2009年5月30日土曜日

雨もまた奇なり

雨。朝、一時間半ほどいつものように湯殿川の道を散歩する。蓑をつけてというわけにはゆかない。傘をさして。
その途中で、「ほそ道」の、

―闇中に摸索して「雨もまた奇なり」とせば、…―

という句を思い出して、口にしていた。だれもいない雨の朝の道だが。帰って、この後の句を確かめると、「雨後の晴色またたのもしき」というのであった。「象潟」の風光を文章のなかに閉じ込めようとするアクロバティックなエクリチュールが始まるところ。この身も歌枕や対句の響きに裂かれそうだが、雨に濡れた散歩が救うということもあるだろう。

 そうだ。早苗のことを書こうとしていたのだ。堤の田に、苗代が一緒に作られていて、田植えを待つばかりの早苗の小さな青い群れが行儀よく並んでいた。苗代のそばにより、じっと見ていると、自分のDNAが何かを感知してうずくようだ。そこに深く書き込まれている弥生時代以来の記憶のようなものが目覚めるのだろうか。
  ―早苗とる手もとや昔しのぶ摺り―
 
この句の射程も想像を超えてはるかなものだという思いを新たにする。「風流のはじめや奥の田植歌」の句がどこか「文」に依拠しているのに比べて、「早苗」は自立している?こういう感想はばかげている。句文一体のエクリチュールをばらすことは元来できないからだ。

 早苗とは雨に濡れける吾妹なり   蕃

2009年5月29日金曜日

母音日記

ポルトガル・ワインの輸入販売をやっている八王子の「播磨屋」に初めて行ってみた。事務所のような小さなお店。主にネット販売をやっているためか。

 二本で2千円もしなかった。この安さに驚く。並行輸入?のようなことか。 仲介を立てないからこんなに安いんだろう。私はワインは苦手だったが、最近そうでもないぞと思うようになった。ポルトガルのワイン、といってもまだ二、三回飲んだのみだが、これに特化して飲んでみようと思っている。理由は別にない。播磨屋があるからということにしておこう。これが今日の外出。そして今DAO(Aの上には~のような記号がつく・ダンと檀一雄が好み、そのダンと発音が似ているということから日本ではそう読んで、呼んでいるが)を飲みながら書いている。あと少しで無くなる。なんか自分がブコウスキーになったようで元気が出てくる。

 雨が降り、草の青さが目にしみる五月の終わりの日
 二つのことを思う、一つはその草の青やかな色で、
「我が心夏の野邊にもあらなくに繁くも恋の成りまさるかな」
 もう一つは和泉のこの歌。
 しかし「草のいと青う生ひたるを見て」という詞書きがあって、
二つは分かちがたい
 
 すべてを思うのだ。
「五月の終わりの日に
 雨が降ると草の青さが目にしみる」
 青い、日本語の母音の連続のなかでも一番の渇きだろう
 逢う、夏の、野邊のような心に、恋い、生まれ、成りまさるのだった
 日記を書きたくなる
 「…四月十余日にもなりぬれば、夢よりはかなき世の中を、築土のうへの草あをやか…」
 すべてが母音で書かれている日記。

 鳥たち つれづれ 存在
 こう書き出してみる、雨もよいの川の空を散歩していたときに
 低空で、きみの鵜(う)が水を嘗めるように溯行した
 つれづれを支配する王者よ
 しきりにきみを呼ぶ呼ぶ子鳥の変幻する声に耳を貸すな
 蓮の花がその存在を剥き出しにする静かな朝
 
 クサノイトアオウオイタル
 宣長の国学では解けない母音の夏がはじまる
 (ダンというワインをポルトガル)
 (日本的であるとは、その語の品位ある意味を求めれば
 わずかにアジア的であるということだ)
 ペソアを真似てみる、ふりをしてみる、日記を書いた。

2009年5月28日木曜日

マルティニックから

マルティニックに研究のために赴いた中村君から次のようなメールと写真が届いた。それと彼のblog(OMEROS)もリンクしておいた。これからカリブの強烈な日射しと詩の波を浴びることができる。



