2012年9月29日土曜日

墓のうらに廻る

友人との読書会で、今日は『去来抄』の「同門評」のパートを読んだ。とくに心に残っているのは、次の記事だ。

―笠提げて墓をめぐるや初しぐれ― 北枝

先師の墓に詣でての句なり。許六曰く「是は脇よりいふ句なり。自ら何の疑ありて、や、とはいはん」。去来曰く「や は治定嘆息(じじょうたんそく)の や なり。かの常に人を訪ふには、笠を提げて門戸にこそ入れ。是は、思ひのほかに墓をめぐる事哉や、といへるなり。およそ、発句は一句を以て聞くべし。… ―
切字「や」の解釈がテーマだ。許六はこの「や」を疑いの「や」と取る。そうであるからには、「第三者が北枝のことを詠んだ句となる。自身の事なら何の疑いがあって、や、という疑問の語を使ったのであろうか」と言う。これに対して去来は「や」を「治定嘆息(じじょうたんそく)の や 」と取る。これは現代の高校の授業では詠嘆、感動の「切字、や」ということだ。「や」はこの時代には、両様の意味を持っていたというのも面白いが、その二つの意味が限定されていく分岐点がここにあるような気もする。

去来の言うことが妥当である、とくに「発句は一句を以て聞くべし―発句は一句全体の句意で判断すべき―」ということからも、と、註釈者(栗山理一)は去来の意見の妥当性を言うが、それはそれとして、許六の疑いの「や」と第三者性の理解の仕方も捨てがたいと私は思う。自らの、師への追悼のあまりの彷徨(墓をめぐる)を、第三者の眼によって捉え返すところに、北枝という弟子の芭蕉追慕の玲瓏とした悲しみを感じるのだ。

読書会のあとに、いつもの激安中華で飲みながら話した。友人が言うには、この北枝の句を見た時にすぐ思い出したのは、尾崎放哉の「墓のうらに廻る」という句だった、と。ここから破滅派の俳人はなぜ自由律に多いのか、最近刊行された正津勉さんの『河東碧梧桐 忘れられた俳人』―この人こそ自由律の源だが―の感想とか、破滅派讃仰の酔っぱらい談義になだれこんだのであるが、北枝と放哉の句の寂しさと悲しさは清らかなまま汚れることはない。

2012年9月24日月曜日

オスプレイ配備

 クローズ・アップ現代を見ていて、思ったこと。オスプレイ配備の問題について、先日ニューヨーク・タイムズの社説には、沖縄の古傷に塩をなすりつけるようなものだということが書かれていたが、アメリカの大新聞に、そのように書かせたのは誰だったのか?それは沖縄県(民)の地道な努力、知事公室に対アメリカの基地政策を分析する部門を設けたり、アメリカの関係者たちとの接触を重ねて、直接に沖縄の問題を訴え続けてゆくという努力、自治体の今までとは異なる情報収集能力やアメリカとの直接的なパイプ(専門家などとの)の建設などの、画期的な変化によるものであって、決して日本政府ではない、というようなことが報じられていた。私もそうだと思う(そのような部門がこれからも県民のために働いてくれることを望む)。ことほどさように、クニのアメリカとの安全保障(特にその地位協定など)における、その従属性とそれに慣れた政治家、官僚には到底できない対応だと思う。ここまで沖縄は歩いてきたのだ。何名かわからないが、自民党の総裁選に出ている候補者のおしなべての対米従属の考えには、今さらながら吃驚した。民主が壊したアメリカとの関係をしっかりしたものに直す、などと大昔の冷戦時代に逆戻りするかのような話ばかりだ。(仮想敵は中国とロシアと今度は韓国と言うのか。アメリカも驚くだろう。)

2012年9月18日火曜日

汽水域 

汽水域                          

本当に大丈夫なの?
いつもはこんな体育会系のようなこと嫌いなのに。

やりたくないのはあなたでしょう、そう言えばいいのに。

図書館にある島尾さんの記念室を見学する、
その前に旧居跡に行く、その後に行こうか。

最初からそう言っているでしょう。

作家がその家族と住んだという家が
作家を愛する人々の努力で残されていた。
旧約の言葉が自筆で刻印された記念碑。
「病める葦も折らず けぶる燈心も消さない」
昨日、レンタカーとフェリーで行った加計呂麻島のビデオも図書館で見た。

泣いているの?

