどお知らせ願えましたならば、真に幸いに存じます。      不一

「第一通 三月の柳川」の最後の文である。「あなた」と呼びかけられているのはわれわれ読者。「トンボの眼玉」は白秋の第一童謡集『トンボの眼玉』の巻頭詩篇から。基調となる高貝の文体は以上のようなものだが、私はそれを「呼びかけ」の文体と呼んでみたい。その「呼びかけ」は手紙形式ということで採用されたものかもしれないが、それ以上に、高貝弘也という詩人に固有のものであると私は考えている。彼の詩には、虚空に呼びかけるという趣(粗雑な言い方だが)が、いつも感じられる。応答の彼方にあるものに呼びかけるから、普段の詩人はいつも寡黙すぎるほど寡黙なのだ。もちろん、詩人は「何かにつけて、あなたの感じ方と違っている点などあるかもしれません。そのつどお知らせ願えましたならば、真に幸いに存じます」というように応答を拒否しているのではない。私は彼の詩とエッセイを混同しているのだが、それを承知で書いている。

引用文より前に、「前略」と題された文章がある。私は、―「あなた」と呼びかけられているのはわれわれ読者―と先ほど書いたが、正確には「前略」には次のようにある。

これら十一通の手紙は、宛名のない手紙です。
ささやかなこの書物をひもといてくださる、
あなたへ宛てた手紙です。
そして、あなたは、白秋でもあります。


なぜ、わたしたち読者は白秋でもあるのか。それは「白秋」という筆名が偶然に文学仲間たちとのくじ引きで採用されたものであり、そのことで北原「隆吉はたちまち無名性を帯びはじめ」「普遍的な世界へとつながった」、それゆえ―「白秋」とは、単に個人名や固有名詞ではありません。/そう、白秋は、あなたでもある」―からだ。「前略」は以下のように結ばれる。

 

 だから、これらの手紙は、宛名のない手紙です。
 なによりも詩と童心を愛する、
 あなたへ贈る手紙です。

 
 私には、これは高貝弘也の自作詩の解説としても読めるということを言いたい気持ちがあるが、それはさておいて、「白秋」という無名性の他者、「なによりも詩と童心を愛する」あなた、という規定が、このエッセイの美しさを保証するものになっているということを確認したいのである。そして、この宛名のない手紙は、たしかに「届いた」のである。

 「詩と童心を愛する」ということにこだわる必要はない。彼方にあるもの、それが「詩と童心」だと私はとらえる。それに、かそけく呼びかけること。その応答を決して期待しないこと。呼びかけ自体が「言葉の光」となるまで。

 

 赤い鳥、小鳥、
 なぜなぜ赤い。
 赤い実をたべた。

 白い鳥、小鳥。
 なぜなぜ白い。
 白い実をたべた。

 青い鳥、小鳥。
 なぜなぜ青い。
 青い実をたべた。


私は、この書物を終りまですべて読んだわけではない。まだ、その「第六通 マザー・グースは天の配剤か」までだが、一貫して、玲瓏とした美しさ、という言葉を思っていたのである。

2008年6月28日土曜日

連詩『卵』8


ねむれない夜、
わたしから遠く、夜のはてを
鳴きながらわたってゆくものがある
あれは何だ、夜明けを知らせる鳥のような
かすかな光を運んでゆくいのちの歌声のような
天に近く、ねむれない私からはるかに遠く、         (豊美)
  


出会う卵を割らないように
ゆっくりと歩く。歩きながら見ている
捜索者の夢。暗い通路の先の
水辺に映る
わたしの影の上を
一羽の可憐な鳥が飛ぶ。         (健二)



ヨルダン川の
ヨハネのように
湯殿川の
鵜が羽を広げていたのだ。
呼びかけられている、ただ呼びかけられているのに
卵生の異形のもの、などと思って見慣れた花に目をそらすのだった。   (英己)


(湯殿川 近影)
これは「鵜」ではないと思うが。
 
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城址公園の蓮
 
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2008年6月26日木曜日

連詩『卵』7


片倉の蓮池で翡翠を見た、2度目だ。
望遠レンズのカメラたちもじっと見つめている。
とても小さな、それでいて梅雨空を輝かせる宝玉。
水面に垂れている細い枝に軽く止まっていたが、
水に突っ込むと、スーッと空に上昇して行った。
そのことを思っていた、その姿も。          (英己)


ねむれない夜、
わたしから遠く、夜のはてを
鳴きながらわたってゆくものがある
あれは何だ、夜明けを知らせる鳥のような
かすかな光を運んでゆくいのちの歌声のような
天に近く、ねむれない私からはるかに遠く、         (豊美)
  


出会う卵を割らないように
ゆっくりと歩く。歩きながら見ている
捜索者の夢。暗い通路の先の
水辺に映る
わたしの影の上を
一羽の可憐な鳥が飛ぶ。              (健二)


(日記)

友人や知人の詩集、エッセイ集、翻訳などがこぞって上梓された。わが身の怠惰を恥じるのみ。
当分は、これらを読むことに没頭しよう。

2008年6月25日水曜日

連詩『卵』6


成城学園前から千歳船橋へ
千歳船橋から千歳烏山へ
バスで移動した。
ちがう街の空気、穴と割れ目の
隠し方をそれぞれに工夫しているから
卵にむかう理由も変化する。         (健二)


片倉の蓮池で翡翠を見た、2度目だ。
望遠レンズのカメラたちもじっと見つめている。
とても小さな、それでいて梅雨空を輝かせる宝玉。
水面に垂れている細い枝に軽く止まっていたが、
水に突っ込むと、スーッと空に上昇して行った。
そのことを思っていた、その姿も。          (英己)


ねむれない夜、
わたしから遠く、夜のはてを
鳴きながらわたってゆくものがある
あれは何だ、夜明けを知らせる鳥のような
かすかな光を運んでゆくいのちの歌声のような
天に近く、ねむれない私からはるかに遠く、         (豊美)


(日記)
新井さんの、この詩を読むと、胸がザワザワする感じになる。むろん、その反対の、寂しさの極とともにだが。

小林多喜二の『蟹工船』を読んでいる、そのなかに、次のような描写がある。

昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い海霧(ガス)が一面に―しかしそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの覆いの裾がバタバタとデッキをたたいた。
「兎が飛ぶどォー 兎が!」誰かが大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
 もう海一面、三角波の頂がしろいしぶきを飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上がっているようだった。――それがカムサッカの「突風」の前ブレだった。にわかに底潮の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今までに右舷に見えていたカムサッカが、分からないうちに左舷になっていた。


 これを読みながら、私は昨日の漁船の遭難のことを思った。この描写の力はすごい。テレビなどのメディアの「報告」や気象士たちの解説よりもリアルだと思う。「兎が飛ぶどォー 兎が!」というのは、危険な三角波が「兎のように飛び跳ねている」という点から言えばメタファーだが、しかし私はそのようなのんびりとした類似性をここには感じない。これは、三角波のあだ名に相違ないのであって、これはメトニミー(換喩)であろう。劣悪で過酷な仕事に縛りつけられた貧しい漁夫たち、東北の山村から、背に腹はかえられぬ思いで、この仕事に飛び込んだ彼らにとって、この三角波を呼ぶにもっともふさわしい名である。意味も何もない(いや、それを奪われた)環境のなかで、そこにただ存在するものに向き合い、生存のために、それらと、ときには協働し、ときにはそれらと戦うとき(こちらのほうがすべてだろうが)、それらの適切な比喩をぎりぎりのところで案出すること、そういう実践が、実は小林多喜二の『蟹工船』のテーマである。

2008年6月24日火曜日

Night Journey

Night Journey


Now as the train bears west,
Its rhythm rocks the earth,
And from my Pullman berth
I stare into the night
While others take their rest.
Bridges of iron lace,
A suddenness of trees,
A lap of mountain mist
All cross my line of sight,
Then a bleak wasted place,
And a lake below my knees.
Full on my neck I feel
The straining at a curve;
My muscles move with steel,
I wake in every nerve.
I watch a beacon swing
From dark to blazing bright;
We thunder through ravines
And gullies washed with light.
Beyond the mountain pass
Mist deepens on the pane;
We rush into a rain
That rattles double glass.
Wheels shake the roadbed stone,
The pistons jerk and shove,
I stay up half the night
To see the land I love.