ご無沙汰しております。ご心配おかけしましたが、今月14日に無事にマルティニック島に到着しました。到着してから、すでに一週間以上が経過し、現在、島の生活スタイルに少しずつ適応しようとしている最中です。 いまは現地の親友の新居を貸してもらい、菜穂さんと一緒に、快適に暮らしています。ただ、物価はほんとうに高く、ストライキが起こる理由もよく分かります(マルティニックとグアドループでは、高い物価水準にたいする島民の怒りが大規模なデモに発展しました)。トイレットペーパーから住居費にいたるまで、東京の物価水準よりも高いことが多く(昨年秋のユーロ安があってもなお高いです)、その点は大変ですが、自然の豊かさはやはり目を見張るものがあります。 こちらではひとまず研究員として迎え入れてもらえましたが、生活環境の整備に手間取り、研究に本格的に着手するにはもう少し時間がかかりそうです。 ところで、マルティニックやグアドループにもやはり数多くの詩人たちがいます。まだそうした詩人たちに直接会う機会はありませんが、いくつもの詩のアンソロジーが出版されているのを見かけました。機会を見つけて、まだ知られていない詩人たちを紹介できればと思います。 島の写真をお送りします。主都フォール・ド・フランスの町並みを写したものです。 本日は近況報告まで。またご連絡いたします。

中村隆之


 
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2009年5月26日火曜日

枇杷 山桃 桑の実 石楠花

枇杷 山桃 桑の実 石楠花 
散歩の道すがら出会っているものたち
終わっているものもあるが
それはたんに次回の始まりのために終わっただけだ
心配は無用
終わりそうなものも
それゆえ愛しさが倍増する
石楠花 えごの花は終わりそうか、終わったかだ
卯の花や紫陽花は咲きそめたか、まだかだ
まだかだ、これらまだかだといえるものは希望に満ちている
希望とはまだかだが確実に咲くものの未来の完了に寄せる幻想だ
心配は無用
枇杷を思う 黄金色に熟する前のそれ
山桃はその木しか知らない 桃知らず
桑の実を思う 食べた幼い時 祖母の桑の実
山歩いて石楠花に遭遇する五月の山歩き
経験は少ない実だが
始まりや終わり、始終をどこかで教えてくれる
花だけがいいのではない、とくに
桜に狂うのは、そこで狂いが絶頂になるのが淋しい
桜の次は柳で、その次は牡丹で、その次は衣更え、お手討ちとか
いろいろ生きるかぎりは生きて
歌枕は各個人が作ればいいのであって
きみのとなりの人の歌枕を愛しなさいと
イエスも言った

2009年5月24日日曜日

卯の花

「首都大学東京 現代詩センター 」の『詩論へ①』という雑誌。なかなか読めないでいたが、藤井貞和の『詩学のために  文献学、時間、そして想起』と題されたものの半分ほどを読んだ。次第に藤井さんのものが読めるような気がしてきた。本居宣長批判や助動詞(彼は助動辞と呼ぶのだが)の体系化などへの歩みの動機が少しだが理解できたと思う。もっと藤井さんを読もうと思っている。

今朝、小雨のなかを一時間半ほどいつもの川沿いの道を散歩した。昨日は散歩の帰りに、もうひとふんばりと叱咤し、片倉城趾の山頂まで登った。だれもいない草原の縁を一周している途次、灌木の群れのなかから白い小花のそよぎが目に飛び込んできた。「卯の花」だった。先日、女房と二人で立川の昭和記念公園に行った折、「梅花ウツギ」の鉢植えを購入した。家に帰って小さな庭に植え替えて、その可憐な花を愛でていた。なぜか「卯の花・卯月の花」に惹かれていたのである。その野生の花が城趾公園の頂にひっそりと、しかし、かがやくように咲き誇っていたのを見たのだった。人がいないのを幸いに、一枝の一輪だけを折りとる。家に帰って、朝刊(朝日)を読むと、高橋睦郞さんのコラム「花をひろう」はまさに「卯の花」だった。
雨の朝の卯の花も見たかったのだが、今日の散歩の余力はなかった。

もうひとつ、「紅花トチノキ」と、普通のトチノキがやはり城址公園にある。一対という形で並んでいる。結構な高木である。これは西洋名ではマロニエ。その花がとてもおもしろい形をしている。ソフトクリームのような形なのだ。赤いソフトクリームと白いソフトクリーム、この花ももう終わりである。この形を円錐花序というのだと、辞書で知る。

卯の花をかざしに朝の散歩せん     蕃
卯の花のえごの花より地に近き
蜜蜂は手折りて甘き卯の花に
なんとなく卯の花腐し若き日々
マロニエの紅花の散る城跡に

予め失われている恋人よ

You Who Never Arrived Rainer Maria Rilke

You who never arrived
in my arms, Beloved, who were lost
from the start,
I don't even know what songs
would please you. I have given up trying
to recognize you in the surging wave of
the next moment. All the immense
images in me -- the far-off, deeply-felt landscape,
cities, towers, and bridges, and un-
suspected turns in the path,
and those powerful lands that were once
pulsing with the life of the gods--
all rise within me to mean
you, who forever elude me.

