2010年8月30日月曜日

泉重千代翁

 今朝の、永久歩行者(見習い)の歩行記録。11キロ余り、130分ほど。感想、ウォーカーズハイ寸前、または熱中症寸前。
 道中「みみず」の屍体多きを観察す。土中の熱さに耐えかねてそこより脱出せんとするも、地上のアスファルトの更なる熱に焼死せしものならん。帰りてシャワー。計量器に乗る。昨日より寸毫の減量ならんか。
 
 『思想』9月号ほとんど読了す。ともに沖縄出自の仲里 効と前嵩西一馬の論考の対照的なるを面白く思う。「どっちもどっちだ」というシニカルな思いもわくが。アンティーユ諸島の去年のゼネスト、そのときに出されたグリッサンらのマニフェストが「高度必需品宣言」だが、これを一番理解し、冷静にわれわれに伝えようとしているのは、これを訳出した中村隆之である。わたしは彼の、この宣言の背景としてのアンティーユ、とくにマルティニックの歴史、経済の解説を何回となく読んだ。そこから考えていきたい。安易にフランス海外県の置かれた状況と沖縄のそれとをと結びつけないことが大切だと私は思う。

 八月の30日は、高尾山のビアガーデンでいつも飲むことになっている。昔の同僚たちの自然の取り決めだが、今日は私と友人の二人だけだ。みんな忙しいのだろう。でも二人は楽しく飲み食べた。これにまさるものはない。
 
 帰宅すると、息子のTwitterの写真が待っていた。息子夫婦は私の両親、息子にとっては祖父母のいる徳之島に今滞在している。今年の6月に結婚したのだが、彼の嫁さんを祖父母に披露するという旅でもある。今日着いたのだが、じいさんやばあさんも大喜び、いろいろ連れ回しているらしい。その途次の写真で、泉重千代翁のもの。私はこれを知らない。見たことがなかった。本当に立派で堂々とした像だ。願わくは「超越高齢者」たちのすべてがかくのごとき尊崇を受けんことを!

 
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2010年8月29日日曜日

噴火

 
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ベスビオではなく、桜島の噴火。
先ほど息子がTwitter上にアップロードしたものだが、この凄さは地域の人たちには
毎度のこことは言え、大変なものだろう。静まれ、桜島よ。

今朝の散歩、10キロ。ここ数日10キロ歩く。さすがに疲れるが、やせ我慢が意地みたいなものに爆発した。
(何に対する?)

今日から、原稿書きに突入する。orつもり?

2010年8月28日土曜日

反情報

 Skypeなるものをはじめた。アメリカ在住の娘とそのパートナーと、日と時間を決めて、今まで二回ほど対話した。ビデオ電話。よく宇宙から手を振りながら誰かが喋っている映像をみた、それを相互に、この地球上で実演しているようなものだと最初は思った。しかし違っていた。話している間、ずっとこちらの日常、あちらの日常もビデオに静かにながれていて、それを見るともなくお互いが見ている。ぼくたちが喋っている、その後ろを我が家の王である猫(人間)アトムがのそりと通過する。それを娘が見て「ああ、アトちゃん」と呟く。きわめて日常的で、そこがジャクソンビルで、ここが片倉という距離など、あっという間になくなってしまう。だからどうだというのではない。

2010年8月24日火曜日

Every cloud has a

 湯殿川を西に向かって、その源の方へ歩くのだが、午後5時過ぎ、大きな入道雲がそれだけ一つ西空の半分近くを占めて、それに向かって歩いて行くぼくを睥睨している。輝く夕日が、その大きな塊に遮られている。でもその輝きは、ぼくの見ている大きな雲の縁にはみだして、そこが沈んだ金色ににじんでいる。"Every cloud has a silver lining."
 
 縁で田んぼが輝いている。都会と都会と都会の縁で…。対比するものなどすべてないのだが、その道は湯殿川によって分けられている。川のなかにはコンクリートの堰がある、両岸が作られ、葦や名を知らない草が密生し、それが中州を作っているところもある。カワセミを見る日とそうでない日。
 「周縁」と書いて終焉するわけにはいかない。どこかで生きているのかもしれない。

「クレオール」とはなんだろう。歩きながら、切れ切れに浮かぶ思念の一つ。定義できないものに囲まれている?そうではなくて、定義を誘うひと欠片の魅惑もないものに囲まれて、その草としか言えないもどかしさの豊穣から無縁な、ありふれた(和音)の……

 運動だ。絶えざる感情の色、時間の堆積を破砕する(不協和音)、きみの吹くカワセミの色、すばやく空から落ちて、水を狩れ!

