2009年4月29日水曜日

茶摘み

〇 木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす       

芭蕉のこの句にはまだ早いのだろうか。いや茶摘みはこのまえ狭山茶のそれをニュースでやっていたからその時期だろう。「ほととぎす」、自信を持って聞いた、聞いていないなどと言えないのが残念だ。

〇 白梅や誰が昔より垣の外

蕪村のこの句を、先日湯殿堤を散歩中、思い出していた。堤の一角に家庭菜園のような畑があり、その前に色鮮やかな躑躅の低い垣根が少しの距離で作られていた。それを見て思い出した。白梅は過ぎてしまった。それでも誰かは「垣の外」でぼくを待っていてくれるのだろうか。

〇 昨日だった。昔の教え子で、今年大学院を出て就職した女の子(子ではなくて立派な女性だが)から、「……研修を終えて、四月十五日に配属も決まり、徐々に仕事に慣れてきております。心ばかりのものを初任給で購入しましたので、お納めください。……」というカードとともに、福井のM屋の銘茶と緑茶羊羹が送られてきた。とてもうれしかった。茶摘みの声を聞いているような気がした。

いちはやきみやび

「いちはやきみやび」ということばは伊勢物語の冒頭の第一段に出てくる有名な言葉で、やがては「みやびの文学」として伊勢全体を評する言葉にもなる。しかし、伊勢物語での用例は、この第一段のみというのは案外知られてないことである。「みやび」として、源氏物語など王朝女流文学を規定する文学理念の一つとして整形されるようになるこのことばの生まれ故郷を覗いてみたい。

  昔、男、初冠して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。 思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。   
 春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れ かぎりしられず

となむ 追ひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。  

 みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやき みやびをなむしける。 (第一段)


「初冠」の段である。「昔男」と「業平」は、この段の造形を通して、必然的に結ばれていくのだろう。その基にあるのは歌である。「いちはやきみやび」とは相手を押し倒すことでもなければ、もちろん裸になって憂さをはらすことでもない。「はげしいみやび(風流)」という意味である。「追ひつきて」はこの表記では、すぐに、間をおかず、という意味になるが、「おいづきて」ととって、経験をつんだ大人みたいに、と解釈する説もある。この段と「源氏物語」の「若紫」の巻との関係も興味ある話柄だが、それはさておいて、かぎりなく魅惑された古都であり男の故郷でもある所に住む姉妹に対して、わが心の惑乱を、昔男は「しのぶの乱れかぎりしられず」と言い、切り裂いた「信夫摺り」の自らの衣の裾につけて「いとなまめいた女はらから」に贈る、そのことで自らの魅惑された心の錯乱を完璧に形象化するのである。それが「みやび」ということである。

こんなことを書くのは、昔男ならぬ今の自分の心を静かにさせたい、落ち着かせたいからにほかならない。ふわふわして放心している心、魂が抜けだしてしまって、どこに行ったかもわからぬようなこの身体、「伊勢物語」のこの段を声に出して読むと、落ち着くような気分がする。乱れの果てに若紫の可憐な白色が浮かぶからだろうか、それとも「みちのくの」と始まる古歌のささやきが膨大な過去を揺り動かし、その魂(タマ)が私の身体に入ってくるかのような錯覚を起こすからだろうか。

とても強い情熱がとても繊細なもの思いの歌に包まれる。その秘密。その「心ばへ」。

2009年4月26日日曜日

Viva 琵琶

岩佐鶴丈さんの薩摩琵琶、林鈴鱗さんの尺八(琴古流)の演奏を聴いてきた。すてきでした。
鶴丈さんの演目は「壇ノ浦」(鶴田錦史 作曲、木下洋子 作詞)という新作?物と「耳切れ芳一」という御自分の編集・作曲になるもの。まあ両曲とも人口に膾炙した平曲などのアレンジ?だから、だれにもよくわかる。

私は琵琶の形状などに注意を凝らし、また師匠の撥の使い方、弦の押さえ方などを注目していたが、それも最初だけ、あとは琵琶のすべての技巧を使いつくしたかとも思われる演奏のすさまじさにひたすら耳を傾けるのみであった。