今日はRoethkeレトキーの「大地讃頌」ともいうべき詩。暗い感じの詩ばかりではない。M先生と読んだのは、Lost Sonという極めつけの暗い詩で、そのとき、Mさんが言った、これは、失われた息子、ということではなくて、父を喪った息子の側からの詩です、という言葉を今も覚えている。父を喪失した息子なのだ、レトキーは、というのが今も覚えているぼくの、そのときの感想。

レトキーはその生涯で何回も精神的な疾患で入院をくりかえした人。
父親は15歳のときに亡くなっている。ドイツからの移民で、ミシガンに住んだ。農場を経営した人だ。ネットで読んだ彼の年譜によれば、新婚旅行はヨーロッパを回ったらしいが、そのときにW.H.オーデンのイスキアにあるビラに泊まったなどとあった。彼の詩はシルビア・プラスなどにも大きな影響を与えたということです。アメリカの作曲家によって、付曲された詩も幾つかある。you tubeから、night journeyを聴いてみよう。作曲家はぼくの知らない人。学生たちのコーラスのようなもの。

2008年6月23日月曜日

The Waking

The Waking        

I wake to sleep, and take my waking slow.
I feel my fate in what I cannot fear.
I learn by going where I have to go.

We think by feeling. What is there to know?
I hear my being dance from ear to ear.
I wake to sleep, and take my waking slow.

Of those so close beside me, which are you?
God bless the Ground! I shall walk softly there,
And learn by going where I have to go.

Light takes the Tree; but who can tell us how?
The lowly worm climbs up a winding stair;
I wake to sleep, and take my waking slow.

Great Nature has another thing to do
To you and me, so take the lively air,
And, lovely, learn by going where to go.

This shaking keeps me steady. I should know.
What falls away is always. And is near.
I wake to sleep, and take my waking slow.
I learn by going where I have to go.



about Theodore Roethke

BIRTH:
Saginaw, Michigan, 25 May 1908,
to Otto and Helen Huebner Roethke.

EDUCATION:
A.B., University of Michigan, 1929;
M.A., University of Michigan, 1936;
Harvard Graduate School, 1930-1931.

MARRIAGE:
3 January 1953 to Beatrice O'Connell.

AWARDS:
Guggenheim Fellowship, 1945, 1950;
Eunice Tietjens Memorial Prize (Poetry magazine), 1951;
Ford Foundation grants, 1952, 1959;
Pulitzer Prize for The Waking, 1954;
Fulbright grant, 1955;
Bollingen Prize, 1959;
National Book Award for Words for the Wind, 1959;
Shelley Memorial Award, 1962;
Litt. D., University of Michigan, 1962;
National Book Award for The Far Field, 1965.

DEATH:
Bainbridge Island, Washington
1 August, 1963.

土曜日の報告で、レトキーの詩のことを書いた。そこでレトキーを「検索」にかけたら、一杯引っかかった。彼のThe waking、目覚めとでも訳すのだろうか、その詩の数行をどこかで読んだことがあることを思い出した。ぼくはMさんに教えてももらったことがレトキー経験の最初だと思っていたが、実は、カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」の序章、「語り手」がドレスデン再訪のことを語るのだが、そのときに出てきていたのである。伊藤典夫訳のハヤカワ文庫。ドレスンに向う飛行機の中で、読むための本として、「語り手」が用意した二冊の本の一冊として。訳ではこうなっている、「わたしは機内で読むつもりで二冊の本を持ていた。ひとつはシオドア・レスケ詩集『風に捧げる言葉』、つぎの一節はそのなかに見つけたものである―

わたしは眠りのなかに目覚め、目覚めをゆっくりと受け入れる
わたしはおそれから切りはなされて、わたしの運命を感じる
わたしは行かねばならぬところへ行くことによって学ぶ  」

この詩の基本的な調子をうまく言えないのだが、単純な「目覚め」ではなさそうだ。よくわからないままに書いているのだが、詩人は自らをThe lowly worm 、低級な虫にたとえているのではないか。螺旋の階段を這い上がってゆく虫、その虫に、たとえば光が樹を把捉するようなことが訪れるのであろうか、訪れるとしたらいかに?だれもそのことをわれわれに告げることのできるものはいないのだ。それでも、あるいはそれゆえに、ゆっくりと目覚めを受け取らなければならない。「わたしはおそれから切りはなされて、わたしの運命を感じる」という伊藤典夫の訳はおかしいと思う。強いて訳すなら、「私は私が畏敬できないもののなかに、私の運命を感じる」というのではないか。ここには、神は大地を祝福する、というフレーズも出てくるが、その神に比べてI cannot fear ということだろう。神はあくまでも畏れの対象である。

全体が、さわやかな「目覚め」の印象を与えるというようになっていないところが、この詩の特異さである。自分の身近で、常に脱落し、すべりおちてゆくものを知らなければならない、虫の上昇と滑落のイメージ、そのために「いかねばならぬところにゆくことを通して学ぶ」のだ、だがしかし、そことはどこか?ただ言えることは、そのような「振動」が、この私、いつも暗闇に横たわっているかのような私を「正気」にする、それが、レトキーのいう「目覚め」であろう。

私のパラフレーズと解釈は、たぶん当たってはいない、それよりも、この詩の技巧(ライムやアリタレーションなど)の見事さを味わいたくなって、誰かが朗読したものはないかと、you tubeを検索したらありました。この朗読と映像は標準以上だと思う。


2008年6月22日日曜日

暗がりのなかを歩いている(「詩を語る夕べ」№1)

昨日はサウナの中にいるような一日だった。午後7時からの、『奏』での福間さんとの「詩を語る夕べ」のことを思いながら、午後のどんよりとした晴れ間に湯殿川の道を一時間あまり散策した。そのとき考えていたのは、増水した川の流れや土手に咲く姫女苑や、沼の花菖蒲などの、そこに、ただ「存在するもの」の強さと変わりなさといったようなことだったかもしれない。

5時すぎに片倉を出て、6時から久しぶりの『奏』で、福間さんと簡単に話の内容の打ち合わせをする。恵子さんがキッチンで働いていた。荒川洋治の書いた、詩のことばの読まれなさ、といったようなものを土台にして、ぼくは質問の内容を考えていた。荒川の言う、「昔は詩にとって、詩の言葉にとって幸福な時代だったがゆえに、凡庸なものでも読まれたが、今はそうではない。社会から見捨てられてしまった。しかし、それだからこそ却って詩にとっては、その読まれなさから何かが生まれてくるはずで、逆に詩のことばを捨てた社会は変なことが起こる」というような捉え方のユニークさをおさえながら、その昔と今という時代のきり方について疑問を呈したりしていた。

7時過ぎに、雨の中を、小峰さんが最初にやってきた。服部さん、松方さん、小貫さん、西田さん、小山さんの福間塾の面々。それに南谷君、かをりさん、ぼくの知人の高橋君、など。遅れて新井さんも参加してくださった。ぼくが名をあげるのを忘れている人がいたらごめんなさい。

Poetryの経験などについて、あるいはその場所などについて。いつの時代でも、poemを書かなくとも、poetryを感じて、生きる人や場所などがあるはずだというようなこと。そのことが、そのひとの「抵抗」として、時代や社会を生き抜いてゆくことの支えにどこかでなっているのではないか。「詩」以上の「詩」として。秋葉原のあの青年は、そういうものを持てなかった、なぜ持てなかったのか?どんなに見事な社会学的な「解釈」「説明」でもとらえきれないものがあるのではないか。

たとえば、宗教詩などといわれるミルトンの詩やその生き方などに、もしかしたらこの袋小路を照明するなにかがあるのではないか、これは福間さんの最近の読書からの発言だが。
ミルトンは盲目であったという。その盲目のイメージを大切にしたいということを福間さんは述べていたように思う。「暗がりのなかを歩いてゆく」ということの大切さ。その先にはなにがあるだろうかなどということではなくて、歩くこと自体が光への希求、祈り、になること、それが「詩」なのではないか、ということなど。ぼくのパラフレーズもここには交じっているが、大方こういう発言ではなかったか。

