A toast to Mr Barenboim
ダニエル・バレンボイムがボランティアのオーケストラを率いて、最近ガザでパレスチナの人たちのために演奏会を開いたということを藤永 茂先生のブログで知った。本当に、このブログの知的なレベル、その情熱の深さ、凄さははかり知れないもので、いつも勉強になる。オバマの最近の声明でパレスチナ国家の樹立とか、イスラエルの侵入の後退などが保証されるだろうか?歴代のアメリカ大統領の避けてきたこと、ユダヤロビーストとの対立までオバマが進んだかどうかはわからないが、この演説はそれなりの影響をこれから及ぼすものだと思う。しかしこれでパレスチナ問題、イスラエル問題が解決することは、やはり簡単ではない。この対立の根にあるものを我々が理解するには、政治や「国」というような考えから退却する、あえて言うのだが退く必要があるように思う。バレンボイムはイスラエルの新聞のインタビューに次のように答えている。
And from Israel? (イスラエルからは何を期待しますか?ban注)
I don’t know how well informed they are. I, for example, was not aware of the 12 universities. I did not know that there is such a thirst for knowledge. So maybe this will bring some people in Israel to think that this is a people worth having a dialogue with. Again, I’m speaking on the civil level and not the political level. I was not on a political mission and therefore I do not expect any political results. (なんとガザには12もの大学があるのだ、そのことにバレンボイムは驚きと期待を寄せている。)
The Palestinians have a right to a state of their own and to self-determination. We have to [allow] them to understand that we realize that our conflict is not a political conflict between two nations, which fight about borders or water, but it is a conflict between two peoples, which are convinced that they have a right to live in the same small piece of earth. Our destinies are inextricably linked.
I told the Palestinians in Gaza that I believe that the ambition of the Palestinian people to have the right to self-determination and an independent state is a very just cause. But in order for the just cause to be realized, it must avoid any kind of violence. Because the use of violence for the just cause only weakens it.
本当に"but it is a conflict between two peoples, which are convinced that they have a right to live in the same small piece of earth. Our destinies are inextricably linked. "ということを思う。
藤永先生は次のように書いている。
―インタービューの中で、バレンボイムが最も驚かされたのは、大きな野外監獄といわれるカザ地区に12もの大学が運営されていて,150万の人口の85%は30歳以下の若さであり、ガザは知識欲に燃える若者たちで溢れていた事だとバレンボイムは言っています。 ドイツに住み、昔からパレスチナの事に強い関心を持っているバレンボイムでさえ、この事実を知らなかったのですから、今の仰々しいマスコミが私たちに与えている情報が如何に偏向したものであるかが分かります。バレンボイムはこの若者たちにこそパレスチナの未来があると考えます。「いまから10年たてば、この、極めて豊かな知識を持ち高い教養を身につけた世代が多数派になる」と…(略)。
私たちもガザのこと、パレスチナ人たちのことをもっと良く知らなければなりません。今回の大震災慰問の使者としてズービン・メータの訪日があれだけ盛んに報道され、感謝された一方で、バレンボイムのガザでの演奏会のニュースが事実上無視される理由にも思いを致さなければなりません。―
こういう状況がオバマの今回の演説で少し変化すればいいのだが。
もう一つ、藤永先生のブログから引用する。本当はこれだけを伝えたかったのかもしれない。以下の私はもちろん藤永先生、
― バレンボイムにも私はずっと以前から好意を持っていますが、バレンボイムとサイードの共著『Parallels and Paradoxes』(Vantage, 2004)を読んでなおさら二人が好きになりました。おまけに、「追悼:エドワード・サイード」と題するバレンボイムの文章が付いていて、これが何と2003年10月29日に私の住む福岡で書かれているのです。丁度、福岡でバレンボイムの率いるシカゴ交響楽団の演奏が夕方7時から行なわれた日でした。4頁の文章ですが、これだけでもこの本の値段(約千円)の半分の値打ちはあります。