You, Beloved, who are all
the gardens I have ever gazed at,
longing. An open window
in a country house-- , and you almost
stepped out, pensive, to meet me. Streets that I chanced
upon,--
you had just walked down them and vanished.
And sometimes, in a shop, the mirrors
were still dizzy with your presence and, startled, gave back
my too-sudden image. Who knows? Perhaps the same
bird echoed through both of us
yesterday, separate, in the evening...


--Translated by Stephen Mitchell


 
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Rainer Maria Rilke was born in Prague in 1875. He resided throughout Europe during his lifetime, including a 12-year residency is Paris, where he befriending the famed sculptor Auguste Rodin. His best known work includes his Duino Elegies and his Sonnets to Orpheus.

2009年5月23日土曜日

青葉若葉

(A)
あらたうと青葉若葉の日の光      芭蕉
剃り捨てて黒髪山に衣更        曽良
しばらくは滝にこもるや夏の初め    芭蕉

(B)
かさねとは八重撫子の名なるべし    曽良
夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな  芭蕉
啄木も庵は破らず夏木立

(C)
野を横に馬引き向けよほととぎす    芭蕉
田一枚植ゑて立ち去る柳かな

「おくのほそ道」の旅の、その「旅」にての句の初めが陰暦卯月朔日(今の暦に直すと5月19日)の「あらたうと青葉若葉の日の光」であることに迂闊なことに最近気づいた。この前に、周知のように冒頭の「草の戸も…」の表八句の発句と、「行く春や…」の留別の句があるが、これらは旅にての句ではない。「ほそ道」によれば、旅の第一夜は草加で明かした。しかし、ここで述べられているのは、旅へのあこがれ(「耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと…」)と携帯すべき旅のための物品などに対する感慨であり、実際の旅の土地・草加にまつわる記述はない。次の「室の八島」から「旅」は始まる。そのように読むように書かれている。しかし、ここには句はない。まだ、ないというのが正確であろう。なぜだろう。冒頭から草加宿までの張りつめた文体も一変する。その「室の八島」の記述は短くて、そっけない。

室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。

この記事は「ほそ道」のなかで、どういう役割を持っているのだろうか?読むたびに不思議な気持になる。前の記述と全くというか、文体に関しても気分的にも異質だから。盛り上がっていた別れの情緒と旅へのあこがれがぷつりと切断される。ニニギに一夜の契りで、子を?と疑われたコノハナサクヤは自らの潔白を証明するために、あなたの子であったらどんな状況のなかでも生まれうるといい、わざと無戸室(戸のない大きな殿)を作り、燃えさかる火の中で子を産んだという。その神話がこの神社の、この「室の八島」の記述としてあるわけだが、なんかよくわからない。「このしろ」の話はまた別で、ここにつたわる説話のようなものを基にしている。前後するが、土で周りを塗り固めた室で子を産んだから、そこから煙は漏れ出る、それゆえ「煙を読習し侍もこの謂也」というわけだ。この神社(大神おおみわ神社・現、栃木市惣社町)にまつわる話が、神話と伝承の二つで紹介されている。しかも(神道に詳しい)曾良による、「曽良が曰く」という形で。そして、ここには句は記載されない。もっとも同行した曾良の書留によると、この「室の八島」で芭蕉は次の五句を作ったということである。

糸遊に結つきたる煙哉   翁

あなたふと木の下暗も日の光   翁

入かゝる日も糸遊の名残哉

鐘つかぬ里は何をか春の暮

入逢の鐘もきこえず春の暮

この五つの句のなかで、「室の八島」に関係するものは一句目と三句目だが、あとの句は全然関係がないのか?特に二句目の「あなたふと木の下暗も日の光」は、次の日光での「あらたうと青葉若葉の日の光」の初案とされ、こことは全く関係のないように言われている。どうだろうか。安東次男がこの「木の下暗」の句に「木の花さくや姫」の面影を指摘しているのはさすがだと思った。この「室の八島」の条が、次の日光の条の「仏五左右衛門」のエピソードとともに卯月朔日の「あらたうと青葉若葉の日の光」という「光」に至るための周到な「煙」であり、連句でいうならば「遣句」のような働きを仕掛けているのだろう。これらは安東の「芭蕉 奥の細道 日本の旅人6」(淡交社・昭和49年刊)を読み返しながら教えてもらい、考えたことでもある。