あそこで雨宿りしようよ。

図書館の先にマリア教会が見えた。

聖堂にはだれもいなかった。暑さとスコールをしのいで
古仁屋行きのバスを待つ。

原生林の濃い緑の山が落ちて来るように迫り、その反対には入江が連なる、
道は海と山の間を曲折と昇降を繰り返し、その先を隠しているよう。

レンタカーより、やっぱり楽でしょう。
でもバスの運賃より、レンタカーを半日借りた方が安かったね。
お盆前で、空きがなかったじゃない。バスは住用の道の駅に唐突に停まった。

マングローブは「命のゆりかご」だって説明があったよ。
ヒルギの落葉や種子を食べたり、木そのものを生息場所としている小さな生物たちの。
シオマネキ、フジツボ、ハゼの類など。

カヤックに乗るために、そんなことまでも勉強したの?

赤いライフ・ジャケットをつけた君は、あっという間に先頭のガイドさんの
すぐあとについて、上手にパドルを操りながら進んでゆく。

少年たちの舟の間を抜けることができずに、ぼくはぐるぐる廻る。
右に曲がりたいときは左舷の方にパドルを入れて漕ぐ、
まっすぐ行きたいときは、どうするんだったけ。

そのうちに体の力が抜け、ただ揺られている。
赤ん坊のように。母に抱かれて口を開けて寝ている赤ん坊。
川と海が抱き合う河口のマングローブ。

汽水域に出たんだ。なにか匂うけど、その匂いを言えない。
二人乗りにしようよ。いいえ、一人がいい、と君は言った。
海と水の大きな混合が一人を浮かべる。パドルが水に入ると、水がパドルを重くし、
その重さが両手から脚に伝わってくる。

両側にヒルギの群生―緑葉で遮られたトンネル状の水路。
木漏れ日が一人の君を、「漕ぐ人」の絵に変える。
デジカメをロッカーに入れてきたのを後悔する。

ゆっくりと夢の中でのように漕ぐ。そして、
すべての人が静止する、少年たち、二人乗りの老人夫婦。
すべての流れと速さが混ざり合い、淀みが生まれる。

ガイドさんがカヤックから降りて
浅い水の中に立ち、静かに説明をはじめる。マングローブの意味、
ヒルギたちの性質、一つの葉が他の葉に代わって塩分を集中的に吸収して落ちるなど、
犠牲という物語、生きて流れることのなつかしい暗喩、シオマネキが掘った穴に
奇蹟のように着床する生の種子のことなど。

眠くなる。水中の垂訓は終わった。帰還のためのパドルが淀みを分けつつ起こして行く。
ゆっくりと、そしてはやくなる。
いつのまにか、君はまたトップに出ている。

水と水が出会うところ、というレイモンド・カーヴァーの詩を思い出す。
The places where water comes together with other water. Those places stand out
in my mind like holy places. それらの場所、心の中で聖地のように

息づいている場所。そういう場所をぼくは持っているのか。
加計呂麻島、呑之浦は確かに島尾敏雄にとっての聖地に他ならなかった。
その〈深く奥へ切れこんだ入り江〉の潮の干満のように、

死と生は出会いと別れをくり返し、そこに謎のような淀みをつくる。

淀みは場所なのか。
そこにパドルを入れると
淀みがゆっくりと一人、一人を、あるいは老夫婦たちを
送り出すのだ。ゆっくりと、そしてはやく。

さかのぼって、そして、くだっている
曲がっている、廻っている、でもいつの間にか元に
そう、背筋を伸ばして漕ぐ、前や後ろに寄ったりしないで

住用川と役勝川が流れ込む住用湾。
その広大な干潟がマングローブの母で、
奄美にのみ生息するリュキュウアユの母でもある、彼らは

湾の汽水域、君のカヤックの水路、そこに集まり遡上のために
その初期の生活を送るという。初期生活者は淡水に馴致しなければならない。
だから、海と水が混ざるところ、低塩分で、
しかも低温である汽水域が君にとっての初期の必須の生の訓練の場所になったのだ。