面白いものだ。もともとは「法具」としてあっただろう琵琶という楽器が、今でも滅びずに現前しているということは。宗教といえば大げさだが、われわれはこれらの曲が、平家の公達や棟梁たちの御霊を慰撫するためのものとして発足したことを忘れながら、しかし膨大な「思い出せない記憶」のなかのひとつとして、たしかに何か畏れなくてはならないものを前にして、今の岩佐鶴丈という若い琵琶演奏者、盲僧などではもちろんないが、若くてハンサムな彼も、酒を飲みながら聴いているわれわれも、その畏れの前に引き据えられているかのような心持になるのだった。

2009年4月25日土曜日

愚に暗く

○ 愚に暗く茨を摑む蛍かな

深川に退隠したころの芭蕉の句。延宝八・九年の作と言われている。九年は天和元年。漢詩を基調にした、杜甫などの詩を下敷きにした作品がおおく作られる。談林調からの離脱、いわゆる「新風」模索の時期。上記の句は、その寸前の句のような感じがする。―「愚に暗く」は「暗愚」を漢文訓み下し式にして衒った。夜の「暗」に掛ける。―と新潮日本古典集成の『芭蕉句集』の校注者、今栄蔵は書いている。ちなみに、同書によると、句意は「一事に囚われて他を顧みる余裕のない人間の愚を寓意的に詠む」とある。
グニクラク イバラヲツカム ホタルカナという響きにある訓読調とホタルカナの古典・連歌的な響きの混在がその過渡期的な特徴を示しているように思われる。「櫓声波を打つて腸氷る夜や涙」、「芭蕉野分きして盥に雨を聞く夜哉」などの句の響きとは違う。主体の不分明さなどもありわかりにくい句だが、グニクラクという出だしの響きがなんとなく今のぼくには心地よい。

最近の〈鳩〉大臣などの鳴き声を聞いていると、「愚に暗く人と生まれき人を謗る」とでも言いたくなる。

○ 兵藤裕己『琵琶法師』―〈異界〉を語る人々(岩波新書)の第一章まで読んだ。琵琶法師が「盲目」であることについて、兵藤は次のように書いている。

「耳からの刺激は、からだ内部の聴覚器官を振動させる空気の波動である。私たちの内部に、直接侵入してくるノイズは、視覚の統御をはなれれば、意識主体としての「私」の輪郭さえあいまいにしかねない。そんな不可視のざわめきのなかへみずからを開放し、共振(シンクロナイズ)させてゆくことが、前近代の社会にあっては、〈異界〉とコンタクトする方法であった。」

「聴覚と皮膚感覚によって世界を体験する盲目のかれらは、自己の統一的イメージを視覚的に(つまり鏡にうつる像として)もたないという点で、自己の輪郭や主体のありようにおいて常人とは異なるだろう。それはシャーマニックな資質のもちぬしに、盲人が多いことの理由でもある。そして自己の輪郭を容易に変化させうるかれらは、前近代の社会にあっては、物語・語り物伝説の主要な担い手でもあった。」


この書のサプライズ?は、現代まで生きた最後の〈モノ語り〉者―芸と宗教が一体になった本来の琵琶法師として―熊本の山鹿良之(1901~1996)の演奏のDVDが付いていることである。しかもこの人は著者兵藤が実際に1982年以来十年余りにわたって研究取材にあたった人でもあるということだ。この本はこの山鹿氏の至芸に対するオマージュとして読めばいいのかもしれない。非常に面白いことは、兵藤氏の思考や文体は先ほどの短い引用からもわかるように、〈構造主義〉風のモダンなものだが、それに包摂されながらも、それをはるかに超えてしまうような響きが山鹿の琵琶芸にあるということだ。そのことは著者自身もよく分かっていて、次のように書いているのだと私は思う。