ABCと句を並べたのは、A日光、B黒羽、C黒羽からの出立途次の「殺生石」、葦野の「遊行柳」という旅の場所の各句ということだが、「句文一体」のスタイルの見事さを抜け出して、つまり「ほそ道」のあの文がなくても、強烈な印象を与えるのは「あらたうと青葉若葉の日の光」の句ではないだろうか。しかし、皮肉なことに「…今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ…憚なほ多くて、筆をさし置きぬ」などという「文」のあとにあるせいで、その文との「一体」のせいで、そうだろうと私は思うのだが、以下のように読まれてきたのである。いや、そういう読み取りに対する嘆きの言葉なのだが。

― 前文に「恩沢八荒(二荒と対照させている)にかがやきて」云々は、徳川家の威光を言ったのに違いないから、ここに芭蕉の幕府に対する卑屈な態度を読み取り、非難する評者もある。戦争中は、大権の簒奪者としての将軍に対する讃美のゆえに非難され、戦後は、封建的な圧制者としての将軍に対する讃仰のゆえに非難され、どう転んでもこの句は浮かばれないのだ。―(「芭蕉」・山本健吉)

「前文」の分析は抜きにして、この句はその前文があろうがなかろうが、この卯月、皐月という四時のなかの「かかやき」への絶後のオマージュたりえていると私は考える。こういう句に権力の威光への拝跪を読みとる心性!そういう意見の文脈で極論すれば、ここは「ほそ道」の「句文一体」の作者によるわざとした「破れ」ではないのか?そのあまりの「一体」ぶりを日の光はやさしく笑うのであろう。

ここまで書いて眠くなってきた。本当は「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」という芦野の西行さん伝説の「遊行柳」での句のさまざまな解釈について考えてみようと思って書き始めたのだが、絶対に目的のところまで行くはずがない。

でもなんといっても好きな句、たとえば、

かさねとは八重撫子の名なるべし 

当然だが「文」がまたすてきだ。それにしても、こういうスタイルのエクリチュールを「発明」した男がいたとは!そして、この男の後は、途絶えたままなのだ。その「表現」の冒険においては。

2009年5月19日火曜日

お互い、死ぬまで

木曜日(14日)、和史と立川ルミネ8階でデート。

その日に21年ぶりの教え子からのメールを見る。五十名近いクラスが一学年十組もあった当時の高校の卒業生。驚きとなつかしさと。

土曜日(16日)、拓也と、養老の滝で飲み(といってもほとんどぼく一人でだが)、そのあと拓也を拙宅まで無理に連れ込む。ごめんなさい。大いなる間違いを犯していた。彼は今年就職したのだと思っていたが、修士の2年目だったのだ。いくつか蹴ったが(これが彼の力量)、行く先は決まったということである。日本を代表する有名なシンクタンクである。女房いわく、すばらしい教え子たち、それに比して?

土曜日の晩、日曜日に長駆北海道に軽トラでゆく和史に「気をつけて」とメールを送る。

日曜の朝、ぼくが今まで人からもらった手紙やメール類のなかで一番感激した(といえば大げさだが)短いメールを和史からもらった。忘れないために書いておく。

― お互い、死ぬまで、果敢に書き続けよう。―

2009年5月16日土曜日

五月十六日

「ことし、元禄二年にや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひたちて」と、とうてい「かりそめ」ではない周到な推敲・斧鉞の末の作品『おくのほそ道』のための「行脚」に芭蕉が出立したのが、今日を遡ること丁度320年前であった。元禄2年、弥生も末の七日(陰暦の3月27日)は太陽暦では1689年の5月16日にあたる。日数百五十日、全行程6百里(2400キロ)の旅の始まりの日が今日である。芭蕉46歳、曽良41歳。終着地である大垣に着いたのは8月20日(10月3日)。
その出立の今日の日、見送りに来た門人たちとの別れの句として作品『おくのほそ道』に掲載されるのが、

行く春や鳥啼き魚の目は涙

今朝、散歩の途中で、この期日のことを思いうかべた。帰ってから、こうして記念に書きはじめたが、これ以上書くこともない、……

最近考えたのは、芭蕉という人間とその書きもののことだが、この二つが(切り離させないけど)もしなかったとしたら、日本の文学は今とは全く異なった景観を呈していることだろう、というようなこと。その強さと鮮やかな輪郭を今ぼくは勉強しているつもりだが、読んでいてこちらの頭がはっきりしてくる気がするほどだ。こんな長大な旅(これだけではない)をやってのける人だから、強さは当然かもしれないが、そのエクリチュールの輪郭線の広がりと深さとしなやかさと、ぼくの言語では言い尽くせないほどのフィギュールの多彩さなどの、要するに「自然」と「巧みさ」との渾然一体としたあり様に、その姿のただならぬ様にひかれる、というようなこと。