後半では南谷君の実践を聞いた。彼が教えている塾で試みたこと。次のアメリカの詩人レトキ、これはぼくも大好きな詩人だが、彼の詩を小学生に示して、彼の詩をグリッド状にして、ということはポイントの言葉を空欄にして、そこに小学生たちに新たな言葉を入れさせた。すると天才的な詩人がひとり生まれたのだが、その小学生自身の詩は、南谷君がこの7月、首都大の瀬尾さんのゼミで、この試みとともに発表するということだから、ここには書きません。昨晩は、もちろん、その小学3年生が穴埋めした、その詩も朗読された。レトキの次の詩の( )のところを空欄にしたものを配り、そこに新たな言葉を、南谷君の適切なアドヴァイスとともに入れさせるという試みだ。

嘆き          セオドア・レトキ

私は知っている、(筆箱)にきちんとならんだ(鉛筆)の
そのままである悲しみを、(便箋)や(文鎮)の嘆きを、
(マニラ紙)の(紙鋏)や(アラビヤ糊)のあらゆる惨めさを。
塵ひとつない純白の(公共施設)や、
無人の(応接室)、誰もいない(トイレ)、寂しい(配電盤)のわびしさを、
(洗面器)と(水差し)、
(コピー印刷機)、(紙クリップ)、(句読点の儀式)、
生命や事物の果てしない複製の拭いがたい哀感を。
そして私は見たのだ、(病院)の(壁)の(埃)が、
(小麦粉)よりも細かく、生命をもち、(珪砂)よりも危険に、
ほとんど人目にも触れず、長い午後の
退屈の篩にかけられて、
(爪)や細い(眉毛)にうっすらと膜を落とし、色の抜けた(白髪)に、
ありふれた複製の灰色の(顔)に上塗りをかけるのを。



その小学生が入れた言葉を復元する誘惑に抗しがたくなるほど、あっという鮮烈なものだったが、面白い試みである。南谷君は(  )以外の難しい漢字を平仮名にひらいたりして書かせているが、全体はこれと同じものだ。ちなみに高校生の作品はその小学生に比べて面白くなかったと彼は語った。

こういう試みも、詩のことばのはじめての経験として、大きな影響をその小学生にもたらすかもしれないと感じた。

新しく『奏』のメニューに加わった恵子さんお手製の美味なる料理を食べ、飲み、八王子の最終の横浜線に乗って帰った。

2008年6月20日金曜日

連詩『卵』5


雲の上、太陽の黒点が増えてゆく
路面にあいた無数の穴が土色の水を溜めている
男は交差点を左折して
向い側の白い壁の割れ目に入っていった
パソコンに向かうと
色のない夢の中のように体が冷えてくる      (豊美)


成城学園前から千歳船橋へ
千歳船橋から千歳烏山へ
バスで移動した。
ちがう街の空気、穴と割れ目の
隠し方をそれぞれに工夫しているから
卵にむかう理由も変化する。         (健二)


片倉の蓮池で翡翠を見た、2度目だ。
望遠レンズのカメラたちもじっと見つめている。
とても小さな、それでいて梅雨空を輝かせる宝玉。
水面に垂れている細い枝に軽く止まっていたが、
水に突っ込むと、スーッと空に上昇して行った。
そのことを思っていた、その姿も。          (英己)




白眼断片

いろんなことが雑然と目の前に浮かんでいて、まとまりがつかない。強いてまとまりをつけるようなものやことではないにしても。火曜日だったか、宮崎勤の刑が執行されたが、それに関して翌日の朝日新聞に大塚英志が寄稿していた。ここ20年で失われたものは、この社会自らが、「事件」の責任主体として考える、という姿勢、そういう姿勢の喪失であるというような論旨だった。ネオリベの高揚と市場原理の制覇で、格差や勝ち負けこそが、シビアで「現実」的かつ「理性」的であるかのような考えの趨勢が社会の成員すべてを覆いつくした20年であったのかもしれない。そこから、戦争こそが希望であるというような、その論旨はそれなりに納得的ではあるが、過激な論が、90年代の、いわゆる「失われた世代」から提出された。

もと右翼のパンクロックに身をやつしていた少女は『生きさせろ』を書き、不安定な雇用(雇用形態の自由化という資本の勝利の反面)に命を削られるプレカリアートたちの女神、代弁者になる。こういう変化に私が反対する理由はなにもない。一方で薬害問題に積極的に取り組み、その元凶を追いつめた女性のニュースキャスターは、見るも無残な国家主義者に変貌した。

都知事は、その居直り主義と無反省の極みをどこまでも突き進むのが己の生きる道であるかのように、今なお他を批判しつつ、己がしたことすべてを「棚上げ」して、しかもそれを人に拝めと言わんばかりである。

朝日の「素粒子」が、昨日か、鳩山法相を痛烈に批判した。彼に「死に神」というあだ名を捧げたのである。それを読んで、溜飲が下がったのは私ひとりではないはずだ。「**鬼」といわれるよりはましであろう。
好きな蝶のコレクションでもしていればいいのに、どうして、こういう人が、大臣などになるのだろうか。それも、「死刑」というような国家の刑罰をいまだに残している野蛮な国の所轄の大臣に。

グリーンピースの成員で、調査捕鯨で捕った鯨肉の一部が、お土産のようなものとして、船員やその会社の人たちに配送されていることに腹をたて、配送会社の倉庫から、その送られる鯨肉を「証拠」として、持ち帰った二人が、逮捕された。盗みと建造物侵入の罪に問われたのである。日本グリーンピースの代表、星川淳はこれに対して抗議した。二人は逃亡することはなく、そもそもこれは悪の「証拠」として押収したものであると。私も逮捕されるようなことではないと思う。思うが、このグリーンピースのやりかたには反対である。
お土産として、調査捕鯨に参加したすべてのものや、その所轄の官庁の幹部などにも、鯨肉は配られたことはだれがみても明白なことであろう。それが日本のやり方。そのことをだれも悪いこととは思っていないし、ここにはノスタルジアをふくめて「鯨肉文化」というのもあるくらいだから。それらを欧米流のグリーンピースのやり方で、即破壊しようとしても不可能なのではないか。逮捕したのは、サミットを前にした過剰警備の始まりであることだけは確かだ。(星川淳は、私の記憶によれば、屋久島在住の英文学者で、alternativeなアメリカ先住民の文化などの研究で知られた人だ、私は彼がグリーンピースの日本代表であることを今日はじめて知った。)

2008年6月19日木曜日

twice-born

 魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を拾い読みしていたら、ウィリアム・ジェイムズについての章のなかに、次のようなことが書かれていた。

 ジェイムズはその著『宗教的経験の諸相』(1902年)のなかで、人間にはふたつのタイプがあると書いた。もちろん、このタイプは理念的に抽象化された、それであって、ほとんどの人間はその中間に属しているという留保をつけながら。ひとつは「健全な心」の持ち主であり、もうひとつは「病める魂」の持ち主である。この二つの類型化のもとにあるのは、イギリスの神学者、フランシス・W・ニューマン(1805-97)の「一度生まれ(once-born)」と「二度生まれ(twice-born)」という二つの系統の子を神はもうけた、という考えらしい。

 つまり、「健全な心」の持ち主は、ニューマンのいう「一度生まれ(once-born)」にあたり、「病める魂」の持ち主が「二度生まれ(twice-born)」に属するのである。前者の特徴は「万物を善きものとして楽観的にみる傾向をもち、いわばただ一度この世にうまれただけで幸福になることのできる人」であり、後者は「この世を悪いものとして悲観的にとらえる傾向をもち、幸福になるためには、もう一度うまれかわらなければならない人」である。

 「一度生まれ(once-born)」の代表選手として、ウィリアム・ジェイムズが挙げているのは同国人の詩人、ウォルト・ホイットマンである。「彼にとっては、草や木や花、小鳥や蛙、空の様子、…森羅万象が魅力を持っていた。彼はいかなる国籍や階級の人も、世界史のいかなる時代も非難せず、…天候や病気、その他なにごとについてもけっして不平をいわなかった。彼はののしることをせず、恐怖をおもてにあらわしたこともない。そもそも恐怖を感じたことがあるとは思えないほどだった」というのはホイットマンの弟子の言葉である。哲学者としては、スピノザを挙げている。これはもっともだと思える。