稚魚の前、孵化の後の君を、何と呼ぶのだろう?  初期生活者ではなくて。
仔稚魚(しちぎょ)?  君の心臓が透けて見える。
血が君の中で虹を架ける。

ほら眼を覚まして、ついて来てよ。

眠くなる、汽水の上で眠くなる。
母の乳の匂い、放たれた精液の匂い、放たれた幾万の卵の匂い
役勝橋の岩の藻の匂い、瑠璃カケスの糞の匂い、ハブさんの蹲る匂い

あなたはそこに、いなさい。
君はゆっくりと、そしてはやくカヤックを漕いでゆく。
あなたの場所に、〈深く奥へ切れ込んだ入り江〉の汽水域に!

ぼくは眼を覚ます、背筋を伸ばして遠くを見つめて漕いでいる君に
沈黙の中で問いかける。

鮎、君が人間なら、留まることと出発のどちらを選ぶ?
どちらも、と君は笑いながら答える。
選んでも選ばなくても同じだ、と。

2012年9月17日月曜日

『フォークナー、ミシシッピ』を読む①

【〈全―世界〉氏ムッシュ-・トゥモンド(Monsieur Tout-monde)】 
 
 今日は、書きかけの詩「汽水域」、自分にとっては最も長い詩になるが、まだ完成に到らないそれの続きを考えながら、グリッサンの『フォークナー、ミシシッピ』(中村隆之訳・インスクリプト)の最初の章「ローワン・オークに向かってさまよう」と、中村隆之の「訳者解説」を読んだ。 正直言って、フォークナーは「エミリーへの薔薇」などの短編などしか満足に読んだ覚えはない。しかし、このグリッサンのフォークナーをめぐるエッセイ(そう言ったほうがいいほど、それ自体が自由で詩的な文章である)は文句なしに面白いし、引き込まれる。「ローワン(ローアンとも)・オーク」はフォークナーの邸宅の名前だ。グリッサンはマルティニックの詩人で、訳者の博士論文は彼の文学についての研究であった。訳者「あとがき」に一読して忘れられない印象的なエピソードが述べられている。中村隆之は2010年一月に研究員として滞在していたマルティニック島でグリッサンの自宅に迎えられ、敬愛する詩人と会った。以下引用する。
―詩人はヴェランダに私を招き、ゆったりとした椅子を勧め、自分は小さな肘掛け椅子に腰掛けた。身長一メートル九十センチ、体重百キロほどに見えるその大柄な体軀が窮屈そうにその小さな肘掛け椅子に座っている様子は、遠方からの客に対する歓待の精神以外の何ものでもなかった。私はそのヴェランダで、本書における花々の風景に思いを馳せながら、小さな質問をした。「マルティニックを花に喩えるなら何でしょう。たとえばセゼールであればバリジエの花(その色と形から燃えさかる剣に見える花)を自分の政党の象徴に選びましたが」。老齢の詩人は私の言葉に耳を澄ませながら、ゆっくりとこう答えてくれた。「マルティニックを一つの花に喩えることはできない。私にはマルティニックは無数の、繁茂する、様々な花々だ」。―
まさに、この本も「フォークナー、ミシシッピ」をミシシッピだけでなく、アメリカス、いや全―世界の他者、花々のためにさまよいながら開いてくれた、大きな、優しい人グリッサンの「遺書」のようなものだとおもう。もちろん、1996年に発表されたこの本はグリッサンの最後の著書ではないが、訳者中村隆之さんにとってはいろんな意味でそうであろうと思う。よけいな忖度かもしれないが。グリッサンに手渡すべきこの書物は、2011年2月3日の彼の死(享年82歳)によって「叶わなくなってしまった」。中村君は続ける、「しかし、この作家の場合、当人の死によって作品の存在感は弱まるどころか、ますます強まるようだ。今はエドゥアール・グリッサンのこの著作が一人でも多くの読者に出会うことを心から祈りたい」と。ぼくもそう思う。それに値するすばらしいさまざまな示唆を含んだ著作だ。とくに、今の、この状況は以下の恐ろしい認識と全く変わりはない以上、グリッサンの開いて行く全―世界の混合を探求するしかないと思う。
―「彼は(フォークナー)私たちの世界が見棄てられてあることを、部族や民族や国民などのあいだで交互に繰り返される虐殺を―彼らは相手を虐殺することが急務であるという点でのみ意見を一致させる―徹底的に預言した」―