夏にアメリカに行く。7月の終わりに出発して、8月の終わりまで。その旅を、「おくのほそ道」のようなものに変えるエネルギーと知識はないけれど、なんとかアメリカを詩の世界からとらえてみたい。アメリカと芭蕉を結びつけて考えたい、というようなこと。

キーン先生は、芭蕉の旅日記について、次のようにまとめている。
「…芭蕉の日記に見られる情報の空白は、数々挙げられる。だがそれをいったところで、私たちが当初から知っていたこと、すなわちこれらの日記は、単なる旅の記録ではなく、文学作品として書かれたのだ、という事実を、それは証明するのみなのである。なぜ日記を書いたか、またいかなる読者を念頭に置いていたか、芭蕉はどこにも言っていない。だが、彼がそれに気づいていたにせよいなかったにせよ、芭蕉は、すべての時代、そしてすべての人のために書いていたのである。」(「百代の過客」)この「すべて」は、もちろん日本、日本人だけではないということだ。

2009年5月12日火曜日

授業

山の上の学校、3時間。貧しきものは幸いなるかな、世界で一番有名な逆説。というようなことを一クラスで喋る。もう一クラスでは、クラスの皆で小説を定義するということをやってみる。「兎の楽隊」「兎の眼」「ハリーポッター」「泥流地帯」など、生徒が発言してくれた、自分が読んだ「小説」、どういう話?と訊くと、いろいろ言ってくれるから、それを黒板に書く。たとえば「兎の眼」は、心を閉ざした男の子が蛙を切り裂くことから始まる話、などと。こういうことをすぐにはっきりと言える生徒はすごい。それをそのまま黒板に書いてみせます。「小説」を辞書で調べてきていますから、その調べたことと自分の経験を重ね合わせるようにして、「小説」の定義を考えようと、ちょっと火をつけてやるのです。どういう定義ができるのでしょうか?
―いろんな話がある程度の量のある文章(散文)で書かれていて、それも作者が想像力を働かせて作った虚構で、とくに人間の経験が題材として取り上げられているもの― 
こういうような定義ができあがると、生徒たちもなかなかのものだなと思います。相互にやりとりする授業は普段はあまりできないのですが、たまには思いっきり羽目をはずして遊ぶのも精神衛生の上からも必要です。五月のさわやかな風がクラスを吹き抜けていく。

いちはつの幼き紫を愛づる日         蕃

 
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2009年5月11日月曜日

四季も他人も

久しぶりに山の上の学校。三年生は模擬試験だったので、5、6時限目の2時間続きの「小論文」の授業はカットだった。ラッキーというべきか。わかっていたことだが、うれしいですね。午前中3時間の授業を済ませて、帰宅。昼はどこかで食べてこいという女房どののお達しだった(家の周囲の草取りという恒例の仕事に専心彼女は取り組みたいので、お昼を二人で取る余裕なぞない、ということ)ので、駐車できる中華屋さんで、白ゴマ入り坦々麺を食べて帰った。2時半に帰宅すると、草取りは一段落ついていた。御苦労さまです。

そのあと一時間半散歩に出かける。散歩というよりwalkingというほうがいいのかもしれない。かなりハードに身体に負荷をかけるようにして歩く。とにかく体重を減らしたいのである。血圧を下げたいのである。あと少しでジョギングか。でも昔のようには走れない、悔しいが。8キロ余りを歩く。それでも減らないのだ。まだ、と書いておこう。

道の途中で眺める樹木、草花、畑、川の流れ、聞く鳥たちの声、行き交う散歩する同年代のおじさん、おばさんたち、これらすべてを深く抱擁したい気持ち。その気持ちが深まっていくことを痛切に感じる。なんですかね、これは。何回歩いても新鮮なんだ。今日はエゴの花の落花を踏みながら歩く、そのかぐわしい匂いがあたり一面に漂う。たぶんエゴだよね。この白い鈴のような花は。コデマリでもオオデマリでもない。匂い。流れの音。空気。光。