 「二度生まれ(twice-born)」の代表選手としては、聖アウグスティヌスが取り上げられる。宗教者の前身はたいてい破戒無慚なものだが、その典型としてオーガスティンが挙げられているのだろう。このタイプは「回心」conversionという第二の誕生が、その生のなかで設けられているので、見やすい。それゆえ、生まれかわる必要はないのではないかとも思ってしまうけど。一身にして二生を経たということか。あと、トルストイの回心にもジェイムズは触れ、ト翁も「二度生まれ(twice-born)」のタイプに整理している。

 今日は太宰治の命日、「桜桃忌」。この自殺未遂の偏愛者はたしか13日に入水したのだが、その遺体が確認されたのが昭和23年の今日である。ウィリアム・ジェイムズが彼のことを知っていたなら、まぎれもない「二度生まれ(twice-born)」の代表選手として彼を特筆しただろう。彼は「生まれてすみません」というのだから、その前世においても苦悩の旗手だったのであり、三度、四度生まれ変わっても、彼の嘆きは尽きることがないだろう。そういう意味で、稀有な人物であり、その徹底さが、いつの世でも、悲嘆にくれるものの味方になる。

2008年6月18日水曜日

連詩『卵』3、4


わたしは生きる、と書いたあとに
撮影所に出る川べりを歩いている。
ひとつの主題として
梅雨空の下の容器から
音楽のなかに卵をとりだす。その前に
黒い点となって消えようとする人影を追った。 (健二)


蜜蜂たちの大量失踪の映像を見たあとに
受粉を待つ雌蕊のことを思った。
果実、卵、すべての無言の形が消えて、白い
鋼の色が叫んでいる交差点。
「ないということさえない」破れた殻のなかに
小さな鼓動とかすかな蜜の味、浅い朝に。  (英己)


雲の上、太陽の黒点が増えてゆく
路面にあいた無数の穴が土色の水を溜めている
男は交差点を左折して
向い側の白い壁の割れ目に入っていった
パソコンに向かうと
色のない夢の中のように体が冷えてくる      (豊美)


成城学園前から千歳船橋へ
千歳船橋から千歳烏山へ
バスで移動した。
ちがう街の空気、穴と割れ目の
隠し方をそれぞれに工夫しているから
卵にむかう理由も変化する。         (健二)



(ノート)
連詩の掲載の仕方を考えている。いつでも三つの詩が読めるように載せるほうがいいかなと思う。つまり、三名の、そのとき一番新しいものが、最後に来るようにして、掲載してみようかなと。あまり長くなると、読むほうもだれるのではないか。次回からためしてみる。

(日記)
21日に、福間さんが書いたように、国立の『奏』で、7時から『詩を語る夕べ』をやるのだが、そのときの話の糸口になるような質問を考えている。たとえば、

<近くから>
①ぼくたちにとって、詩を書く、詩を読むというのは、どういう経験でしょうか?
②その経験にはどのようなリアリティ、アクチュアリティがありますか?
③「詩」について、まず思い浮かべることは、どういうことですか?
④「詩」以上の「詩」というのはあるでしょうか?
⑤読まれないといわれる現代「詩」を読むことの意味は?書く人はそれでもいますが。


<遠くから>
①詩(文学)・映画・思想、これらを横断するイメージがありますか?
②最近の事件について、たとえば秋葉原での「事件」、どう考えますか?そのことは「詩」を書くこととどうつながり、あるいはつながらない、と考えますか?
③この「社会」は、60年、70年、80年、90年、現在と構造的な変化をきたしていると思いますか?私はそう思いますが、そのことは上の事件や、「詩」をめぐる状況とも大きな関係を持っていると思います。そのことについて、ご意見があれば述べてください。
④今の自己を支える、あるいは支えになるかもしれない「何」かが、ありますか?どんなことでもいいですから、あれば答えてください。




 

2008年6月17日火曜日

The Blessing

The Blessing

Just off the highway to Rochester, Minnesota,
Twilight bounds softly forth on the grass.
And the eyes of those two Indian ponies
Darken with kindness.
They have come gladly out of the willows
To welcome my friend and me.
We step over the barbed wire into the pasture
Where they have been grazing all day, alone.
They ripple tensely, they can hardly contain their happiness
That we have come.
They bow shyly as wet swans. They love each other.
There is no loneliness like theirs.
At home once more,
They begin munching the young tufts of spring in the darkness.
I would like to hold the slenderer one in my arms,
For she has walked over to me
And nuzzled my left hand.
She is black and white,
Her mane falls wild on her forehead,
And the light breeze moves me to caress her long ear
That is delicate as the skin over a girl's wrist.
Suddenly I realize
That if I stepped out of my body I would break
Into blossom.



James Wright(1927-1980)というアメリカの詩人の詩。シンプルで美しい。自然との出会い、こういう詩はもう今の日本の詩にはほとんど見られないのだろうか。

2008年6月15日日曜日

詩を語る夕べ

詩を語る夕べ

福間健二・水島英己

第1回 2008年6月21日 土曜日 19時~21時
ときどきものすごく、詩について、真剣に、思い切り語りたい、という気持ちになりますが、考えてみると、自分の生活のなかで、そういう機会が自然に発生するのは、まれになってきました。水島英己さんと相談して、月に一度のペースで「詩を語る夕べ」を持とうということになりました。場所は、朗読会をやってきた「奏」です。


どういうふうに進めてゆくかは、やってみないとわからないところもありますが、とにかく、わたしと水島さんで話題の口火を切り、それから自由に語りあうというかたちにします。詩に関心のある人、詩の好きな人、もっと一般的に表現をすることの深い孤独がわかっている人なら、だれでも参加できます。(各自が、普通のお客さんとして飲み物・食べ物を注文してください。それ以外のカンパなどは必要ありません。)


その回ごとのテーマを、ゆるいかたちでも決めていった方がいい気もしますが、とりあえず、第一回は、水島さんが、詩をめぐる、わたしや参加者のみなさんへの質問を用意してくれることになっています。そこから、次は、特定の詩人や詩集やテーマに焦点をあてようということになれば、そうなっていいし、そうならなくてもいいという感じでやります。


ひとつ、頭にあるのは、ウェールズにいたときに体験したパブでの詩の会です。『詩は生きている』に入れたエッセイで書きましたが、参加者が(だいたいビールを飲みながら)自分の読みたい詩(自作ではない)を読んでゆくのです。意見を言うよりも、自分はその詩が好きだ、その詩が自分にとって大切なものだということを、朗読で表現するのです。そういう詩を(できればコピーをつくって)用意してきてもらうのもいいかな、と思います。


もうひとつ。わたしの個人的な問題として、わたしは、詩、映画、英文学、思想的な問題へのとりくみを、なにかまとまりがつかないようにやってきたということがあります。そこにつながりができるように、いままでに試みていなかった角度から詩と詩論の領域を横断する仕事を、これからやりたいと思っています。そのために考えていることを話したいとも思いますし、それについて意見や感想を聞かせてもらいたいです。どうぞ、よろしく。  (福間健二)


*詩を語る夕べ 第2回 7月19日 土曜日 19時~21時

*FARM朗読会     8月3日 日曜日 17時~ (福間健二・新井豊美・水島英己) 

場所 音楽茶屋「奏」(電話 042-574-1569)



 以上は、これからの予定です。福間さんが「ちらし」に書いたものを、ここにも載せておきます。ぜひみなさんのご参加をお待ちしています。

(閑話休題)
昨晩、ひさしぶりに大酒を飲んでしまった。三次会までやり、もっとも最後の三次会は自分ひとりで、友人の奥さんがやっている小さなバーに行ったのだが、友人もいて、なにを喋ったかよくわからないほどだった。今日は昼近くまで二日酔いで寝ていた。昨晩、息子が家に寄って、夕飯を一緒に食べたらしい。ぼくへのプレゼントということで、高田渡のライブのCDが置いてあった。息子の漣さんがスチールギターで伴奏をしている。03年4月23日、NHK-FM「ライブビート」でオンエアーされたものが音源である。公開録音。落語家のような語りと、野太い声、正確なギターの音、絶好調の高田渡がここにはいる。彼は05年4月に急逝するが、その前のライブとしてはこれほどの曲数と自在な語りなどで、「伝説」となるまでの素晴らしさだ、と当時のNHKの担当ディレクターが自讃しているが、それもそうだと思える。聞いているうちに、今晩は休肝日にしようと思ったが、飲みたくなって、女房に見つからぬようにそっと泡盛を入れて二階に上がる。

