2009年2月26日木曜日

帰仏

きさらぎや内儀の留守の小酒盛 (道彦)

「着更衣とは…さえかへりて身にしむ風更に着物を着する也…」などと江戸期の書物にはあるというが、今週は寒くなるらしい。以下、私の如月の報告。

8日  愚生の誕生日。

14日 息子の見つけた吉祥寺の店で一週遅れの誕生祝。ありがたし。

17日 深川散策。不動尊前の「魚三」のすばらしさを知る。絶対にまた行くぞ。

21日 第十九回桃の忌(会田綱雄忌)参加。吉祥寺、いせや本店。三回目の出席となるが、喪主といってもよい池井昌樹さんに一年ぶりに会えるのもこの会があるからだ。平岡敏夫先生とも一年ぶりだが、いつも啓発される。『夕暮れの文学』を昨日(25日)送ってくださった。いせや本店は公園の店よりせまい感じがしたけど、きれいだった。

24日 町田で、TroyとKazushiの三名で英語の勉強会。Troyの友人Mouminの詩と短編を喫茶店で読み、わからないところをTroyが教えてくれる。喫茶店でTroyとぼくはビールを二本あけた。下戸のKazushiはアルコール類はもちろん飲まない。そのあと、「一番鶏」という早くから開けている居酒屋に行き、日本酒を飲む。周りはみんな年寄り。すみません、現役の労働者諸君と思いながらも、午後の酒は英語の舌をなめらかにしつつ、またわけがわからなくもするのであった。

25日 日帰りの「人間ドック」、これも一年ぶり。あなたは検診だけして、それで安心しているのではありませんか?と、検査終了時の医者との面談で言われた。血圧が異常に高い。こんなことは初めてであった。時間をおいて計測し直してくれるが、そのたびに高くなる。「こういうスパイラルに入りこみましたね」と係りの女の人が言った。よくわからない話だが、なにか味がある。

26日 山の上の学校で4時間授業。帰って久しぶりにBlogを更新する。

2009年2月20日金曜日

深川行

 水曜日、女房と二人で深川に行く。新宿線の森下で降りて、芭蕉記念館にゆく。そこを出て次は清澄庭園。松や楠。桜というよりは常緑樹の多い、見事に手入れされた庭園である。紀伊国屋文左衛門の屋敷跡を岩崎弥太郎が別邸とし、造園したもの。新緑の頃はもっとすばらしいだろう。

 
Posted by Picasa


これは庭園内に移された芭蕉の「古池や」の句碑。ここに芽吹くばかりの桜の花があった。
 
Posted by Picasa


この後、深川江戸資料館の展示を堪能して、清澄通りを「門前仲町」の方に歩いてゆく。仙台堀川の前の馬琴生誕地。ここは江東区の施設があった。次は堀川。
 
Posted by Picasa


 
Posted by Picasa


次の二つは、不動尊の商店街と八幡宮の横綱碑。これらもよかった。

 
Posted by Picasa


 
Posted by Picasa



一番良かったのは、深川不動尊と富岡八幡宮の間に位置する居酒屋「魚三」に参詣できたことだ。なんせ、あなた、午後4時オープンの店に三時半頃から長蛇の行列ができるのです。女房は最初は、飲兵衛のおじさんばかりで、いやだという感じでしたが、この行列に並び(30名ほどのあと)、店に入るや否や、手際良いお母さん、おお御母さん(仮にそう呼んでおきます)の指示に、すべてがうまく、段取りよく行われていくことに驚いて、印象をすっかり改めたようです。私ももちろんここは初めてでしたが、その魚のうまいこと、そしてびっしりとつまった席の両隣の見知らぬ人たちとの会話の面白さ(最初ですから、この店に関する私の質問に対する答えがほとんどでしたが)に、陳腐な言い草ですが時の経つのを忘れてしまいました。

