The Road Not Taken
Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;
Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,
And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.
I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I-
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.
(Robert Frost, 1916)
同僚が休んだので、その自習の連絡に一年生のクラスに行った。課題が出ていたので、教科書のそのところをチラッと見た。それとは関係なしに、その教科書(現代文)の最初のエッセイ(たぶん入学直後に読むのだろうが、その教材はマエストロ の娘で征良が書いたもの)、そこにロバート・フロストの名があったので、眼にとまった。それが上記の詩の一節であった。最後の連だったかもしれない、その和訳が載っていて、アメリカのハイスクール時代に教わって、感動した詩だというような文句があった。
卒業式が今週の土曜日にある。私は、それまでに、この詩を訳して、原詩とともに、クラスの卒業生たちにプレゼントしようということを思いついた。いい訳があったら、それを使ってもいい。一つの人生の岐路、選択、というもの、その結果をも含めて、フロストはつつましく、深く歌っている。読むものに、想像の余地を与えるというか、彼らの思いや年齢の相違によって、いくらでも変化しうる感慨をここにこめている。定年を迎える私は、たぶん涕とともに読むであろう、しかし、その涕はそんなに甘くも苦くもない。卒業を迎える高校生たちは、若さのたどる道と友情の道を、この二本の道から、いろいろと考えるかもしれない。
「都教委」製作の卒業「式」などは、どうでもいいことだ。
二つの道が自分の前にある。自分が選択した道と、そうしなかった道。選択した道は、だれも選ばなかった道かもしれない。いつか遠い日のあるとき、その道がこんなにも自分を変えてしまったと、ため息とともに思うこともあろう。あの別の道を歩いていった友もまた同じように思うかもしれない。そう思うことで、そう想像することで二つの道は一つの道になる。一つの道は、もう一つの道を決して忘れない。卒業の日に、遠い将来をこのようにして想像することは、悪くはない。きみが歩いている道は、だれかが歩きたかった道かもしれないし、落ち葉や紅葉の森は忘れようとしても忘れられない青春の大切な思い出の道でもある。道はそこにある。歩くのはきみだ。思うのもきみ。でも、きみだけの道ではないし、いつもそこには「もう一つの取らなかった道」がある。そう内省することは、人の心を豊かにする。
この日本で一番のフロスト読みは、今の皇后だと、私は確信しているが、彼女は次のような歌を作っている。― かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ ―フロストの、この詩の趣をだれもこれ以上に味わうことのできる人はいないだろう。この歌は彼女の身の上を思い合わせると、すごい歌だとしか言いようがない。
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