聴きながら考えたのは、ここで歌われている「詩」としかいいようのないもののことである。山之口獏や黒田三郎、菅原克己、谷川俊太郎らの「詩」が歌われるが、その歌とは高田渡の、その詩に対する解釈にほかならず、優しい批評と言ってもいいが、それを含めた全体が、一つの新たな「詩」になっているのである。小難しい理屈などを高田は嫌うだろうが、かれの無技巧と聞こえるまでに平易な曲の底には、この人なりの「思想」が一貫している。それは何だろうか?日本のフォーク(ゲリラ)の最良の部分の「孤独」な姿、馴れ合わない、取り込まれない、そういう姿勢をぼくは感じた。

「生活の柄」(山之口貘)を歌う高田渡

2008年6月13日金曜日

ひまわりの花


 13日の金曜日だったが、個人的にはとてもいい日だった。朝早く、宅急便が来た。アメリカ在住の娘から、Father’s dayの贈りものということで、ひまわりの花をもらった。日本の花屋に申し込んで、生花を届けることができるのだそうだ。少しはやいけどと、あとでメールが入った。

 ひまわりの花からの連想ではないが、アメリカの南部を思い出した。娘が住んでいるのはジャクソンビルだ。フロリダ州だが、その象の鼻のようなイメージから言えば、もっと上の大陸部だ。その近辺?の、60年代、70年代の、いわゆる深南部のCivil rights activistsたちの生はぼくには、まさに「ひまわりの花」のそれのように思えてならない。キング牧師をはじめとする活動家たちのなかに、ぼくは今日、よく見るblogではじめて知ったのだが、Medgar Eversという活動家がいた。彼は1963年の6月12日にMississippiの自宅の外で、Ku Klux Klanに以前属していた白人にライフルで暗殺されたということだ。こういう人がほかにも数多くいたにちがいない。自由の太陽を求め、くびり殺された多くの人たち。

 そのblogでは、
The murder of Medgar Evers shocked white America. Young balladeers wrote songs about it... most famously Bob Dylan’s “Only a Pawn in Their Game.” Phil Ochs wrote “The Ballad of Medgar Evers,” and Dick Weissman wrote “Medgar Evers Lullaby.”と書かれていた。

 Bob Dylan’s “Only a Pawn in Their Game.”を聴いてみた。

Only a Pawn in Their Game


Only a Pawn in Their Gamehttp://undercoverblackman.vox.com/

初期のディラン、ウディ・ガスリーのような素朴さと貧しさのなかで、歌おうとするものをまっすぐに見つめているような印象を受ける。歌詞がすべてわかるというわけではないが。

2008年6月12日木曜日

連詩『卵』2、他




わたしは生きる、と書いたあとに
撮影所に出る川べりを歩いている。
ひとつの主題として
梅雨空の下の容器から
音楽のなかに卵をとりだす。その前に
黒い点となって消えようとする人影を追った。(健二)


蜜蜂たちの大量失踪の映像のあとに
受粉を待つ雌蕊のことを思った。
果実、卵、すべての無言の形が消えて、白い
鋼の色が叫んでいる交差点。
「ないということさえない」破れた殻のなかに
小さな鼓動とかすかな蜜の味、浅い朝に。 (英己)




 ワイパーのせわしない動きもフロントガラスを瀧のように流れる落ちる激しい雨に追いつかない朝だった。なんとか山の上の、泥んこになった駐車場まで車を動かした。それでも普段と変わらない通勤時間だったので、電車とバスで行くのに比べると格別にはやい。都に勤めていた頃は、車通勤はきびしく排除されていたので、ここ十年以上車で職場に行ったことはない。これも非常勤のありがたさ。車通勤の届出をすると、ガソリン代もわずかながら出る。

 今日は一日5コマの授業があって、一番疲れる日。気息奄々という状態で、なんとかしのぐ。授業が終わると、雨はすっかり止んでいた。夜は風もない雨後の静けさ。半月が出ている。

2008年6月11日水曜日

連詩『卵』1

FARM(福間健二・新井豊美・水島英己)の連詩を再開します。今までに、『嘆きのとき(05年1月9日~2月8日)』、『白い凪(05年3月16~5月15日)』、『島(05年7月6日~9月26日)』、『秋風秋雨」(10・13 05年 ~1・11 06年)』、『闇(06年3月17日~7月9日)』、『光(9・8 06年 ~12・3 06年)』、『夢見よ、さらに夢見よ(2007/02/10~3/25)』と七編(巻)の連詩を、このユニットで作ってきました。今回は、第八巻(篇)目の連詩です。「芭蕉七部集」を数においては越えてしまうことになります。


今回のタイトルは『卵』です。順番は福間→水島→新井です。巻頭の福間健二の作品を載せておきます。


卵(08年6月9日 ~   )


わたしは生きる、と書いたあとに
撮影所に出る川べりを歩いている。
ひとつの主題として
梅雨空の下の容器から
音楽のなかに卵をとりだす。その前に
黒い点となって消えようとする人影を追った。(健二)

2008年6月10日火曜日

歌を歌う

 今日は、吉田正の命日ということで、nhkの歌謡番組を、97歳の義父と一緒に見る。昭和23年の「異国の丘」に終わる、吉田の歌のメドレー。驚いたのは、80歳過ぎの、三浦光一がまだ生きていて、歌ったことだ。もう、何を彼が歌ったかは忘れてしまった。鶴田浩二の映像もあり、彼が歌う「街のサンドイッチマン」なども聞いた。とても官能的な歌いぶりで、人間もそうである。途中から見たのだが、女房が、ジェロという若者も歌い、キーが合わないようだったが、それをまとめきった歌いかたは、さすがだったというようなことを言った。あとで、ジェロが自分の「海雪」を熱唱するのを聞いた。この歌は、秋元康の作詞だが、この詞はよくない。ただ、直観的にそう感じた。あと、橋幸夫とか三田明、八代など。耄碌が進んだ義父に、一緒に歌おうよと言いながら、最後の「異国の丘」を女房も入れて三名で歌う。老猫がびっくりしていた。一生懸命、回らぬ口を動かして義父も歌ったようだ。

 戦後歌謡史のなかで吉田正の曲はどう位置づけられているのだろうか。ド演歌でもない、またポップスでもないその中間を描き続けてきた人というのが、私の感想である。いわば、「健全なる中間層の健全なる歌」。その幅広さも、そういう中間層(戦後民主主義の担い手たち)の存在があってこそ、だったのだろう。この国の最近の政治は、その中間層をぶち壊しに壊してきた。

 白いハンカチでマイクを清めつつ、小指を立てながら歌う鶴田は特攻隊に連綿とした未練の思いがあったにせよ、吉田正の歌を歌うときが一番幸福だったのではないだろうか。

2008年6月9日月曜日

in Rampage

A 25-year-old man who told the police he was tired of life went on a killing rampage in a popular shopping street in central Tokyo on Sunday, plowing his truck into a crowd of pedestrians before stabbing passers-by with a survival knife. Seven people died and 11 were injured.