ふと隣の女房を見ると、何十年ぶりになるのでしょう、彼女はなんと一合の熱燗を飲み干して、次の一杯を、声高らかに「おお御母さん」に頼んでいるところでした。「おお御母さん」は、ぼくらに「気をつけてお帰り」と声をかけてくれました。

深川の深い何かに出遭った、そういう一日でした。

2009年2月17日火曜日

四山の瓢

ここ一箇月近く芭蕉関係の本を読み散らしている。嵐山光三郎の『芭蕉の誘惑』『悪党芭蕉』、中山義秀『芭蕉庵桃青』、ややアカデミックなものでは尾形仂―「おくのほそ道」を語る―、堀切 実、今 栄蔵などのもの。これから読むものも、読んだ本も。大体寝る前に、布団の中で読むのだが、読み始めるとすぐ眠くなる。しかし、これらに引用されている芭蕉自身の句や俳文などに向かうときは眠くはならない、威儀を正してというか、危座してというか、そんな気持ちで向うからか、いや単純に、すごく面白いから。最近読んだ中で面白かった芭蕉氏のもの。

① 四山の瓢(天和の火事で焼けた芭蕉庵の再興時に寄進された大きな瓢箪のこと。それにまつわる友人、山口素堂君の五絶にペダンテイックだが気合いのこもった文章で和したもの。老荘哲学への親炙)
「ものひとつ瓢はかろき我よかな」

② 「乞食の翁」句文(①よりも前。推定天和元年の「寒夜の辞」と同年。杜甫の詩の引用からはじまるが、その詩とは無縁。言いたいことは、侘び、であり、多病、であり、それらが形成する「乞食」の位相への飛躍である。これまでの談林的世界との訣別の短いマニフェスト)
 「櫓声波を打てはらわた氷る夜や涙」
 「氷苦く偃鼠が咽をうるほせり」  ― 四句のなかの好きな2句を掲げた。―

③ 「閑居ノ箴」(「酒のめば」の詞書) (貞享三年と推定される。これは①も同じころの作ということだから、①の漢文調のスタイルに対して、和文の感じが強い。芭蕉氏の柔軟さを思う。)
「酒のめばいとど寝られね夜の雪」

④ 柴門ノ辞(これは晩年、元禄六年に弟子の許六が彦根に帰るときに餞別とした与えたもので―予が風雅は夏炉冬扇のごとし―などという超有名な文句もある。芭蕉門の聖書の一つ。私は、そのなかの次の言葉に感銘したので、覚えておこう。―古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ。―芭蕉氏はこれを「南山大師」の言葉として書いているのだけど。)

まとめる必要などないのだが、こうして書いてみると少し整理されたような思いになる。すべて未だし。午後に八王子に出て、松岡書店、佐藤書店を覗く。これは八王子の二大古書店である。桐山襲『スターバト・マーテル』(河出文庫・105円)、矢田挿雲『江戸から東京へ(六)』『江戸から東京へ(七)』(中公文庫、各200円)、一番の買い物は『與謝蕪村の小さな世界』(芳賀徹・中公文庫)を315円で売ってあり、それを購入したことか。町を歩きながら、酔っ払い二世大臣などのことを西鶴はどう書くだろうかなどと思ったりした。

2009年2月14日土曜日

紫のにほへる妹

「万葉から万葉へ」と題されたNHKのカルチャーアワーのテキスト。実際のラジオ放送はほとんど聞いたことはないが、この種のテキストは比較的に安価でまた内容もおもしろいものが載っているときがあるから、立ち読みで調べて、気に入ったものは買うときがある。これがそうだった。坂本信幸・藤原茂樹という学者が二人で担当して書いている。私はこの二人の名前も知らない。坂本は万葉の表記や言葉の専門家らしいが、彼が書いた「紫のにほへる妹」という初回の講義を読んだ。通説をききかじっていた素人としてはおもしろく、ある意味で痛快でもあった。

巻1の20番と21番の、額田王と大海人皇子との有名な贈答歌。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(額田王20)

紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子21)