2012年5月31日木曜日

こころのなつかしい新しさ―白井明大「島ぬ恋」を読む

朝、NHK・FMで亡くなった吉田秀和の番組「名曲の楽しみ」を聴く。あと6本収録済みがあって、すべて木曜日十時からの番組で順次放送するというというから、楽しみだ。今日はシューベルトの第一、第二シンフォニー(の途中の楽章まで)だった。ただ吉田さんの声が聞こえるだけでいい。第二は当時、ベートーベンのエロイカや第九に次いで長いと言われたとか、第一とはちがって、いろんなものまとわりついているとか、そういう短い話しだがこころに入ってくる。これを聞きながら、白井明大さんの新詩集『島ぬ恋』を読み終わった。昨晩、寝る前にフランス装のこの本のまだ切っていないページを、すべてナイフ(友人が昔スイスの山ツェルマットかどこか、に登ったときの土産として買って来てくれた赤いナイフ。ぼくの名が彫られているが、間違いや脱字がある。向こうの職人が間違えたのだと友人は情けなそうに言った。)で切って、明日の朝読もうと思って寝た。そして今朝、何も邪魔が入らず穏やかな気持ちで、しかも吉田秀和の番組を聞きながら読了できたおいうことがうれしい。詩の感想の前にこういうことを書くのはおかしいだろうか。
白井さんの詩は放っておけばすぐ消えていくような「こころ」の微細な動きをモチーフにした織り物のようだ。島の芭蕉布のように薄くて、光りと影がそこで遊びたわむれているような織物だ。着る人の肌になじみ、島の暗川(クラゴー)の薄明に流れる地下水で洗い、ガジュマルやアダンに架けて干し、輝く砂粒の上に脱ぎ捨てる。

なつかしい砂粒

…(省略)…

光線はあたり
分子はまたたきだしているだろうか
分子はこころをつくっていないで

きっと目や肌
あたたかいと感じるひかりのなかにへ

ひとすくいあかるみから砂つぶをつまみとれば
砂つぶもまたこころとなって
いくいちどの映りかたにつれて砂としてこぼれていく

なつかしいとも
初めてとも


上記の詩を参考に、白井さんの詩法の特徴を私なりに整理してみよう。砂粒の分子という極小のものへ「光線」をあて(微細さの反応を探る)、「いくいちど」(一回限りのものの反復の差異への固執)の「こころ」の変化の姿を見る、それままさに「なつかしい」とも言えるし「初めて」とも言える何かであり、それを白井明大は「詩」という「こと」としている。次のようにも言える、「みつめるときそこここにある/ものことはわたしのこころや身に/わたしはまたものことのこころや身に/互いに互いをが伴い伴われあっている」というエピグラフめいた書記があるが。この詩句が意味するのは、「そこ」と「ここ」の交換、混合や、「ものこと」と「わたし」の「こころや身」の相互の交換の経験が一回限りの、それでいて「なつかしい」純粋な経験を生み出してゆくということだろう。そのことが詩のエクリチュール自体として実践されているのも彼の詩の特徴であろう。