 藍色のムードだとすぐわかる、ムードの日。言い忘れたことがある。百日紅の咲き競う道の近く、16号道の交差点で小さな亀が轢かれていた。片倉城趾公園の池のなかで生きて、歓びのコミューンを作っていた亀。そこからぼくの足で2分もしない交差点、きみは何時間かけて、この激しい交通の、その中心で、きみの甲羅を無残に押しつぶされるために、歩いてきたのか?

2010年8月19日木曜日

Te Deum

Te Deum
       Charles Reznikoff(1894 - 1976)
Not because of victories
I sing,
having none,
but for the common sunshine,
the breeze,
the largess of the spring.
Not for victory
but for the day's work done
as well as I was able;
not for a seat upon the dais
but at the common table.

賛美の歌

勝利ゆえに僕は
歌うのではない、
勝利などひとつもないから、
ありふれた日光のため、
そよ風のため、
春の気前よさのために歌う。
勝利のためにでなく
僕としては精一杯やった
一日の仕事のために。
玉座のためでなく
みんなのテーブルの席で。

Paul Auster 「空腹の技法」(柴田元幸/畔柳和代 訳 )より

 Paul Austerの"The Art of Hunger"を眺めていたらCharles Reznikoff(チャールズ・レズニコフ)というユダヤ系(a jewish-American)の詩人についてのオマージュめいたエッセイ(タイトルは"The Decisive Moment")があった。
 その終わりに、私にもよく理解できて、そうだよなという感慨が自然に吐露される詩があった、その詩。

2010年8月17日火曜日

夏相聞

○「釋迢空歌集」から、「夏相聞」というタイトルのついた短歌を抜き出してみた。

ま昼の照りきはまりに 白む日の、大地あかるく 月夜のごとし
真昼の照りみなぎらふ道なかに、ひそかに 会ひて、 いきづき瞻(まも)る
青ぞらは、暫時(イササメ)曇る。軒ふかくこもらふ人の 息のかそけさ
はるけく わかれ来にけり。ま昼日の照りしむ街に、顕つおもかげ
ま昼日のかがやく道にたつほこり 羅紗のざうりの、目にいちじるし
街のはて 一樹の立ちのうちけぶり 遠目ゆうかり 川あるらしも
目の下に おしなみ光る町の屋根。ここに、ひとり わかれ来にけり

  「海やまのあひだ」1925年(大正14年)発行。1904年(中学時代)から25年までの作品691首を収録所収

あかしやの垂(シダ)り花(バナ) 見れば、昔なる なげきの人の 思はれにけり
ひそかに 蝉の声すも。ここ過ぎて、おのもおのもに 別れけらしも
あかしやの夕目ほのめく花むらを 今は見えずと 言(コト)に言ひしか

  「水の上」1948年(昭和23年)発行。1930年から35年までの作品468首を収録。

○同じく「釋迢空歌集」から、「夏」(夏の季節に詠まれたものも含む)の歌で、好きなものを抜き出してみた。

沖縄の洋(ワタ)のまぼろし たたかひのなかりし時の 碧(アヲ)のまぼろし
夏の日を 苦しみ喘ぎゐる時に、声かけて行く人を たのめり
裸にて 戸口に立てる男あり。百日紅の 黄昏の色
道のべに 花咲きながら立ち枯れて 高き葵の朱(アケ)も きたなし
   「倭をぐな」1955年発行 より

庭暑き萩の莟の、はつはつに 秋来といふに 咲かず散りつつ
夏山の青草のうへを行く風の たまさかにして、かそけきものを
   「水の上」より

夏海の
荒れぐせなほる昼の空。
われのあゆみは、
  音ひびくなり

気多の村
若葉くろずむ時に来て、
 遠海原の 音を
  聴きをり
「春のことぶれ」1930年発行より、1925年から29年までの501首を収録。

青うみにまかがやく日や。とほどほし  妣(ハハ)が国べゆ 舟かへるらし
天づたふ日の昏れゆけば、わたの原 蒼茫として 深き風ふく
馬おひて 那須野の闇にあひし子よ。かの子は、家に還らずあらむ
なむあみだ すずろにいひてさしぐみぬ。見まはす木立 もの音もなき
谷風に 花のみだれのほのぼのし。青野の槿 山の辺に散る
緑葉のかがやく森を前に置きて、ひたすらとあるくひとりぞ。われは
糸満の家むらに来れば、人はなし。家五つありて、山羊一つなけり。
処女のかぐろき髪を あはれと思ふ。穴井の底ゆ、水汲みのぼる
山深く われは来にけり。山深き木々のとよみは、音やみにけり
夏やけの苗木の杉の、あかあかと つづく峰(ヲ)の上(ヘ)ゆ わがくだり来つ
   「海やまのあひだ」より