この贈答は大海人(その当時は皇太子)の兄天智天皇主催の遊猟の後の宴席での作という説が通説になっている。その説の前までは、額田王を争う天智・天武の恋の葛藤、それがひいては壬申の乱の遠因になったというような読み方、それは江戸時代からすでにあったが、それにプラスして近代的な恋の三角関係までを想定するような読み方までがあった。

そういう読みをナンセンスとして葬ったのが折口信夫門弟の読みで、坂本の引用してある『万葉百歌』(池田弥三郎・山本健吉・昭和38年・中公新書)がその先駆であるということだ。以下、二人の解説。

 これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、「にほへる妹」などと、しっぺい返しをしたのである。(池田)


「野守は見ずや」つまり、人が見てますよとたしなめてはいるが、見られて悪いわけではなく、宴席の座興であり、あけひろげた気持での戯れなのである。四十女の場馴れした気持が、そんな冗談を言わせるのである。
 大海人の和(こた)え歌は、相手の言った「紫」という言葉をそのまま取って、「紫の匂へる妹」と言った。当意即妙である。四十女の残りの色香を讃めるポーズをして見せた。真情を吐露しているように見えて、座興であり、仮構なのである。(山本)


今、書き写していて不思議に思うのだが、どうして、こういうテキストを全く無視した読み、とくに池田弥三郎の「宴会の乱酔」時などという設定が成立するのだろうか、それになんの反発ももたなかったのだろうか。万葉などに興味を持って読み始めたのは、私の場合、昭和四十年の終わりごろからだから、こういう考えは当時読んでいて知っていたし、それがもう通説になっていたからだろうか。それにしても、この二人の疑いのない快刀乱麻ぶりの読み方、今書き写していて、なにかとてもおかしい感じがする。笑ってしまうような。額田王を、二人とも「四十歳の女」(もちろんこれには想定する根拠があるけど)といい、何かお化けみたいな感じで扱い、そこからすべての読み、少なくとも大海人の反応(切り返し)を想定している。四十女の「からかい」に対して、大海人も、わざと「紫のにほへる妹」などと真面目な顔をして切り返してみせた、そこに宴席の笑いが生まれたというように。この説を受けて、決定的にしたのは伊藤博の「遊宴の花」という論文だったということ。「天智七年の頃初老40歳に近かった額田王を―紫のにほへる妹―といかにも艶な美しさをもった女性として歌うことによって、宴席に居る天智天皇以下、もろもろの臣下の者の笑いを買ったというのである。この伊藤説が大きく学界に影響を与えることとなった」と坂本は書いている。池田、山本、伊藤の通説に対して、坂本信幸奈良女子大大学院教授はどう反論するのか?

坂本は次のように反問する。

…早く結婚して、早く子どもを作り育て、早く老いるのが古代の女性の実態だったろう。今日のような生命のリズムではない。とすると、額田王の年齢を35歳としてみても、今日の52、3歳ほどの感じとなる(一般に古代人の年齢は、1・5倍すると現代の人の年齢に見合う)。たしかに、そのような年齢の女性を、「むらさきのようにはでばでしいわが愛人よ」(『万葉百歌』の口訳)というのは、いかがなものかと思われる。そこに皮肉が込められていると考えざるを得ないであろう。
 しかし、本当にそう考えるべきであろうか。
 大海人皇子は、後に壬申の乱を勝利し、天武天皇として即位、帝紀及び上古諸事を記定させるなど、政治の基礎を固めた、いわゆる英主である。その大海人が、二人の間に十市皇女という子までなした額田王の年老いて容色の衰えたことを種にして、天智天皇を始め群臣居並ぶ満座の前で、笑いを取るというようなことをするであろうか。その場には、娘の十市皇女も十市の夫の大友皇子も居た可能性のある宴においてである。