昨日は母の日。女房と一緒に立川の昭和記念公園に行く。母の日だから?「あなたを産んだ覚えはないよ」「いや、あなたはぼくを産んだのだよ、もうぼけて忘れたのか」などと話しながら強烈な日差しのなか、広大な公園を二人でさまよいましたね。日本庭園にも行きました。盆栽が展示されていたけど、三百年ものの「松」や何十年という「五葉の松」など、すばらしいものだった。若い時は、「ヘン!テヤンデー、ボンサイなん大嫌い」という調子で生きていたが、確かに生きてきたが、この素晴らしさに目を開かれたのは、いいことなんだろう、陽水さん。ポピーの乱舞、ポピーのコマーシャルを二人で歌いながら歩いていました。アイスランドポピーなど。これはケシですよね。アヘンの原材料。ハシッシュは大麻か、タイマーズは清志郎か。大きな樹木、水木の枝が湖面に垂れて花が散っている。昭和記念公園はすごい。年間パスポートを持っている友人もいるほどだ。季節、季節にまた来ようと、母ならぬ女房と誓った日。芭蕉先生も言っているではないか。「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」と。先日、キーン先生の番組を見たとき、先生が最後に色紙に書いていて披露したのも、この芭蕉の言葉から示唆を受けたものという説明だった。「四季も他人も友とすべきだ」これはまた、ドナルド・キーンでなくては書けない言葉である。なんてすてきなんだろう。

 
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2009年5月9日土曜日

第三回大江健三郎賞公開対談

「第三回大江健三郎賞公開対談」なるものに出かけた。先日、応募し、当たったからだ。
今回の受賞者は安藤礼二、はじめての評論部門からの受賞ということだった。対象になった本は『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社)というもの。

場所は講談社のホール。14時半から入場、15時に開始ということだった。いつもの癖で13時ころには池袋から有楽町線に乗りかえて護国寺に着いてしまった。八王子の田舎から出かけるので、時間や距離の感覚がわからない。でも、暇があるのはよい。護国寺にお参りした。骨董市が開かれていた。三十年ぐらい前に一回ここに来たのを突然思い出した。そうだ、本堂の壁に掲げられていた明治の画家、原田直次郎の「騎龍観音」を拝みに来たことがあったのだ。原田は森鴎外の友人で滞独三部作の一つ『うたかたの記』の「画家」のモデルと言われる人物である。その画業のことはすっかり忘れられているが、ここの「騎龍観音」は有名である。30年前は実物を見たような気がするが、現在は国立近代美術館が保管しているということで、その冴えないコピーが掲げられていた。

まだ時間があったので、上島コーヒーでアイスコーヒーを飲んでいたら、中沢新一がやってきた。時間になったので講談社の前に行って驚いた。きれいなギャル風の娘さんたちが並んでいるではないか。これはなにかの間違いだと思ったが、よく聞くと、学生の方はこちらに並んでくださいと係りの人が言っている、まだわからない。すこし冷静になって、ああ、中沢も安藤も多摩美の教員だったのだ、それで学生たちが百名以上御来訪しているのだった。課題かなにかが出されているようで、対談が始ったら一斉にメモり出した。そのまえに、ぼくはなんとか自分の席を端っこに確保する、ぼくの内側の席が二個空いていた。祈る。しかし、かわいい小学生のような声でお喋りする女の子二人が座ってしまった。ひっきりなしにコロコロ笑い、手をうち、話すのだ。帰ろうかと一瞬思う。対談が始まってからは、さすがに大人しくしてくれた。

対談の内容はどうでもいいものだった。私は大江健三郎が元気であることに驚いた。ほとんどひとりで喋っていた。安藤礼二は全然偉ぶることのない人間だった。大江は安藤の折口信夫論をあたりまえだが掛け値なしに称賛していた。ポイントは「わかりやすい」というものだ。これはなるほど的確な批評である。折口の書いたものを、こんなにわかりやすく、しかもミステリー風に面白く読めるように解釈し、永遠の「謎」、つねに刺激的な「謎」としてある折口の思想を明快に開いてみせた人はあまりいなかっただろう。その神秘的、超越的思考を世界の空間と時間に位置づけてみせたことは確かに大した力量だと思う。それにしても大江のユーモアと元気、74歳過ぎだろうが、こっちも元気が出て結構笑った。隣の女子学生たちは笑わなかったけど。「ぼくはね、批評家とは仲が悪いのです。最初はとてもいいですよ。江藤淳とは最初の三ヶ月は蜜月だった、それが過ぎてから何十年彼が死ぬまで不倶戴天の敵、安藤さんとはどうかな」云々。
大江が言っていたので心に残った言葉がある。
対談が終わって、質問の時間。男の学生が「私たちの年齢は、天然自然に抱かれたという経験がない。それがなにか決定的に先生たちと違うような気がする。文学や表現において欠損としてある。どうしたらいいか。」というようなものだった。それに対して「私はあなたに反対です。私は森のなかで育ったが、自分が自然と共にあったという気はそのときは全然なかった。でもあるとき絶対に一本の樹木の美しさに気づくときがあります。自分がたとえば50年生きるということを考えたら、そのなかで自然に出会うことはいっぱいあります。この肉体そのものが自然なんですよ」というような答え方をしたことである。

