2012年9月18日火曜日

汽水域 

汽水域                          

本当に大丈夫なの?
いつもはこんな体育会系のようなこと嫌いなのに。

やりたくないのはあなたでしょう、そう言えばいいのに。

図書館にある島尾さんの記念室を見学する、
その前に旧居跡に行く、その後に行こうか。

最初からそう言っているでしょう。

作家がその家族と住んだという家が
作家を愛する人々の努力で残されていた。
旧約の言葉が自筆で刻印された記念碑。
「病める葦も折らず けぶる燈心も消さない」
昨日、レンタカーとフェリーで行った加計呂麻島のビデオも図書館で見た。

泣いているの?

あそこで雨宿りしようよ。

図書館の先にマリア教会が見えた。

聖堂にはだれもいなかった。暑さとスコールをしのいで
古仁屋行きのバスを待つ。

原生林の濃い緑の山が落ちて来るように迫り、その反対には入江が連なる、
道は海と山の間を曲折と昇降を繰り返し、その先を隠しているよう。

レンタカーより、やっぱり楽でしょう。
でもバスの運賃より、レンタカーを半日借りた方が安かったね。
お盆前で、空きがなかったじゃない。バスは住用の道の駅に唐突に停まった。

マングローブは「命のゆりかご」だって説明があったよ。
ヒルギの落葉や種子を食べたり、木そのものを生息場所としている小さな生物たちの。
シオマネキ、フジツボ、ハゼの類など。

カヤックに乗るために、そんなことまでも勉強したの?

赤いライフ・ジャケットをつけた君は、あっという間に先頭のガイドさんの
すぐあとについて、上手にパドルを操りながら進んでゆく。

少年たちの舟の間を抜けることができずに、ぼくはぐるぐる廻る。
右に曲がりたいときは左舷の方にパドルを入れて漕ぐ、
まっすぐ行きたいときは、どうするんだったけ。

そのうちに体の力が抜け、ただ揺られている。
赤ん坊のように。母に抱かれて口を開けて寝ている赤ん坊。
川と海が抱き合う河口のマングローブ。

汽水域に出たんだ。なにか匂うけど、その匂いを言えない。
二人乗りにしようよ。いいえ、一人がいい、と君は言った。
海と水の大きな混合が一人を浮かべる。パドルが水に入ると、水がパドルを重くし、
その重さが両手から脚に伝わってくる。

両側にヒルギの群生―緑葉で遮られたトンネル状の水路。
木漏れ日が一人の君を、「漕ぐ人」の絵に変える。
デジカメをロッカーに入れてきたのを後悔する。

ゆっくりと夢の中でのように漕ぐ。そして、
すべての人が静止する、少年たち、二人乗りの老人夫婦。
すべての流れと速さが混ざり合い、淀みが生まれる。

ガイドさんがカヤックから降りて
浅い水の中に立ち、静かに説明をはじめる。マングローブの意味、
ヒルギたちの性質、一つの葉が他の葉に代わって塩分を集中的に吸収して落ちるなど、
犠牲という物語、生きて流れることのなつかしい暗喩、シオマネキが掘った穴に
奇蹟のように着床する生の種子のことなど。

眠くなる。水中の垂訓は終わった。帰還のためのパドルが淀みを分けつつ起こして行く。
ゆっくりと、そしてはやくなる。
いつのまにか、君はまたトップに出ている。

水と水が出会うところ、というレイモンド・カーヴァーの詩を思い出す。
The places where water comes together with other water. Those places stand out
in my mind like holy places. それらの場所、心の中で聖地のように

息づいている場所。そういう場所をぼくは持っているのか。
加計呂麻島、呑之浦は確かに島尾敏雄にとっての聖地に他ならなかった。
その〈深く奥へ切れこんだ入り江〉の潮の干満のように、

死と生は出会いと別れをくり返し、そこに謎のような淀みをつくる。

淀みは場所なのか。
そこにパドルを入れると
淀みがゆっくりと一人、一人を、あるいは老夫婦たちを
送り出すのだ。ゆっくりと、そしてはやく。

さかのぼって、そして、くだっている
曲がっている、廻っている、でもいつの間にか元に
そう、背筋を伸ばして漕ぐ、前や後ろに寄ったりしないで

住用川と役勝川が流れ込む住用湾。
その広大な干潟がマングローブの母で、
奄美にのみ生息するリュキュウアユの母でもある、彼らは

湾の汽水域、君のカヤックの水路、そこに集まり遡上のために
その初期の生活を送るという。初期生活者は淡水に馴致しなければならない。
だから、海と水が混ざるところ、低塩分で、
しかも低温である汽水域が君にとっての初期の必須の生の訓練の場所になったのだ。

稚魚の前、孵化の後の君を、何と呼ぶのだろう?  初期生活者ではなくて。
仔稚魚(しちぎょ)?  君の心臓が透けて見える。
血が君の中で虹を架ける。

ほら眼を覚まして、ついて来てよ。

眠くなる、汽水の上で眠くなる。
母の乳の匂い、放たれた精液の匂い、放たれた幾万の卵の匂い
役勝橋の岩の藻の匂い、瑠璃カケスの糞の匂い、ハブさんの蹲る匂い

あなたはそこに、いなさい。
君はゆっくりと、そしてはやくカヤックを漕いでゆく。
あなたの場所に、〈深く奥へ切れ込んだ入り江〉の汽水域に!

ぼくは眼を覚ます、背筋を伸ばして遠くを見つめて漕いでいる君に
沈黙の中で問いかける。

鮎、君が人間なら、留まることと出発のどちらを選ぶ?
どちらも、と君は笑いながら答える。
選んでも選ばなくても同じだ、と。

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