こころは身のそとに

こころは身のそとにあるもの
、てしたら
そ、て
こころにふれるのは
そ、て野花にふれるのとおなし

野花のなかに
こころはあるの、てきく代わりして
野花のこころは
このあたり

ゆびを宙に円かいてみせ
ちがう
、ておおきなこえする
子のあたりに

いくつもこころが
寄せていく
あかるみに照らしだされる虫の
角のふれ先を
そのままにして

ちょうどおもらしの水たまりをひろげて
ぬれているのが
こころなように


私は詩集中、この詩が一番好きである。彼の独特の表記、たとえば行頭の「、」や、「そ、て」などのそれ自体としては無意味な助詞(辞)に意味を持たせたかのような使い方(「てしたら」もそうか)などよく分からないが、別にことさらな異化効果を狙ったものとも思えず、このように無意味な助辞群も、きみのこころと結びつくと(というより、それ自体がこころの直接性を表しているのだが)悲しみやよろこびの表出そのものになるのではないか。もちろん私がこの詩に惹かれるのは最後の連のこころの様子のこれ以上はない「なつかしさ」と新鮮さにうたれるからだ。

2012年4月27日金曜日

入りなさい(come in 私訳)

Come In   (Robert Frost)

As I came to the edge of the woods, 
Thrush music -- hark! 
Now if it was dusk outside, 
Inside it was dark. 

Too dark in the woods for a bird 
By sleight of wing 
To better its perch for the night, 
Though it still could sing. 

The last of the light of the sun 
That had died in the west 
Still lived for one song more 
In a thrush's breast. 

Far in the pillared dark 
Thrush music went -- 
Almost like a call to come in 
To the dark and lament. 

But no, I was out for stars; 
I would not come in. 
I meant not even if asked; 
And I hadn't been.

森の端まで来ると
ツグミの音楽―聴け!
今、ここ森の外が夕闇なら、
内部は暗闇だ。

森の中は暗すぎて鳥でさえ
うまく羽ばたいても
心地よいねぐらは見つからない、
まだ歌うことだけはできる。

太陽の光の最後の一筋は
西の方に消えて行ったが
もう一つの歌のために
光りはツグミの胸のなかに生きている。

樹々の柱のはるかな暗闇に
ツグミの音楽は響いてゆく―
入りなさい、という呼びかけのように
闇へと、そして嘆き悲しめというように。

いや私は入らない、ここで星を眺めていよう
私は入らない。
たとえ頼まれたとしてもお断りだ、
頼まれたことも今までなかったけど。

2012年4月6日金曜日

僧侶になる

今朝の朝日新聞、知花昌一さんが、大谷派の僧侶になったという記事があった。写真も添えられていた。1987年の沖縄国体で読谷村(知花さんの村だ)のソフトボール会場に掲げられた「日の丸」を引きずり下ろし焼いた人だ。ノーマ・フィールド「天皇の逝く国で」にはノーマによる彫りの深い知花さんのルポルタージュ― a supermarket owner―がある。これを読んで知花さんの行動の必然とその人となりを知り、普通の人による内在的なconformism批判の行動の重要性というのを学んだ。もちろん沖縄、読谷における「集団自決」の出来事などが知花さんに戦前、戦争時の軍国主義日本とそのシンボルとしての'rising sun'に対する憎悪の念を抱かせたには違いないが、そのような憎悪の気持ちと一人の普通の人間として日常の行動の中で思想として組み立て、訴えていくこととはまた別のことだとも思う。その困難な道を知花さんは妥協することなく歩んできて、今は僧侶になったということだろう。かつての過激な「反戦地主」と今はどうつながっているのだろうか。「沖縄を戦争のためにもう使わせない。仏教は平和と平等を願うもの。その精神を基地問題にも貫いてゆきたい。」と語っている。知花さんならやれるし、やるだろう、と思う。

2012年4月1日日曜日

少年たち

二本松と会津に行ってきました。風景と人と酒と湯。沈黙のなかに深い思いを抱かせる場所でした。二本松では智恵子と光太郎の文学を越えた生のつながり、それと岳温泉のしんしんとした寂しさを感じました。二本松の霞ヶ城公園の頂にあるのが光太郎書の碑「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」。そこから初めて見る白雪を戴いた実際の阿多多羅山の美しさ。郡山から磐越西線で会津若松に向かってゆくときに車窓から見た磐梯山の雄姿も忘れがたい思い出になりました。会津では、飯盛山はとくに霊的なものを感じさせました。猥雑さも混じっているのですが、白虎隊自刃の記憶がすべてを覆っている、そこから産まれる寒々としたものに圧倒されました。二本松でも戊辰戦争で戦った少年隊の記憶が共有されていました。歴史の変わり目において変革の前衛というのではなく、その前衛たちの犠牲になったのが16、17歳の少年たちだったということを考えるとやりきれない気持ちになります。「佐幕派」として切り捨てられてゆく「寂しさ」、それだからこそ大勢にのみ込まれまいとする「矜持」、この二つのメンタリティが現代の福島の空間にも漂っているように思いました。近代の入り口での犠牲、高度成長の終焉の果ての原発事故による犠牲、もちろん、これら二つに限定して福島を考えることはできないでしょうが、日本歴史の変換のメルクマールとなる事件に集約的に身を曝している場所のような気がしました。