それから加藤周一の素晴らしさ、その「空海」の捉え方の素晴らしさ、それは折口や安藤とも共通するというようなこと。「空海」がキーワードだったような対談だった。最後に安藤は分かっていても、話すときはオリグチ、ヤナギダになってしまう。それを大江が軽く揶揄した。人の名前は正確に覚えよう、オリクチ、ヤナギタですよね、私はオーエです。
大江をまた読もうと思った。今年の最後くらいに『水死』という長編を講談社から出すそうである。

(安藤の言う「光の曼荼羅」としての折口思想解釈を大江は評価しながらも、それが「大東亜共栄圏」思想などと重なるかのような扱い方をする部分には反対だと言っていた。それに対して安藤は、折口は単純化できない、その重層とした複雑性のありかを探ることが大切で、そのこと自体で彼の思想の政治化を否定できると自分は思っている、といった。このような部分が面白いといえば面白かったが、それ以上発展はしなかった。)

折口信夫、釋迢空。富岡多恵子もその評伝を書いていたな。富岡が探求し、光を当てた「藤無染」という人物の信夫への影響、これが一番大きかったのか。秘密が指すところは「無染」であるというような書き方が多いのも、この本のスタイルである。ぼくはあまりこういう思考のスタイルは好きではない。これも正直に書いておこう。

2009年5月8日金曜日

Missing poet

―(CNN) 日米間の文化交流で日本に滞在している米ワイオミング大の学者が、鹿児島県の火山島、屋久島の西隣にある口永良部島(くちのえらぶじま)を訪れたまま行方不明となり、捜索活動が続いている。

行方が分からなくなっているのは、ワイオミング大のクレイグ・アーノルド助教(41)。国際文化会館などが共催する「日米芸術家交換プログラム」で、3月から半年間の予定で来日した。詩人としての業績で知られ、世界各地の火山地帯を題材とする散文詩の創作に取り組んでいる。

ワイオミング大によると、アーノルド氏は4月27日に1人で同島の火山を訪れた。日帰りの予定だったが帰らないため、宿泊施設が当局に通報した。

家族の話では、これまでに見つかったのは山に登り始めた足跡だけ。現場には約60人の捜索チームが、ヘリコプターや救助犬とともに出動。米大使館の要請で、沖縄の米空軍基地からもヘリが送り込まれた。

同大の学部責任者によると、アーノルド氏は火山登山の経験が豊富で、「危険な山はガイドと一緒に登っていたが、今回は単独で出かけたようだ」という。―

こういう記事があった。asahi.comの今晩の記事では、「消防などの捜索はすでに打ち切られ、アーノルドさんの家族や鹿児島大の米国人留学生が独自に捜索を続けている」ということだ。

Craig Arnold

Craig Arnold is the author of Shells, a Yale Younger Poets selection chosen by W.S. Merwin. A former winner of the Amy Lowell Travelling Scholarship and the Rome Prize, he was recently awarded a Fulbright to Colombia and a US-Japan Creative Artists Exchange Fellowship. He teaches at the University of Wyoming in Laramie.

 
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ずいぶん有能な人らしい。その詩も少し読んでみた。奇蹟を祈る。

2009年5月7日木曜日

精神的に向上心のないものは馬鹿だ

漱石「こころ」、「下」の第41節、「先生」が「K」を上野公園で、やっつけるところをYale大学のEdwin McClellan教授は次のように訳している。

I waited no longer to make my thrust. I turned to him with a solemn air. True, the solemnity was a part of my tactics, but it was certainly in keeping with the way I felt. And I was too tense to see anything comical or shameful in what I was doing. I said cruelly, “Anyone who has no spiritual aspiration is an idiot.” ……(中略)
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…… I said again:” Anyone who has no spiritual aspiration is an idiot.” I watched K closely. I wanted to see how my words were affecting him.
“ An idiot …”he said at last. “Yes, I’m an idiot.” (以下略)


「お嬢さん」をめぐって、親友同士が演じなければならない悲劇の始まりが見事な英語で訳されている。緊迫した感じもよくとらえられている。ところで、その訳者について、昨年話題になった『日本語が亡びるとき』の著者、水村美苗は次のように、その本の「あとがき」に書いていた。