「山鹿良之は、1996年6月に他界した。九州に残存した琵琶弾きの座頭・盲僧のなかでも、その放浪芸的な活動実態といい、全貌を把握しがたいほどの段物の膨大な伝承量といい、山鹿はまさに日本最後の琵琶法師だった。芸能史を専攻する私にとって、もっとも注目されるインフォーマントだったが、しかしそんな研究上の関心をはなれても、私をひきつけてやまなかったのは、山鹿の語りの声と、その琵琶演奏の芸である。」


明日(26日)の17時から、国立の音楽茶屋〈奏〉で「薩摩琵琶弾き語りと尺八古典古曲」(岩佐鶴丈・林鶴麟)というライブがある。この、琵琶つながり、も何かの縁かもしれない。明日の演奏が楽しみである。

『琵琶法師』については最後まで読んで書くべきかもしれない。その機会を待とう。


○ 今日(4月25日)の夕刊に、尾形仂氏のobituary訃報記事が載っていた。ああ、やっぱり、そうだったのか、と思った。義父、潁原退蔵の「江戸時代語」の用例カードを引き継ぎ、08年の11月に「江戸時代語辞典」として完成させた。奥さんは潁原の次女だった。奥さんの方がはやく06年になくなった。その奥さんに次の歌があるという。「縁かな五十五年を眠りをりし用例カードいま夫(つま)の手に」、06年11月に大岡信が「折々の歌」にとりあげた。
尾形先生、ならったわけでもないが、そう呼びたい人だ。俳諧関係の自学自習はすべて尾形先生の書いたものからと言いたいほどだから。3月26日に亡くなった。それまで、腰の痛みで入院するまで「蕪村全集」の原稿を執筆していたという。
3月26日、ぼくは松島の雄島で芭蕉を思っていた。

2009年4月16日木曜日

尊かりけるいさかひなるべし

『笈の小文』に、次の部分がある。これは芭蕉の『旅』に対する思いを様々なレベルで述べている部分だと思う。

― 跪(踵 )はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ。山野海濱の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の實をうかがふ。猶栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の 愁もなし。寛歩駕にかへ、晩食肉より甘し。とまるべき道にかぎりなく、立つべき朝に時なし。ただ一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めんと斗は、いさゝかのおもひなり。時々気を轉じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし。日比は古めかしく、かたくなゝりと悪み捨たる程の人も、邊土の道づれに かたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又此旅のひとつなりかし。(『笈の小文』より)―

最初の部分「跪(踵 )はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ。」を上野洋三は次のようにその本(『芭蕉、旅へ』)で解説している。

― 渡し(舟)と馬とによって代表される水陸の交通手段についていう。「西行」は……『西行物語』などで著名な故事。「いきまきし聖」は、徒然草百六段で著名な高野山の証空上人の故事。上人が、路上で馬から落され、馬方に向かってさんざんいきまいたあげくに、自己の雑言の愚かしさに恥じて、逃げ帰った、という話である。
 舟に乗ろうとすると、頭を鞭で叩かれて血をながしたという人(西行のこと・水島注)を思いうかべ、馬に乗ろうとすると、馬から落されて立腹した人を思いうかべる、というのはともに旅路の上で出会うべき難儀を、つい予想してしまう、ということではあるが、そのとき連想する人間が、ともに僧形の人物ということには、注意すべきであろう。芭蕉が旅を語り始めるとき、とかく法体・黒衣の人物とともに、具体的に想像が展開し始める。それは、「旅路の画巻」(注・芭蕉が晩年に描いたといわれる十画、許六の画・芭蕉の賛のいわゆる旅十体の絵の流れ)の第一図が、僧形の人物のひとり旅で始まることと、軌を一にするからである。―

「僧形の人物のひとり旅」、それで始まるのが、芭蕉の旅の文章だと、なかんずく細道だと言いたいのであるが、西行の「難儀」はよくわかるが、「路上で馬から落され、馬方に向かってさんざんいきまいたあげくに、自己の雑言の愚かしさに恥じて、逃げ帰った」証空上人のエピソードは少し違うのではないか。上野洋三が言うようなまとめ方ではくくれないのではないかと思う。「ともに旅路の上で出会うべき難儀を、つい予想してしまう、ということではあるが、そのとき連想する人間が、ともに僧形の人物ということには、注意すべきであろう」というのは、どうでもいいことではないだろうか。