いろいろ考えることもあるが、まとまらない。「夏相聞」の連作は、藤無染との別れの記憶が沈んでいる。「水の上」歌集のそれも同じかもしれない。富岡多惠子編の岩波文庫の「釈迢空歌集」は読みやすい。

2010年8月15日日曜日

高尾山

高尾山薬王院にて、
Troy family
 
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昨日、Troy,Vanessa夫婦,その娘Madelineと我ら夫婦の五名で、ミシュラン三つ星なる高尾山へお参りした。というよりは、実情はここにあるビア・ガーデンにお参りしたわけだが。すさまじい人で、満員なので整理券が配られる。280番台である。そのときは三時前。一時開場である。案内の人に訊くと、四時頃に、我々は入場できるのではないかという。そこで、お寺に参詣したりして、ゆっくりとまたビアガーデンに戻ってみると、これはまたもうどうしようもないほどの混雑。とっくに我々の番号を経過して、今や新しく20番台の呼び出しではないか。まあ、いろいろあったが、なんとか泣きついて4時半ごろには入ることができた。その時点から2時間限定のeverything you can eat and drink?のはじまり、はじまり。

 
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2010年8月14日土曜日

〈高度必需〉とは何か――クレオールの潜勢力

8月13日(金)
国立ロージナ。宗近夫妻、添田夫妻、瀬尾、雨矢、水島、計7名。宗近(「ポエティカ/エコノミカ」白地社)、添田(「吉本隆明 論争のクロニクル」響文社)両君のささやかな出版記念会。瀬尾さんがお二人にすてきな祝いの品(ペイパー・ウエイト)も用意してくれていた。いろんな話。「即自的悪」(添田さんの本にある言葉)をめぐって。「宗教性」をめぐって。「ホメオパシー」をめぐって。「メディアの無意識」をめぐって。日本は一年足らずで首相が交代するのも、天皇がいるからという無意識が、メディアの無意識としてあるから、あんなに世論調査で操作して、バタバタやめても平気なのだ云々。鳩山の問題を「言行不一致として、Mさんはとらえているなら、それはおかしい、それぐらいでアレントを持ち出してはだめだ、不一致でいいじゃないか、それを支えることを考えるべきだったのに、福島は一番だめだった、現実を追認するだけでは政治家ではない云々」。これはぼくへの痛烈な批判。久しぶりにゆっくりと話をしたような気がする。宗近さんからフランス土産、フォアグラの缶詰をもらう。彼は月曜日にパリに戻るとのこと。会の前に増田書店で富岡多惠子編「釋迢空歌集」岩波文庫を求む。

8月12日(木)
今年就職した教え子と飲む。蒲田の独身寮からお盆休みで八王子の実家に帰ってきた、一杯やりましょううれしい誘いがあった。八王子の南口の沖縄料理屋で飲む。彼は「ティーチ・イン沖縄」などを学生時代に主催者側としてがんばってやってきて、沖縄に寄せる思いは並々ならぬものがある。というわけで沖縄料理屋というわけでもないが。
会社(M総研というシンクタンクのようなところ)の話、今は研修期間のような勤務態勢だが、10月頃からは海外への出張なども含めて忙しくなるだろうということだった。飲み終わって勘定の時に私に払わせなかった。そのつもりで誘ったとのこと。ただ、うれしかった。

もう一人の教え子(高校が上記の子とは違う、年齢もこの教え子の方が上である)は中村隆之といって、今パリで研究生活を送っている。フランス文学のドクターで、専門はフランス語圏or県のカリブ島嶼のクレオール文学である。とくにエドゥアール・グリッサンの研究をしている。マルティニックに昨年一年滞在して勉強し、そこでグリッサンとも直接に会ったりもしている。その日録は中村のblog「OMEROS」http://mangrove-manglier.blogspot.com/で読むことができる。ところで、彼のそのblogによれば、岩波の雑誌「思想」の9月号(八月下旬発売)の特集に深く関与していることがわかる。教え子のために宣伝したくて書いているのだが、以下彼のblogからの引用。