ブレヒトの『少年十字軍 1939』という詩を、白虎隊や二本松の少年隊と重ね合わせて思い出しました。1939年の戦火のポーランドを逃れ、平和の国目指して彷徨い、力尽きて死ぬ55人の少年(少女)たちの話です。飯盛山で自刃した白虎隊19名の「原理主義者」たちのように見える少年たちと、ブレヒトの描くヒッピーたちのように自由なコミューンを形成しているかに見える少年たち、その二つのタイプの少年たちに優劣の差があるのでしょうか。一方は過去(事実として)へ、一方は未来(創作として)へと意味づけられているのですが、両者とも挫折するのです。この二つの少年たちの在り方に思いを馳せることのできる想像力。それが今必要とされているのではないでしょうか。


ぼくには見えてくる、さまようかれら、
浮ぶ、眼をとじればまぶたの裏へ。
かれらはさまよう、けしとんだ農家の跡から
けしとんだ農家の跡へ。
空の上、雲のかげにも、ぼくには見えてくる
べつの、あらたな列また列が、はてもなく!
寒風にさからい、ようやっと足をひきずる
ふるさともなく行くさきもなく。
探してるのは平和な土地、
雷鳴もなく猛火もない
かれらが棄ててきたのとちがう土地。
列は大きくなる、しだいしだい……         
(ブレヒト「少年十字軍」より。野村修訳)

2012年3月27日火曜日

For indeed, the kingdom of God is within you.(Luke 17)

「悔い改めよ、神の国は近づいた」というのがヨハネの宣言なら、「神の国はあなたたちのなかにある」(ルカによる福音書17:21)というのがイエスの思想だと大澤真幸は述べ、次のようにいう。「「近づいた」(ヨハネ)ということは、神の国にまだ到着していない、ということである。「あなたたちの中に(あなたたちの手の届く範囲に)」(田川健三の解釈によるという)(イエス)ということは、神の国にすでに到着しているということを意味する。決定的な出来事を基準にして、ヨハネとイエスの相違は、「いまだ/すでに」の二項対立に対応している。問題は、このように認識の相違が、実践に関して、どのように違いをもたらすか、である。」


前者(いまだ)の認識は「最小限の余裕がある。救世主はまだ訪れてはいないので、これからがんばればよい」しかし、後者(すでに)は「一刻の余裕もなく、神の国にふさわしく生きなくてはならない。すでに到来している「それ」の意味を十全に現実化するような生き方をしないわけにはいかないのだ。それは「後で」という言い訳を決して許さない、逃れえない重責である。」という違いになる。
ここから(「神学」的な原発事故の把握)大澤真幸はどのような結論(このノートの最後に引用した)を導くのか。


「原子力」に関しての大澤のとらえ方をおさえておく必要がある。「二○世紀の中盤、平和利用された原子力の存在は、「神の国は近づいた」=「メシアはもうすぐやって来る」という福音、いわばヨハネ的福音として機能した。」だが今日の原発事故は「神の国(天国)」について何を語っているかと大澤は問い、次のように答える。「原発事故がわれわれに語っているのは、「あななたたちは神の国のはるか遠くにいる」、あるいは「神の国は存在しない」というメッセージであろう。原発周辺の共同体をそれこそ根こそぎにしてしまうほどの原発事故が何かを意味しているとすれば、…われわれが「地獄」にいることを含意する、…メッセージしかありえないように思われる。しかし、そうではないのだ。原発事故が意味しているメッセージ、それはあのイエス・キリスト的な福音、「神の国はあなたたちのなかにある」なのである。少なくとも、原発事故は、このようなメッセージを示している、と見なすこともできる」と。