言語について思考するのがいかに困難でありながら大切なことであるかを学んだのは、昔、イェール大学で仏文学を専攻していたときである。ポール・ド・マン、ショシャナ・フェルマン、マリア・パガニーニの諸先生に感謝する。また、当時、加藤周一氏、そして柄谷行人氏が日本文学を教えるために招かれていた。まったくちがった視点からだが、まだ二十代だった私がお二人から日本文学にかんする色々な話をじかに聞くことができたのは実に幸運だった。さらにそのころはエドウィン・マックレラン先生が日本近代文学を教えていた。日本近代文学をあそこまで愛し―漱石のこの部分がいいという話になると、ほとんど涙ぐまれたりした―くり返しくり返し読んでいた人物を私はほかに知らない。アメリカで育ったゆえの恵まれた出会いであった。


「日本近代文学をあそこまで愛し―漱石のこの部分がいいという話になると、ほとんど涙ぐまれたりした―くり返しくり返し読んでいた人物を私はほかに知らない。」と水村が言うエドウィン・マックレラン先生の訃報を今日の朝日の夕刊で知った。それも引用してておこう。

【ニューヨーク=田中光】夏目漱石の「こころ」「道草」など日本文学を英訳した米エール大学名誉教授(日本学科)のエドウィン・マクレランさんが4月27日、肺がんのため、コネティカット州ハムデンで死去した。83歳だった。
 1925年、神戸市生まれの英国人。「こころ」のほか、志賀直哉の「暗夜行路」や吉川英治の「忘れ残りの記」を翻訳するなどして、94年に菊池寛賞、95年に野間文芸翻訳賞を受賞している。


そして今晩の8時から、NHKの番組で、ドナルド・キーン先生の特集を観る。梁石日(ヤン・ソギル)をわざわざニューヨークに派遣しての対談インタビューの形式である。このコンセプトがぼくは全然わからないし、番組自体も対談者二人が日本に対する異質な二人の他者というような考えで、日本文化や文学を相対化するということでもなかった。ただ、二人のたたずまいの違いはみょうに印象深かった。

私はキーン先生のすべての業績に通じているものではないが、しかし、その偉業を讃嘆する。そこから学びたいと思う。

マックレラン先生 83歳で死ぬ。
キーン先生、86歳でヤン・ソギルに誠実に話していた。マックレラン、キーンの二人、そのような日本文学の研究者に会いたいものである。とくに日本人の。

2009年5月6日水曜日

堤長くして

雨が降っていたが散歩に出かけた。昨日は、朝7時半から9時半までの2時間、その後雨が降り出した。今日は8時半から10時までの一時間半。

ハナミズキの花はすべて散ってしまった。稲畑が鋤かれて、田植えを待つのみになっている。稲荷社の前の欅の巨木の緑も、本格的な夏の色になっている。浅い緑からの変化を散歩のたびに気にかけていた。城址公園の黄菖蒲が鮮やかである。赤い蓮花が一輪ほど咲いていた。シャクナゲの大きな花も終わりそうだ。千切れたようになっている。今は川沿いの道ではツツジが我がもの顔である。鳥たちが鳴いている。何かと同定できないから書かない。歩いていると、自分が少年の時のような感覚を取り戻したいと思っていることに気がつく。8歳ほどの頃にもどってみたい。選択できるのなら、道と川があって、小さな山に抱かれている場所の少年である。日に二時間ほど、散歩でその白昼夢を見ている。

4月30日  国立新美術館「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」を観に行く。そのあと「東京ミッドタウン」に行き、そこから歩いて原宿まで出る。「表参道ヒルズ」なる所へも行く。すべて初体験の場所。

5月1日  国立「奏」22周年記念で300円一律という安さで供された数々の料理を楽しむ。口福の夜。福間さん、藤井さんと。ワインはポルトガルのダン。

5月2日  岩田さんと相原の立ち飲み屋「まいど」で飲む。談論風発。

5月5日  潮と郁さんと、ぼくたち4名で食べて飲む。楽しかった。



卯の花や暗き柳の及び腰     芭蕉


岩倉の狂女恋せよ子規      蕪村

山人は人也かんこどりは鳥なりけり

宵宵の雨に音なし杜若

2009年5月4日月曜日

五月の貴公子

五月の貴公子            萩原朔太郎

若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でをどつて居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女のくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
私は五月の貴公子である。


忌野清志郎が死んだ。58歳。
なぜか朔太郎の上記の詩が思い浮かんだ。忌野清志郎のイメージとどこがどうつながっているか、この詩を想起した私にもよく説明できないが、彼は永遠の貴公子であろう。
追善の気持で掲げておく。





好きなバラードも、


絶唱、