私は百六段の話が大好きである。

―高野証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが口ひきける男、悪く引きて、聖の馬を堀へ落としてげり。
 聖、いと腹あしくとがめて、「これは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくのごとくの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の悪行なり」と言はれければ、口ひきの男、「いかに仰せらるるやらん、えこそ聞き知らね」といふに、上人なほいきまきて、「何と言ふぞ、非修非学の男」とあららかに言ひて、きはまりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。
 尊かりけるいさかひなるべし。―

この人物相互の関係の捉え方、それを捉えた兼好法師、それらの意味、芭蕉が惹かれたのは目には見えない相互の関係の意味であって、僧形など関係ないと私は思う。「尊かりけるいさかひなるべし」と確言する兼好の前には、頭を打たれて従容たる西行がいる。その二人の驥尾に付こうとしているのが芭蕉ではないか。

2009年4月9日木曜日

山辺の桜


春だにもありへし花の都をも散りぬと聞けばあくがれぞ行く(輔尹集)
里はみな散りはてにしをあしひきの山の桜はまだ盛なり(躬恒集)
桜花咲ける尾上は遠くとも行かむかぎりはなほ行きて見む(躬恒集)


誰しかも求めて折りつる春霞立ち隠すらむ山の桜を(古今・春上・貫之)
桜花咲きにけらしなあしひきの山のかひより見ゆる白雲(同・貫之)
み吉野の山辺に咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける(同・紀友則)

C
やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花さかりはみな過ぎにけり。山の桜はまださかりにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまもならひたまはず、ところせき御身にて、めづらしう思されけり。(源氏物語・若紫)

こうやって並べてみて、AからCへと、古今以前、古今集、源氏物語へと何かが流れて総合されている感じがする。Aの歌にある「あくがれ」、Bの歌にある霞と桜の取り合わせや、古今典型の「見立て」などの定着を経て、源氏の表現を生み出している。この表現は、18歳の源氏の「あくがれ」を北山の春の桜花の美と重ね合わせ、この景色と季節が彼の鬱屈を解放させ、そして「若紫」の発見へと導いてゆくように語られる。若紫、冒頭部のこの歩み、「入りもてゆくままに」という歩みは、源氏を日常から異界へと引き連れてゆく歩みである。

2009年4月7日火曜日

花見

日曜日に友人宅に招かれて、BBQ と花見を楽しんできた。広大なキャンプ座間とその居住区の桜のすごさを堪能した。

(友人の愛娘、Madeleine)

 
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2009年4月1日水曜日

三月尽

三月尽

○ 深川や屋根に鴻居る弥生尽   千梅

加藤郁乎の『江戸俳諧歳時記』のなか「三月尽」の項のなかで挙げられている一句。「鴻」はコウで、ヒシクイという雁鴨目の一種とある。今辞書(大辞林)で確認してみると、大形のガンで、日本には冬鳥として渡来、天然記念物、沼太郎ともいうとある。ヒシの実を好むからヒシクイというわけ。以下は加藤郁乎先生の解説。「…深川には富商の材木問屋の豪邸のほか、干鰯場もあったから、北へ帰る大雁のコウが羽をやすめていたのだろう。…あるいは、鷹狩りの鷹に追われて迷い込んだものかもしれず、…」

○ 雑誌『飢餓陣営』34号。倉田さんの連載「日本の絵師たち(二)」の「蕪村南画」を読む。蕪村晩年の俳画の特色を「略すこととイデーの実現」の切り離せなさ、「画と句と…書これらが高速で交錯する」というような言い方でとらえている。「岩くらの狂女恋せよほとゝぎ寸」の句の倉田さんの読み筋も面白い。