去年の1月から3月までグアドループ、マルティニック、レユニオンで行われた長期ストライキは、ぼくにとってはちょっとした「事件」だった。何しろその翌月からマルティニック滞在をする予定でいたのだから。ぼくが到着したときには島はもう平穏を取り戻していた。だが、ゼネスト後の不穏な雰囲気はまだ街中に漂っていた。フォール=ド=フランス市街のスーパー「カジノ」は放火で閉店したままだったし、バスの中では運転手への強盗未遂も目撃したこともあった。この場所で起きたことを追想しようとしていたときに、ぼくが手に取ったのがエドゥアール・グリッサンやパトリック・シャモワゾーたちが書いた小さな小冊子だった。難しい文章だったが、グアドループやマルティニックの「今」を伝えると共に、知られざるこれらのフランス海外県の島々が抱える問題を日本で紹介するには、この文章はうってつけだと思った。その後、ご縁があり、『思想』をご紹介いただいた。最初はこの文章の翻訳を掲載するという話だったが、話が膨らみ、ついには特集企画という話にまで発展したのだった。その企画がついに実現し、9月号に掲載される運びになった。特集タイトルはグリッサン等の小冊子の題名にちなみ、「〈高度必需〉とは何か――クレオールの潜勢力」となる予定。一見何のことやら分からない題名だと思うが、彼等の文章を読めば、納得のゆくものであると思う。グリッサンの1981年の大著『アンティーユのディスクール』の部分訳ほか、カリブ海・沖縄・台湾を群島的に結びつける力作評論が揃っている。ぼくもまたマルティニック滞在を活かした論考を準備した。8月25日に発売の予定。お手にとってご覧ください。よろしくお願いします。


私はわくわくしながら発売を待っている。みなさまも今年の夏の最後の読書として、多分未知のフランス海外県の小さな島々の大きくて痛切なうねりを浴びてみてはいかがでしょうか。ここで出された問いはマルティニック諸島をこえて普遍的なものであり、この日本という先進国の核にある諸問題の解決への希求を励ましてくれるものであることを私は確信している。

2010年8月10日火曜日

Job disconsolate

 東京藝術大美術館「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」を観にゆく。マルク・シャガール(1887~1985)の70点ばかりとロシア・アヴァンギャルド(カンディンスキーも何点かあった)の画家の作品40点ほど、すべてパリのポンピドー・センターの所蔵作品からの展示で、このコンセプトも そのセンターのアンゲラ・ランプ学芸員の企画という、すべて丸投げのような展覧会である。シャガールは白ロシア(ベラルーシ)の町 ヴィテブスクの貧しいユダヤ人街に生まれた。20歳の時、そこから脱出するかのように首都サンクトペテルブルクへ出て美術学校に行く。そのあと画家としてフランス、アメリカで名声を獲得する。

 ランプ学芸員は「シャガールは生前、「ロシアとの関係を切ったことは一度もない」と言っていた。シャガールとロシアの作家たちの作品の類似性や違いを知れば、これまで以上に深くシャガールの作品を鑑賞することができるはずです」と語っている。

 彼の絵は東欧ユダヤ人としての生い立ちと旧約聖書のモーセを始祖とするユダヤ教的世界(彩色リトグラフ連作『出エジプト記』など)を含めての聖書的絵画テーマに深く浸透・影響されているので、その色彩のすばらしさに感嘆するだけでは、その絵に込められたカバラ的な神秘性を解くことは出来ない。本当に彼の絵はわかるのか?とてもわかりやすそうに見えるが、その表現の独特のスタイルが示唆するのは、私には奥深い宗教性のように思える。ユーモアのある筆致や妻や家族への臆面もない愛情の表現などから結構現代的なヒューマニストだと見られているが(もちろんそういう側面を否定はしない)、彼の根底は父祖たちのユダヤ教の世界と結びついているのではないか。次の絵は、この展覧会の展示ではないが明るいシャガールの背景にはこのヨブ的な嘆きもある。これは私の偏見かも知れないが。

Job Disconsolate
 
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ロシアとロバとその他のものに(これは展示されていた。初期の代表作で、題名はフランスの詩人B.サンドラールが付けた)