Man Kills 7 on Tokyo Street in Rampage
By NORIMITSU ONISHI


上記はThe New York TimesのWeb版での、昨日の秋葉原の事件の報告の冒頭部である。NORIMITSU ONISHI氏という、いつもの日本の寄稿家のそれである。これを最後まで読んでも、この事件の「闇」は明らかにはならない。こういう「報道」のスタイルで終始している、しかしくだらない解説よりも、こちらの後づけにすぎない報告の方で充分だという思いもある。

rampageという語は、あばれまわること、大暴れ、という名詞と、その自動詞として使うと辞書に載っている。in rampageは「暴れ回って」という成句である。即物的な、その定義の底に、すべては閉じ込められれている。明らかになったのは、この25歳の男が、「人生に疲れて」いたことである。それに、今日のニュースによれば事件寸前まで、彼は自らの思いをネット上の記事として、逐一書いていた。それは無残なヒーロー気取りといえばいえるものだが、そのなかで、私が記憶にとどめたのは、「自分がだれからも必要とされていない」という記事だった。

この種の不全感が殺人に結びつく、その短絡さはいくら非難しても足りないが、こういう思いそれ自体は実に当然の思いであると私は考える。その孤立感に耐えて、自らを「他者」化するまでに、「人生に疲れ」ていることが必要な常態であると、今の私はそう思う。でも、ときどきふきあげるrampageの思いは御し難いものがあるが。

どこにも由来を持たない、必然性のない、突然の「死」に出遭った人のなかで、一番若い人は19歳の友人同士だった。殺されたすべての人の無念さは言うまでもない。

昔、アメリカの友人たちとテキサスからメキシコ湾まで南下する旅をしたことがあった。テキサスの州都、オースチンにあるテキサス大学は、友人夫婦の母校である。そこを訪ねたとき、友人が、大学の広場の建造物に残されているいくつかの穴を指して、これが、あの大虐殺(マサカ)のときの銃弾の跡だと教えた。あのときは何人殺されたのだろうか?「無差別」に、大学の塔の上から、銃を撃ったのである。

比較しても意味はないが、こういう「殺人」の底をいくら探しても、それ自体がぽっかり空いた「穴」のような、おそろしく無意味な、ものとことに帰着するのではないだろうか。それらが、この現代の在りようそのものに結びついていることだけは確かな。

2008年6月8日日曜日

古酒(クースー)

先日、友人たちがやってきて飲んだが、そのとき頂戴した酒に、泡盛があった。「瑞泉」だった。それを今日よく見ると43度のクースーではないか。一升瓶。驚いた。そのときは、いろんな酒をみんなで飲んで酔っ払っていたので、よくわからなかった。栓は開いているのだから、飲んだのだろう。でも、ほとんど残っている。なんということか!この酒と、それを持参した友人にもっと敬意を払うべきだったと思いながら、今チビチビこの古酒を味わっているのです。後で「利く」、そういう静かなたたずまいの酒は、ぼくの親友にピッタリだったと今思う。許せ、Sよ。おまえは、あの日はあまり元気がなかったね。ともに定年、ともに現下の生活について、いろいろ話したはずなのに、おまえは口数が少なかった。そういうことを今思い出した、おまえがくれた古酒を飲みながら。

今まで、ぼくらはいろんなことで苦労したのだから、おまえの気持をそのときぼくが測れなかったというだけで怒る仲ではないはずだ。今になって、いつも「事後」に気づくのは、ぼくの悪い癖だとしても。だから、どうというわけではないが、あのときの、いつもにも増して口数の少なかったおまえのことを思いながら、ありがたくこの酒を飲んでいるのだよ。

古酒や、それに類したもの言わぬ古びたものが、最近とみに心に残る。

街に出ると、切りつけられるような世の中だから、家にこもって、古びたものとの「時差」に酔うしかないのかもしれない。どんなに速く泳げたって、それがどうした、イルカやマグロよりも速くは泳げないだろう。水着を変えれば速くなるなら、裸で泳いでみよ。しかし、若い、恐れをしらないスイマーが、自分の速さに自分で驚きながら、少しだけmodestyな表情になっている。北島という男に、ぼくは、はじめて好感を持った。

古びたはずの、某知事はあいかわらず馬鹿で傲慢だ。こんなに成長しない人間というのは珍奇である。この男については、書くだけ自分でもいやになるが、今や最高最大のky(空気読めない)で、「自己責任」を取れない、そして見事なばかりに、人のせいにする、どうでもいい「おじいさん」になった。43度の泡盛なぞ、この男には「もったいない」。

小林秀雄の真似をして「実は、何を書くか判然しないまま、書き始めている」のである、というような偉そうなことは、ぼくには言えないから、泡盛の酔いのせいにしたい。いや、これで実はもう「書き終り」。「実は」後少しで。

Takrankeさんが、Brodskyを思い出させてくれたから、そういうわけでもないが、つれづれにまかせて、閉じこもり老年のなぐさみとして、You Tubeを検索してみた。この地上の言語で、この地上の風景で、ぼくが語れない、でもわかりたい言語、ぼくが見たことのない、でも脚を踏み入れたい風景、それがありすぎるので、ぼくは決して「宇宙」なぞには行くひまがないだろう、そういうことを確信させてくれるのが、次のクリップです。

Brodskyには、もちろんこの地をテーマにした"Watermark"という傑作がある。

では、では、Takrankeさん、はじめ、Sよ、これを見ているなら、この古びた街と、この言語の素敵なコラボレーションを楽しみたまえ。

2008年6月7日土曜日

午後に

 午後に、倉田良成さんから電話があって、tab10号に書いた鈴川さんと小生の詩を谷内修三さんが、そのblog、 「 詩はどこにあるか」(谷内修三の読書日記) (6月3日の記事)でとりあげて、批評しているということだった。早速拝読してみた。鈴川さんの詩はぼくも読んだとき傑作だと思ったが、谷内さんも丁寧な読みで称賛していた。その童話風のなつかしさ、「死」の切り取り方の既視感などに彼は共感しつつ、それで終わったのかと思うと、2枚目があって、「次のページからはじまることばがそんなにおもしろくな」く、「落胆」してしまったと書かれている。この現象、つまり一枚目はよく、二枚目は落胆という感想を、水島の詩でも経験したということを、拙作「湯殿川」という詩も引用しつつ書かれていた。「結論」は、

―― 本を読む。ことばを読む。そのとき、私はたぶん、「結論」を想定していない。ことばが動いて、それが頂点に達したとき、それで「おしまい」と思ってしまう癖があるのだろう。その癖がたまたま2作品で続けて起きただけのことなのかもしれない。鈴川や水島のことばとは関係なく、単に、私の読み方の癖がはっきりしたというだけのことかもしれない。――

 以上のようにまとめられている。ここからは鈴川さんの詩のことではなく、ぼくの詩への谷内さんの言及に対して感じたことを書いてみよう。最初に、ぼくは拙作を取り上げてくださったことに感謝したい。谷内さんの、このblogでの詩批評のエネルギーにはただ敬服するばかりだ。以前、これを見て圧倒されたことがあった。ぼくのような、読めば読みっぱなし、書けば書きっぱなしという怠惰なものには真似ができない営為である。それだけ、詩に対する愛情というものを抱いていらっしゃるのだということを常に感じてきた。

 拙作へも、その前半部に対する過褒というべき言葉を頂いた。これは自分の詩があまり言及されないものとして、喜び以外のなにものでもない。書いていてよかった、こういうふうに読んでくれる人がいたのだと思った。そして喜んでばかりはいられないのが、最後の5、6連目への言及である。「ところが、この詩にも1ページ目(2ページということ、水島註)があった。そして、そこで私はまたしても落胆してしまった。特に最後の6連目に。(引用はしない)」と書かれる。そのあと、「同じ本で、同じことが2度続けて起きた。これは、私にとって、とても不思議なことである。」という一文が続き、先ほど引用した「結論」に至るわけだ。

 ぼくとしては、その「落胆」の理由こそを読みたいのだ、それはこのエッセイの結論部で言いたいことだろうとぼくは忖度するが、あらかじめ「結論」を想定したような書き方になっているというのか、あるいはとって付けたようになっているというのか、要するに「ことばが動いていない」ということが、拙作の「結論」の凡庸さであり、そのことが谷内氏をして「落胆」に至らしめたということなのだろうか?そこがもっと明瞭に書かれ、そのことで拙作が批評されるとしたら、そこのところをこそ、ぼくは傾聴したいものだと思った。

 失礼をかえりみずに言うなら、感激半分、落胆半分の印象をぼくも持ったのである。

2008年6月6日金曜日

夏の歌

2週続けて、南大沢に私用で。今日で終わった。帰りに橋本の山野楽器に寄る。ディーリアスの管弦楽曲集を一つ買って帰る。ジョン・バルビローリ指揮のもの。ずいぶん多くの曲が入っている。解説は三浦淳史。ダウスンの歌はなかったが、ディーリアス入門として聴きたかったので。EMIのCDで邦題は『春初めてのカッコウを聞いて』となっている。
今2枚目のディスクの最初の曲『夏の歌』を聴いている。三浦の解説によれば、この曲はディーリアス晩年(1929年)の曲。青春時代のパリ放蕩の報いで失明と四肢の麻痺状態にあったディーリアスのもとに、同郷の音楽青年エリック・フェンビーがボランティアとして住み込み、ディーリアスの口述をもとに、その眼と手を代行して完成した最初の作品であるとのこと。フェンビーの名著『私の知っていたディーリアス』によれば、『夏の歌』について次のように説明したという。