29日

中村隆之・菜穂夫妻と吉祥寺で会う。中村君は、ぼくが彼の高校時代の2年間担任をした「教え子」の一人で、今はフランス文学の研究者、菜穂さんは彼の外語大の後輩でペルシア文学の研究者。この二人は結婚したての素敵な夫婦である。中村君はこの4月からカリブのマルチニック島の大学に研究員として行く。菜穂さんもついていく。公園よりの「いせや」の煙のなかで話ははずみ、2次会はearth riddimというジャマイカ仕様のお店に案内され、ラム酒を飲みながら、若い優秀な研究者の夢と情熱を分けてもらった。ありがとう。お土産までもらって。隆之君の訳したグリッサンの詩も、菜穂さん自身が「泉と芝生の地平に昇る陽射し」そのものではないかと思ったのだが、この一節のある菜穂さんの訳された詩人Nader Naderpurの詩も、すてきだった。ありがとう。中村君は今グリッサンのフォークナー論を訳していて、夏頃には上梓されるという。グリッサンはフォークナーから大きな影響を受けていたのだ。中上健二のフォークナー論のことなども教示された。家に帰ったのは日付が変わる寸前だった。少しも疲れなかった。

28~26日

○ 夏草や兵どもが夢の跡    芭蕉
  卯の花に兼房見ゆる白毛かな   曽良
  五月雨の降り残してや光堂   芭蕉
 松島や鶴に身を借れほととぎす  曽良
(島々や千々に砕けて夏の海  芭蕉)

26日
松島に着く。はじめて東北新幹線に乗った。北に荒野を裂いてゆくという感じで走る、朝方の日の光に照らされた山々を眺めているうちに2時間ちょっとで仙台に着く。そこから仙石線に乗り換えて12時30分ころに松島に。船で一周したのち、雄島と瑞巌寺。雄島で人がいなかったせいもあり、文庫本の「おくのほそ道」を取り出して、松島の項を大きな声で音読した、海に向かって。女房があきれて、立ち去ったけど気にしない。

 
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27日
東北本線の松島駅から一関まで。電車の時間まで一時間近くあったから、松島駅近くの「藤田喬平美術館」というガラス工芸で文化勲章を受章した人の記念館に行く。写真は自由にとっていいというのがよかった。ベネチアングラスというのか、ベネチアと松島はよく似合う、というのが藤田の考えだったらしい。一関で乗り換えて平泉へ。すぐだった。世界遺産への登録問題で最近いろいろとあるようだけど、駅前の街並みもそれを意識しているのか、非常に統一された景観を演出しようとしている。電信柱は地下に埋めたらしい。道幅も大きくして、住居も条例をつくり、色調やその作りも、某漫画家のような奇抜な家などを規制している。まず駅前の「泉屋」という、和泉三郎ゆかりという絵入りの縁起がその店には手書きで貼ってあったが、その蕎麦屋で山菜入りの蕎麦を食う(寒かったのであたたかいやつ)。これがかけねなしにおいしかった。それから毛越寺、中尊寺(雪にふられた)、高館と強行軍で回る。高館は午後4時過ぎか。義経堂の前で、下に流れる北上川の流れを見ながら、「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。…」とまた大きな声を張り上げて読んでみた。馬鹿である。

 
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(毛越寺の遣水遺構)
 
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(光堂・鞘堂)
 
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(高館より望む北上川)
 
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28日
帰りの新幹線が午後4時過ぎの一関発。それまでに時間があるから、思い立って平泉から花巻まで行く。花巻の宮沢賢治記念館。高揚と沈潜の繰り返し。一言では言えないなにか、鉱物のように持続する意思を深く感じた。東北を実感したのは、この雪の舞う賢治記念館だった。この日、結婚39周年目。芭蕉が奥の細道の旅に出て、320年目、義経が死んで820年目、芭蕉が平泉を訪れたのは義経没後500年目、ぼくが平泉を訪れたのは芭蕉没後315年目、そして、賢治が、Tertiary the younger mud-stone と歌うイギリス海岸の泥岩は新第三紀のものか?はるか2400万年前の地層。「あおじろ ひわれに おれの かげ」。
義経も芭蕉も賢治もぼくらも、その時間のなかに生息している「かげ」のようなものだ。泥岩の一粒の微粒子。東北の深さとはるけさのなかに、春はふけてゆく。

 
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