原発事故のもつ、二つの対極的な意味をもう一つのイエスの言葉を大澤は引いて説明する。ヨハネに関して、イエスは激賞して「女から生まれた者の中で最も偉大な者」と述べたあとで「しかし神の国では最も小さい者もヨハネよりは大きい」と逆とも取られかねない一言を付加したという。「つまり、神の国では、地上で最も偉大な者が、最小の者に反転するのである。この反転は、原発事故のような最も悲惨な出来事が、神の国の到来を告げる最良の福音になる、という転回と対応している。」と大澤は書く。ここからどのような結論が得られるか。


(結論)「事故は否定的な仕方で―悲惨な災害を媒介にして―、「神の国」の到来を告知した。この場合の「神の国」とは、原発を必要としない社会、原発への依存を断った社会である。われわれは、今すぐに動き出さなくてはならない。…仮に、今すぐに原発をすべて停止したり、廃炉にしたりはできないとしても、停止を決断すること、明確な期限の付いた停止を決断することならばできる。「いつまでに停止する」ということ、できるだけ短い期限を設定した停止ならば、直ちに決定することができるはずだ。これがなすべき第一歩である。イエスは、こう言っている。「手を鋤につけてから後ろをふり向く者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)と。手を鋤につける、とは神の国に入ってしまった、ということである。もはや神の国に入ってしまったのだから、後ろを顧みるわけにはいかない。原発に未練を残すわけにはいかない。」


この結論にいたる論証のための具体的な例として、ヨブ記のヨブや、「江夏の21球」の江夏投手!などが持ち出される。言いたいのは、イエス・キリストがヨハネとは違い「革命家」にならざるをえないということ、「神の国に到着してしてしまったときの人間の重責の担い方を、身をもって示している」ということの例としてである。江夏は広島の優勝という神の国のただ中にいて、彼にしか投げられないウェストボールでスクイズをはずしたのだという。「江夏にとって「優勝」は、あらかじめ果たされている約束であり、これに現実という実質を与えるのが彼の使命であった。」江夏はイエスであったと大澤は言っているのだ。ヨブがイエスと類比的なのはすぐわかる。大澤真幸は、すでに、神の国が到来しているということ、「救世主はすでに来た」という宣言こそが、「まだ訪れていない…これからがんばればよい」という預言よりも「はるかにおそろしい啓示」であるという、彼の「神学」のポイントがここにはあるのだろう。


小島きみ子さんの「タッチ」という詩(エウメニデスⅢ)を読んで、そこに出てくる聖書のことばやリルケのことばに触発された。小島さんが出されている「空しさ」と「永遠」という問題は聖書的、神学的な問題のみならず、われわれの日常の生き方の問題でもあるが、それをどう考えていけばいいのかも「タッチ」を読みながら思ったこと。また大澤真幸の論旨とも深いところで呼応しているとも思った。「風にカラカラと戦ぐポプラのように」、わたしの「魂」に「届けられた」言葉にありがとうと言いたい。

2012年3月26日月曜日

吉本隆明を想う

昨晩、再放送と思われるが、ETV特集の吉本隆明の講演(2008年7月19日に昭和女子大の講堂で行われた)を視聴した。凄い数の聴衆を前に長時間の「芸術言語論」の話をする元気がまだあったということを思った。その一年後の思潮社主催「これからの詩はどうなるか」というタイトルで開かれたシンポジウムの記念講演のときの話も前年のものにつながっていたのだと改めて思ったが、体調はあきらかに悪かった。それから吉本の最後の肉声がきこえるものとしては雑誌『飢餓陣営』36号がある。他にも糸井氏などが訪問して収録したものがあるのかもしれないが、これは『飢餓陣営』の佐藤幹夫さんが2011年4月19日と26日の二回、吉本さんの自宅に行き、その話を収録したもの。「吉本隆明と東北を想う」というタイトルの特集記事(聞き手・編集―佐藤幹夫 編集・校閲協力―小川哲生)として読める。そこで人間の生と死について、宮沢賢治はたぶんこう考えていたという文脈で語っている部分。