「われわれはヒースも生い茂っている断崖の上に腰を下ろして、海を遠望するとしよう。高弦の保持された和音は青く澄んだ空とその情景を暗示している…曲が活気を帯びてくると、君はヴァイオリン群に現れる、あの音型を思い出すだろう。わたしは波のおだやかな起伏をあらわすため、その音型を導入しておいたのだから。フルートがすべるように海上を飛んでゆくカモメを暗示する。この冒頭の素材は2つのクライマックスのあいだに再現され、さいごにも現れて静謐のうちに曲を終結へ導いてゆくのだ」。

おそるべし、you tube といおうか。Frederick Delius で検索していたら、ケン・ラッセル監督のDeliusの、これは声だけだが、映画までもアップされていた。フェンビー青年の眼からとらえられた巨匠Deliusのポートレイト。ここには、『夏の歌』の最初の部分が少し聞ける。歌曲ではなく、管弦楽です。

2008年6月5日木曜日

the soldier, his wife and the bum

ブコウスキーの次の詩が昔も今も好きだ。

  the soldier, his wife and the bum

I was a bum in San Francisco but once managed
to go to a symphony concert along with the well-
dressed people
and the music was good but something about the
audience was not
and something about the orchestra
and the conductor was
not,
although the building was fine and the
acoustics perfect
I preferred to listen to the music alone
on my radio
and afterwards I did go back to my room and I
turned on the radio but
then there was a pounding on the wall:
“ SHUT THAT GOD-DAMNED THING OFF!”
there was a soldier in the next room
living with his wife
and he would soon be going over there to pro-
tect me from Hitler so
I snapped the radio off and then heard his
wife say, “ you shouldn’t have done that.”
and the soldier said, “ FUCK THAT GUY!”
which I thought was a very nice thing for him
to tell his wife to do.
of course,
she never did.

anyhow, I never went to another live concert
and that night I listened to the radio very
quietly, my ear pressed to the
speaker.

war has its price and peace never lasts and
millions of young men everywhere would die
and as I listened to the classical music I
heard them making love, desperately and
mournfully, through Shostakovich, Brahms,
Mozart, through crescendo and climax,
and through the shared
wall of our darkness.

 「私」はbumであった、という発語がこの詩のすべてを規定している。この「浮浪者」としての意識はそこに格別の感情のコンプレックスを感じさせることはない。お上品なクラシックのコンサートとの対比をとる必然性のほかには。「私」は安アパートに帰り、ラジオでクラシックを一人で聴くほうを選ぶ。そこからの語りがブコウスキーの本領である。薄い壁と暗闇をこのアパート住人である彼らは分け持っている。それらを介して、「私」たちを守るためにヒトラーとの戦いに出て行かなければならない兵士とその妻の絶望的な愛撫のうめきが聞こえてくる。そこにショスタコービッチやブラームス、モーツアルトの音楽と、兵士とその妻の愛撫のクレシェンドからクライマックスまでのうめきが重なる。

兵士の“ FUCK THAT GUY!”という呪詛の言葉を、文字通りその妻が「私」に対して実践してくれないかというユーモア、そのあとに続く戦争と平和に対する省察、そして何よりもこの詩の白眉であるthe shared wall of our darkness.という最後のフレーズの持つ真実さ。こういうシークエンスをつくることにかけてはブコウスキーにかなう詩人はいないだろう。

you tubeを探していたら、ブコウスキー本人がこの詩を朗読しているものが登録されていた。石川さんにならって、ぼくもはじめてここにそれをリンクしてみる。



朗読しているのは本人だが、このようなアニメ化は、ちょっとね。

2008年6月4日水曜日

狂人走、不狂人走

 湯殿川散歩。一時間余り。連日の雨で濁っているのかと思ったが、そうでもなかった。段差になった滝壷のようなところで、逆流している水にもまれて、サッカーボールが流されることなく、くるくるといつまでも回っているのを眺める。五時過ぎだったが、散歩に連れ出された犬はみんな老齢で大人しかった。付き添っている人間もみんな老齢。走っている人もそうで、行き会うたびにお互いに自然と会釈した。時間が止まったような感覚。鶴見俊輔風カルタにすれば、「犬も歩けば人も歩く」。そこで脈絡もなく思い出したのが、清巌宗渭の「狂人走れば不狂人走る」という文句。

 行きに鍬を打って畑の土をきれいに盛り返していた老齢のまさに農夫というべき人が、帰りには腰をおろして、自分がなしおえた作業をじっと見ていた。腰の曲がった人で、昔ふうの前垂れをかけて仕事をしているのを何回か目撃したことがある。声をかけてみたいと思うが、遠慮した。こういう人、こういう風景に出会うと、その昔にも出会ったことがあると思う、いや自らが生まれる前から、その人の生の哀歓も含めてすべてを熟知しているような気になるのはどうしてだろうか。そういう遺伝子が組み込まれているのか。

 また帰りには、土手の整理をしつつ花の種を植えている老齢の人を見た。こういう人たちがいて、秋はコスモスの美しい群落を味わうことができるのだろう。短絡的な「自己表現」やストレスの憂さを晴らすばかりに、花や人を切り殺すこともある世の中で、ただ種をまき、土手を整える人もいるということだ。だれも振り向きもしない梅雨の晴れ間の川沿いの道。これこそ「狂人」の道かもしれない、などと考えた。

(蛇足)
 「最低」の「不狂人」の集りと思っていた「最高」裁が、このクニの「国籍法」は憲法違反であるという判決を出し、けなげな子どもたちに日本国籍を与えることにした。そのニュースをテレビで知った。多数決によるものだが、それでもこれは「狂」を護るということ、その最たる「憲法」を護るということで久しぶりに画期的な判決であった。

2008年6月2日月曜日

Sonnet 18

Shall I compare thee to a summer's day? (Sonnet 18)


Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate.
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimmed;
And every fair from fair sometime declines,
By chance, or nature's changing course, untrimmed;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to Time thou grow'st.
So long as men can breathe, or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.

         William Shakespeare


君を夏の一日に喩へようか。
君は更に美しく、更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
太陽の熱気は時には堪え難くて、
その黄金の面を遮る雲もある。
そしてどんなに美しいものもいつも美しくはなくて、
偶然の出来事や自然の変化に傷けられる。
併し君の夏が過ぎることはなくて、
君の美しさが褪せることもない。
この数行によって君は永遠に生きて、
死はその暗い世界を君がさ迷ってゐると得意げに言ふことは出来ない。
人間が地上にあって盲にならない間、
この数行は読まれて、君に生命を与える。
                      (吉田健一訳)
  

自らを限りなく隠しつつ、人を愛するということは、こういう詩を書くということに等しいのかもしれない。ここで呼ばれている「君」が男性であることも、この詩のこれ以上ない美しさと関係しているのかもしれない。そして吉田健一訳の省略と語句の選択、その句読法(パンクチュエイション)もすべて面白い。

2008年6月1日日曜日

Liederkreis

 南條竹則の本『悲劇の詩人ダウスン』には、ダウスンと同時代の英国の作曲家フレデリック・ディリーアス(1862-1934)がダウスンの詩に曲をつけた「日没の歌」という管弦楽伴奏つきの声楽曲があるということが書いてあった。トマス・ビーチャム指揮で1911年にロンドンのクィーンズ・ホールで初演されたらしい。「シナラ」の作曲も手を染めながら、未完のまま放置され、ディーリアス晩年に助手エリック・フェンビーの協力を得て完成されたなど。これも1929年にビーチャム指揮、ジョン・ゴスのバリトンで初演された。これらをすべて収録したcdがあるのかどうか、この本でははっきりわからないが、トマス・ビーチャム指揮『ディーリアス管弦楽曲集』(東芝EMI・1993年)が紹介されていた。なお、南條はこのディーリアスという作曲家が好きで、そこからダウスンを知ったという。それを媒介したのが、三浦淳史という音楽批評家で、ディーリアス作曲の「シナラ」について音楽雑誌に書いたのを読んだことだという。三浦淳史というすばらしい音楽批評家もディーリアスもすべてぼくにとっては初耳であった。