坂本のこのような考え方(大海人皇子論)もテキストとは無縁といえば言えるのかもしれない。しかし、この反問を確かめるために、「紫のにほへる」という表現についての考究が坂本の論の根本になっている。なにをいまさらと思うのだが、まず彼は「にほふ」の語義の確定からはじめる。「にほふ」は、花や女の容姿の(主として赤系統に)照り映えることをいう、というのが小学館の『新編日本古典文学全集』の説、それに伊藤博の『万葉集釈注』では、赤い色が美しく照り映える意、となっている坂本は書く。そして「紫のにほへる妹」は「紫色の照り映える妹」として理解するものがほとんどであるという。とくに武田祐吉説をもとにした岩波の『新日本古典文学大系』では「『にほへる妹』は赤く照り映える妹。紅顔の美貌を言う」とまであるらしい。

坂本はこれらの「『紫のにほへる妹』についての、従来の諸注釈の解釈は間違っていると私は考える」。

まず坂本は集中から「むらさき」の表記の全ての例(仮名一例、難読一例の2例を除き)13例を検討する。

紫草を 草と別く別く 伏す鹿の 野は異にして 心は同じ(12・三〇九九)と
当該歌21番の
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

以外の11例はすべて「紫」という用字であり、この2例だけが「紫草」となっている。この二つは「植物としての『むらさき』を歌ったものである」、それに比べて一字の「紫」の用例はすべて「色彩のムラサキを歌う用例」である。従って、ここは「紫色の照り映える妹」ではなく、「紫草の美しく照り映える妹」でなくてはならない、というのが坂本の考えである。

次に「にほふ」という表現と発想について坂本は調べる。特に、Xの「にほへる」Y、というときのXにあたるものは「実際に照り映える素材」が集中の用例にあたるとすべてであり、「紫色」などという色彩名に関わったものはないという。

つまり、「にほふ」という表現においては、その「にほふ」、つまり照り映えるモノを具体的に歌うのが、万葉人の発想であったといえる。
 蒲生野での遊猟が行われた天智七年五月五日は、太陽暦では六月二十二日にあたる。まさに紫草の開花している頃であり、そのまっ白な清楚な花が満開の「紫野」であり「標野」であったはずである。ニホフが赤い色に限るものでないことは、

たくひれの 鷺坂山の 白つつじ 我ににほはね 妹に示さむ(9・一六九四)
馬並めて 高の山辺を 白たへに にほはしたるは 梅の花かも(10・一八五九)
池水に 影さへ見えて 咲きにほふ あしびの花を袖に扱入れな(20・四五一二)

などの白の映発の歌々の存在によって明らかである。万葉人の表現と発想からして、紫草という素材が映発する「紫草の白い花が照り映える妹」と考えるのが正しい解釈であろう。
 そうすると、「紫のにほへる妹」という表現からは、「はでばでしい愛人」などではなく、紫草の白い小さな花が照り映えるように清楚な美しさの女性として、気品のある女性が立ち現われてくる。若い頃とはまた違った静かな美しさをたたえた額田王が想起されることになる。つまり、40近い女を「紫のにほへる妹」といってのけたところに満座の笑いがあったという論は、論拠を失うことになる。


というのが坂本信幸の結論であり、私はそれを肯うものである。

2009年2月2日月曜日

閑居ノ箴

閑居ノ箴

あら物ぐさの翁や。日比は人のとひ来るもうるさく、人にもまみえじ、人をもまねかじと、あまたたび心にちかふなれど、月の夜、雪のあしたのみ、友のしたはるるもわりなしや。物をもいはず、ひとり酒のみて、心にとひ心にかたる。庵の戸をおしあけて、雪をながめ、又は盃をとりて、筆をそめ筆をすつ。あら物ぐるほしの翁や。

 酒のめばいとゞ寝られね夜の雪               芭蕉



雪も降らず、月も見えぬ冬の夜。気分もはてしなく鬱。
翁の俳文を読み、いささか気を取り直す。「心にとひ心にかたる」この句の響きは深い。
そういう境地を渇望しているのだ。俗塵にまみれつつ。