 
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2010年8月9日月曜日

a part of speech

 広島、長崎の平和記念式典が終わった。そこで出された日本国首相の声明に本当にがっかりした。それぞれの市長たちの心のこもった志の高い演説に比べることなどできない。実際の被爆地の市長としての核廃絶に対する積極的な提案、なかでも唯一の核兵器被爆国として非核三原則の法制化などを鋭く今の政府に迫るものだった。それにしても、まずもってこの国の首相が、しかも政権交代後の首相として、これぐらい(非核三原則の法制化)はぶちあげてもおかしくないのにという思いが私にはあったが、正反対に核の抑止力などを肯定してしまうという、今はもうありえないだろうと私は思うのだが時代遅れのリアルポリティックスぶり、チョウ低温ぶりに、非常にがっくりした。ルース大使なども参列しているのだからここで理想をなぜ揚言できなかったのか、菅首相よ、いやその参列に遠慮したのか?あなたは、もぐらのような状態になっているが、こういう首相は案外長く持つのかもしれない。それが広島、長崎のみならず国民のためにどれだけのことができるかはわからないけど。石破などに野党の時は迫力があったなどと揶揄される始末だから心許ない。それにしてもだ、政権交代って本当にあったのか?

  これから少し暇になる。

 (今までのこと)を少しまとめておこう。
7月29、30と稲取に行った。
7月30日の夜、東の昔の同僚たちと立川で飲む。
7月31日、日本蛇行協会例会

稲取へ(雨の海、車中から)
 
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下田駅前
 
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片瀬江ノ島弁天橋から
 
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2010年8月5日木曜日

旅人あはれ

 今日のテレビのニュースから。nhkの7時のニュースだったが、トップニュースになっている最高齢者たちの「存在の不確かさ」についてのものだった。今朝の新聞の川柳欄(朝日川柳・西木空人選)に「宿六は確か隣に昨日まで」(茅ヶ崎市・齋籐富枝)という傑作が載っていた。長寿不明者について語られるすべての文脈は、煎じ詰めれば「共同体」の崩壊 、社会の相互補助のシステムの崩壊に帰結される。これとは現象面は異なるが、子どもへの虐待でも次のように語られる、江戸時代を見よ、あれほど子どもたちが大切にされた時代はなかった、それに比して「共同体」「社会」そのものの崩壊が帰結しているひどすぎるネグレクトとそれにも増す社会や行政のネグレクト(いやイグノア)を見よ!そういうところに落ち着くだろう。私は長寿で有名な奄美の出身だが、考えたとおり、今日のニュースでは、百歳の美しい奄美の女性とその娘を出して、日本国で今流行の「長寿不明者」の、それをつくるにいたった家族間や社会のモラルの欠如を暗に批判するような演出の仕方で放送された。つまり、奄美では長寿の人々は、みな尊敬され、その人々に会うことは「拝む」ということばで表現されるほどのものである云々。私もこれには経験がある。私たちは確かに「拝む」と言ったし、そして年寄りを尊敬していた。

 私は何を言いたいのか。死者を生者と見なす究極の平等?逆に、生者を死者と見なす究極のネグレクト?いや生も死も差別はなくみな平等なのだという超越的な観念?それらから見れば、行政の無策もどうということはない、ということを言いたいのか。家族と社会一般の問題にしようとしているメディアの、あるいは行政のやりかたには同意ができないだけだ。それはトートロジーになるかもしれないが、家族や社会が崩壊していることの痛みを、これらの解説者・告発者たちは抱えていないからだ。「30年来、母には会っていません」!

私は何を書こうとしているのか。国谷裕子さんの番組(「クローズアップ現代」)も見た。ここでは広島原爆の「黒い雨」の被害地の拡大が、科学的な研究によって実証されつつあることが説得的に述べられていた。後続の若い科学者たちの地道な研究によってだ。原爆の被害と残虐さの「語られ方」の飛躍的な向上(あえて書く、もっと適切な言葉もあるかもしれないが)を私は見た。明日は、「敵」を殲滅しようとして、「敵」の国の一部である広島に未曾有の無残きわまりない破壊力をもった原爆を「アメリカ合衆国」が落とした日から65年になる。

年寄りたちは行方不明を望み、若い人たちもモラトリアムを望むしかない……
そうではないだろう。

 自ら名を隠さざるをえない理由をかかえて、それがたいしたことでもない場合があったかもしれないが、「社会」から出奔し旅に死んだ人々もいた。現在の役所はそういう人を「行路死亡人」というカテゴリーでくくっている。ホームレスの人たちか?「旅に死んだ」というのは、故郷以外の土地に死んだという意味が原義である。しかし、今や、故郷も、旅も、その意味と含意をことごとく失ってしまった。
 
 万葉集に聖徳太子の歌がある。これは推古紀の説話と同種のものである。

  家ならば妹が手をまかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ (V3・415)

 すべては、こういう真率なシンパシーからはじまるのではないか、その欠如の地獄図もふくめて。