2012年5月31日木曜日

こころのなつかしい新しさ―白井明大「島ぬ恋」を読む

朝、NHK・FMで亡くなった吉田秀和の番組「名曲の楽しみ」を聴く。あと6本収録済みがあって、すべて木曜日十時からの番組で順次放送するというというから、楽しみだ。今日はシューベルトの第一、第二シンフォニー(の途中の楽章まで)だった。ただ吉田さんの声が聞こえるだけでいい。第二は当時、ベートーベンのエロイカや第九に次いで長いと言われたとか、第一とはちがって、いろんなものまとわりついているとか、そういう短い話しだがこころに入ってくる。これを聞きながら、白井明大さんの新詩集『島ぬ恋』を読み終わった。昨晩、寝る前にフランス装のこの本のまだ切っていないページを、すべてナイフ(友人が昔スイスの山ツェルマットかどこか、に登ったときの土産として買って来てくれた赤いナイフ。ぼくの名が彫られているが、間違いや脱字がある。向こうの職人が間違えたのだと友人は情けなそうに言った。)で切って、明日の朝読もうと思って寝た。そして今朝、何も邪魔が入らず穏やかな気持ちで、しかも吉田秀和の番組を聞きながら読了できたおいうことがうれしい。詩の感想の前にこういうことを書くのはおかしいだろうか。
白井さんの詩は放っておけばすぐ消えていくような「こころ」の微細な動きをモチーフにした織り物のようだ。島の芭蕉布のように薄くて、光りと影がそこで遊びたわむれているような織物だ。着る人の肌になじみ、島の暗川(クラゴー)の薄明に流れる地下水で洗い、ガジュマルやアダンに架けて干し、輝く砂粒の上に脱ぎ捨てる。

なつかしい砂粒

…(省略)…

光線はあたり
分子はまたたきだしているだろうか
分子はこころをつくっていないで

きっと目や肌
あたたかいと感じるひかりのなかにへ

ひとすくいあかるみから砂つぶをつまみとれば
砂つぶもまたこころとなって
いくいちどの映りかたにつれて砂としてこぼれていく

なつかしいとも
初めてとも


上記の詩を参考に、白井さんの詩法の特徴を私なりに整理してみよう。砂粒の分子という極小のものへ「光線」をあて(微細さの反応を探る)、「いくいちど」(一回限りのものの反復の差異への固執)の「こころ」の変化の姿を見る、それままさに「なつかしい」とも言えるし「初めて」とも言える何かであり、それを白井明大は「詩」という「こと」としている。次のようにも言える、「みつめるときそこここにある/ものことはわたしのこころや身に/わたしはまたものことのこころや身に/互いに互いをが伴い伴われあっている」というエピグラフめいた書記があるが。この詩句が意味するのは、「そこ」と「ここ」の交換、混合や、「ものこと」と「わたし」の「こころや身」の相互の交換の経験が一回限りの、それでいて「なつかしい」純粋な経験を生み出してゆくということだろう。そのことが詩のエクリチュール自体として実践されているのも彼の詩の特徴であろう。

こころは身のそとに

こころは身のそとにあるもの
、てしたら
そ、て
こころにふれるのは
そ、て野花にふれるのとおなし

野花のなかに
こころはあるの、てきく代わりして
野花のこころは
このあたり

ゆびを宙に円かいてみせ
ちがう
、ておおきなこえする
子のあたりに

いくつもこころが
寄せていく
あかるみに照らしだされる虫の
角のふれ先を
そのままにして

ちょうどおもらしの水たまりをひろげて
ぬれているのが
こころなように


私は詩集中、この詩が一番好きである。彼の独特の表記、たとえば行頭の「、」や、「そ、て」などのそれ自体としては無意味な助詞(辞)に意味を持たせたかのような使い方(「てしたら」もそうか)などよく分からないが、別にことさらな異化効果を狙ったものとも思えず、このように無意味な助辞群も、きみのこころと結びつくと(というより、それ自体がこころの直接性を表しているのだが)悲しみやよろこびの表出そのものになるのではないか。もちろん私がこの詩に惹かれるのは最後の連のこころの様子のこれ以上はない「なつかしさ」と新鮮さにうたれるからだ。

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