―銀河系が死ぬときが人間の死であるということが生死について言えることであり、あとは個々の人によってみんな違う。偶然も必然も含めて、訪れる死というものはすべて違う。こういうことを統一的に、これが人間の死であり、これが生であると決めつけてしまったり決定づけてしまったりすることは、本当は誰にでもできない。それが宮沢さんの考え方なのではないでしょうか。…ぼくならぼくがいつ死ぬかというと、八十いくつだから、まあもうすぐ死ぬでしょうけれど、何年の何月何日に死ぬということは絶対的に言えないわけです。宮沢さんの考え方のように言えば、銀河系と一緒に死ぬんだということであり、それまでは生きるさ、ということです。個々の人間は鎖の一つみたいなものであって、全部でもないし部分でもない。…個々の人間の生死は決定づけることができない。そのことは自明の理であって、そこが宮沢さんの考えの一番の根底にあった。だから仏教はだめだし、そこまで行くと宗教はだめだ。科学もそうだし、次の社会には自由で平等な時代が来るというような考えも宗教で、そんなことは誰も分かりはしないし、誰も予言できない。そんなことをいうのは宗教と同じで意味がない。まして個々の人間を考えるかぎり、そういうものは意味がないんだ、というように、宮沢さんの思想のなかの無神論的要素とつながっていると思います。―


吉本隆明の死生観もこれと同じものだったろう。死生観というよりは、これは、世にあるそういう考えを否定したところに成り立つ吉本隆明の根底的な倫理(人間個々の生の具体性を手離さない自由の強靭さ、とでもいうべきもの)の声のような響きがする。
昨晩のテレビでは糸井重里(2008年の講演のコーディネーター)が吉本の自宅を訪れて講演の感想などを語り合う場面も写っていた。床の間の掛け軸の書が見えた。それは虚子染筆の自句「其のまゝの影がありけり帚草」であった。昭和5年の句で、この句を含めて三句同時につくられている。

帚木にかげといふものありにけり
帚木に露のある間のなかりけり
其のまゝの影がありけり帚草

2012年3月13日火曜日

喜劇

大阪府立高の卒業式で、教員が君が代を歌っているかどうか迄を監視するという喜劇が演じられた(起立、不起立の監視が主たるもののはずだが)。この高校の管理職は例の市長に報告し、お褒めの言葉を頂戴したという。03年に都立校で強制されたことが、もっとひどい、品性を疑うような仕方で行われている。卒業式はだれのためにあるのか?維新の会のために?生徒たちの高校最後の日に、3年間の様々な経験や思い出をかみ締めている生徒や教員、保護者などを前に府議などが来賓席でそれこそ自己宣伝にすぎない君が代関係の「政治」的な話をする(米長が都の教育委員をやっていたとき、園遊会で雰囲気を読めずに、全国で君が代起立や斉唱で頑張るなどという発言を天皇の前でして、天皇にたしなめられたことがあったが、恥ずかしさはそれより少ないというものではないだろう)。こういう議員は何の権利があって卒業式をぶちこわすことができるのか。君の議員生活より、長い伝統のある式を。
いつも考えることがある。それは教育というのは、三流政治屋どもの恰好の自己主張、宣伝の場であるということ。言いかえれば屑のような発言のゴミ捨て場のようなものである。カラスのように日の丸・君が代でなきわめけばいいということだ。彼らの君が代はだれのための君が代か。自分だけの君が代に決まっている。次にちょっと才気があるふりをしたいなら、「経営」者風の言説ですべてを切ればいい。その底にあるのは、「現場」の息や、生徒たちと教員がつくりあげてきた、その学校独特のスタイルに対する嫉妬と敵意に他ならない。ほんとうに、ほっといてくれよ、と言いたくなる。
「強制」、一度目は悲劇だが、二度目は喜劇だ。でもその喜劇は「きなくさい」。東北に目を向けねばならぬときに、その悲惨さにまぎれて、もっともエゴイスティックな連中が台頭してきている。