 トマス・ビーチャム指揮『ディーリアス管弦楽曲集』に三浦淳史がつけた解説の一節を南條の本から孫引きしておく。

 ――恋に破れたダウスンは傷ついた獣のように紅灯の巷をさすらい、その弱い肉体と心を衰えさせていった。ディーリアスもパリ時代には夜の巷を彷徨し、芸術家仲間と奔放な生活を送った。《日没の歌》は「イングリッシュ・ヴェルレーヌ」といわれたダウソンの絶妙な抒情詩に付曲したソング・サイクル(通篇歌曲)である。――

こういう解説を読むと、このcdを求めたくなるのはあたりまえである。

 金曜日、私事で南大沢に行く。その帰り、橋本の山野楽器でディーリアスのcdを探した。一つだけあったが、件のものはなかった。シュトラウスの「四つの最後の歌」のそれが二、三枚もあったのには驚いた、吉田さんの本の影響だと思う。お店のパソコンで調べてもらったが、というより自分で調べたのだが『ディーリアス管弦楽曲集』はなかった。あまり追求する元気もなかったから、そのままにした。

そのかわり、目に飛び込んできたのが、グールドのThe Complete Goldberg Variations 1955&1981という、02年に出たソニーのメモリアルバージョン。三枚のディスクが入っていて、三枚目は、ティム・ペイジという若い批評家とグールドの対談が入っている。なぜか、我が家には、あの有名な初演?と再収録のグールドのGoldbergがなかったので、衝動買いする。これを聴きながら書いている。55年のテンポの速さ、81年の<パルス>(グールドはティムに答えて、テンポをパルスと言い直している)の見通しによる、生から死までの、ゆったりとして、しかし毅然と耐えているような、まさに脈動としかいいようのない、そのリズムの刻み方と変化に、茫然としつつ。

 演奏家というのは、その曲の「解釈」にすべてをかけていると思うのだが、とくにグールドはそうだ。グールドはあるときからモーツアルトに絶望して、弾かなくなった。それに比して彼をここまで執着させたバッハというのはともかくもすごい作曲家だったのだろう。

 ところで、歌曲の作曲家というのも、そのもとになる「詩」の解釈というか、読みがすべてであろう。R・シュトラウスはヘッセの詩に付曲したが、ヘッセはシュトラウスが大嫌いで、ある人があなたの詩にシュトラウスが、というのを聞いても、おれには関係ないという態度を貫いたらしい。これは吉田秀和の本にある。それぞれが、もう、その段階では別の位相にあるということか。バッハもグールドを聴いたらヘッセのような感想をもらしたかもしれない。互いに関係はあるが、自立した「作品」。

 日本の詩人でいえば、谷川俊太郎の詩はよく作曲されている。ここが日本的なのだが、そのほとんどが合唱曲である。ああ、と今ぼくは思うのだが、それもコンクール用のものが多いのだ。木下牧子の曲などぼくは好きではある。しかし、谷川の詩を管弦楽つきで作曲したのがあるのだろうか。シュトラウスやディーリアスが作曲したヘッセやダウスンのように。リーダー・クライス、同じことだがソング・サイクル(通篇歌曲)のような形式で書かれた日本の詩人の曲を聴いてみたいものである。(合唱曲ではなく)

madder music and stronger wine

NON SUM QUALIS ERAM BONAE SUB REGNO CYNARAE

by: Ernest Dowson

Last night, ah, yesternight, betwixt her lips and mine
There fell thy shadow, Cynara! thy breath was shed
Upon my soul between the kisses and the wine;
And I was desolate and sick of an old passion,
Yea, I was desolate and bow'd by head:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion.

All night upon mine heart I felt her warm heart beat,
Night-long within mine arms in love and sleep she lay;
Surely the kisses of her bought red mouth were sweet;
But I was desolate and sick of an old passion,
When I awoke and found the dawn was gray:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fasion.

I have forgot much, Cynara! gone with the wind,
Flung roses, roses, riotously with the throng,
Dancing, to put thy pale lost lilies out of mind;
But I was desolate and sick of an old passion,
Yea, all the time, because the dance was long:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion.

I cried for madder music and for stronger wine,
But when the feast is finish'd and the lamps expire,
Then falls thy shadow, Cynara! the night is thine;
And I am desolate and sick of an old passion,
Yea, hungry for the lips of my desire:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion.

昨夕(ゆふべ)、ああ、昨宵(よべ)、たはれ女とかたみにかはす接吻(くちづけ)を
あはれシナラよ、汝が影のふとさへぎりて、その息吹
酔ひほうけたるわが霊(たま)の上に落つれば、
われはしも昔の恋を想ひ出てここちなやまし、
さなりわれ、こころやぶれて額(ぬか)垂れぬ。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
                  あはれシナラよ。

よもすがら、わが胸の上(へ)にその胸の動悸をつたへ、
よもすがらわれにいだかれて甘睡(うまい)むすべり、たはれめは。
一夜妻なれ、その紅き唇(くち)のあまさよ如何ならむ。
さはれ、むかしをおもひ出てわれうらぶれぬ、
むすびかねたる手枕の曙の夢さめしとき。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
                  あはれシナラよ。

われは多くをうち忘れ、シナラよ、風とさすらひて、
世の人の群れにまじはり狂ほしく薔薇(さうび)をなげぬ、薔薇(さうび)をば。
色香も失せし白百合の君が面影忘れんと舞ひつ踊りつ。
さはれ、かのむかしの恋に胸いたみ、こころはさびぬ、
そのをどりつねにながきに過ぎたれば。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
                  あはれシナラよ。

いやくるほしき楽の音を、またいやつよき酒呼べど、
酒宴(うたげ)のはてて燈火(ともしび)の消えゆくときは、
シナラよ、あはれ、なが影のまたも落ち来て夜を領(し)れば、
われは昔の恋ゆゑに、ここちなやみてうらぶれつ、
ただいろあかき唇を恋ふるこころぞつのるなれ。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
                  あはれシナラよ。
                         (矢野峰人 訳)


イギリス19世紀末のデカダン詩人、アーネスト・ダウスンの詩。それを英文学者、矢野峰人が流麗な文語調で訳したもの。このダウスンという人の名など、よっぽどの愛好者でなければ聞いたこともないにちがいない。ぼくも、名前だけは聞いたり、見たりしたような気がしたけど、この詩を読んだのは初めてだった。南條竹則という人の『悲劇の詩人ダウスン』(集英社新書)を読んで、こういう途方も無く「不幸」で、規格はずれの詩人がいたことに驚くとともに、彼がとくにこの日本の作家や学者たちに偏愛されてきた歴史を持つことも知った。佐藤春夫や西条八十、あの火野葦平などもダウスンの詩を好み、訳している。ダウスンの伝記や受容史については、『悲劇の詩人ダウスン』を読んでもらえればいい。言いたかったのは、この訳詩のスタイルの、古さと新しさということだ。

 ぼくは今の詩人たちの詩がよくわからない。それは、こういう種類の、この訳詩にみられるようなわからなさと、はっきり言って、そんなに違いはない、わかりにくさである。ということは、わかりにくさの根源は、はかれないということ。新しさをいくら偽造しても、この訳詩にはかなわない。スタイルの上での比較だが、それにしても、この訳詩の一貫性をこえる、どんな「現代詩」もありはしない。こういう文体を早々と捨ててしまったのは、そこにあった大きな可能性、日本語の可能性を捨ててしまったということだ。日本語の象徴詩などの流れも含めて。笑う前に、文体の練習として、この訳詩のようなエクリチュールに身を浸すのも必要なのではないか、とぼくはこれを読んで考えた。

(この詩のタイトルは、南條の本によると、ホラティウス『歌章』からの長い引用、すなわち「我は良きキュナラの支配を受けしころの我にはあらず」という文句ということだ。ラテン読みのキュナラがシナラといことだ。)