それによると、サイードの死の三ヶ月前、彼の要請でバレンボイムはバッハの平均率クラヴィア曲集から第1巻第8番の変ホ短調前奏曲をニューヨークのサイードの自宅で弾きました。サイード自身、プロ並みにピアノが弾け、グレン・グールドの熱烈なファンであったそうです。彼の忌日9月25日はグールドの誕生の日です。ここ数日、この変ホ短調前奏曲をグールド、リヒテル、アンドラス・シッフ、フリードリッヒ・グルダの演奏で繰り返し聴いています。リヒテルに最も惹かれますが、グールドから聞こえてくるのがピュアなバッハかも、と思う瞬間もあります。私のような者が、平均率曲集の中の曲の品定めをしても意味はありませが、この変ホ短調前奏曲はとりわけ胸の奥までしみわたる音楽です。福岡でこの文章を書いたバレンボイムの胸の中でもこの音楽が鎮魂の曲として鳴っていたに違いありません。―
というわけで、影響を受けやすい私は先ほどから、シフの「平均率クラヴィーア曲集」のcdの8番のプレリュードとフーガの両方とも何回も聴いているのである。すばらしい夜。
まさに「胸の奥までしみわたる音楽」。
2011年5月22日日曜日
2011年5月20日金曜日
2011年5月18日水曜日
五月の「誤読」-倉田良成『小倉風体抄』の読みについて
―「誤読」のないことろに「文学」はない。「詩」はない。(詩はどこにあるか・谷内修三の読書日記)―と谷内修三は倉田良成の『小倉風体抄』の感想文を結ぶ。書いている当人が推奨する「誤読」を実践して行けば、こういう感想にしかならないという代物に陥ってしまってはいないか。「誤読」以前の誤解や、丁寧な読み(ここに収録されている谷内の膨大な詩集評のなかには、丁寧で深切なものも一杯ある)に欠けた断言が多すぎるというのが私の谷内評を読んでの感想である。
―倉田のこの詩集は「百人一首」と向き合わせる形で作品が書かれているが、何も向き合っていない。ことばが向き合っていない。倉田のことばが百人一首のことばを批評していない。「誤読」してない。
たとえば「めぐり逢ひて」。紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分ぬまに雲がくれにし夜半の月影」を題材にしている。その内容は、恋愛とは無関係のことである。
昔の友だちと久々に会った。(めぐり会った、という題材が使われている。)その友だちは、実は病院に入院するために「わたし」の街にやってきて、そこで「わたし」と会っただけなのだ。―
という谷内の批評から、彼の読みの「誤解」(「誤読」以前の)を指摘してみよう。①「百人一首」と向き合わせる形で書かれているが、何も向き合っていない。ことばが向き合っていない、これはどういうことだろうか?②「百人一首」のことばを批評してない、「誤読」してないとはどういうことだろうか?これについて谷内は―「文学とは、特に文学を題材とした文学とは「誤読」でなくてはならない。…あることば--それを強引にねじ曲げ、原典のことばではたどりつけないところへ行かなければならない。そして、そこには「祈り」が入っていないといけない。倉田の作品には、そういう「誤読」がない。ただ、百人一首と重ならないだけなのだ。これでは、なぜ百人一首を題材に選んだのか、さっぱりわからない。」―と理由らしきことを述べているが、これは単に評者の「文学観」めいたものの披瀝にすぎない、従ってこの当為めいたもの言いが倉田の詩集を批評しているということにはならない。①に戻って、そもそもこの詩集は「百人一首」と向き合っているのではなく、百人一首中の35首の歌をエピグラフに配した35篇の散文詩の集まりである、というのが正しい。そこから読解は始まるべきだ。「百人一首」というようなものはない、それぞれの「歌」があるだけだ。倉田は別に彼が私淑する安東次男の「百首通見」をもくろんだのではない。彼がことさら「誤読」するまでもなく、その肉体にまで染みこんだこれらの35歌をいかに縦横無尽に、彼の「青春」の「体験」などと向かい合わせているか、その飛躍の妙に私は引きつけられる。
たとえば、ここで谷内が引用している紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かげ」をエピグラフにした「めぐり逢ひて」という作品について考えてみよう。谷内は倉田のこれらの作品が「ストーリーに従事しているから」面白くないという。もう少し遠回りして、谷内の「ストーリー」観をながめてみよう。
―
ストーリーといっても「現代詩訳」ではないから、そのストーリーは百人一首のストーリーではない。むしろ、倉田は元歌のストーリーからは離れてみせる。つまり、まったく(違うという意味だろうが、ママ・水島註)ストーリーをぶつけ、百人一首から離れる。百人一首から離れるために、百人一首が書いていないストーリーをぶつける。
そこに、なんともいえない「退屈」が入り込んでくる。
ストーリーから離れるのに、別のストーリーに頼る--というのでは、詩は生まれない。いや、どんな文学も生まれないのではないか。―
これは無体な批評というものだ。彼は「百人一首」の「現代詩訳」が欲しいのだろうか?そんなもの私は読みたくもない。「元歌のストーリー」とは何か? 「歌」にどういう「ストーリー」があるというのか?「歌」と「ストーリー」は截然と異なるものではないか。その歌の成立事情などを書いた「詞書」ということなのだろうか。ここでこの詩の批評に戻ろう。谷内は次のように書く。前の引用とダブルところもあるが、
― 紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分ぬまに雲がくれにし夜半の月影」を題材にしている。その内容は、恋愛とは無関係のことである。
昔の友だちと久々に会った。(めぐり会った、という題材が使われている。)その友だちは、実は病院に入院するために「わたし」の街にやってきて、そこで「わたし」と会っただけなのだ。その最後の部分。
入院なら毎日おみまいにゆくよと言ったら、来ないでほしいからこうして会いに来た。お願い、そこに来るなんてことかんがえないで。もうあたし、誰にも会うことのないところへ行くの。とささやいたあの夜の声を、わたしはけっして忘れない。
「雲隠れ」は「死」に置き換えられている。「雲隠れ」の「隠れる」は「死」をさすことばとしても使われることがあるから、ここにはどんな「批評」もない。どんな批評もせずに、「隠れる」を借りてきて、「死」と言い換えているにすぎない。
これだけのことを書くなら、紫式部の歌を作品の冒頭に掲げることなど、必要ないだろう。だれも、この倉田の作品を読んで、これは紫式部の歌と関係があるとは思わないだろう。だれも何も思わなかったら、それは紫式部の歌を利用して新しい作品を書いたということにはならないのだ。
文学を材料にして文学を生み出すには、原典と強い関係がなくてはならない。
強いつながりがあって、そのつながりが強いからこそ、そのことばを振り切るようにして新しいことばが、新しい運動をしなければならない。―
谷内の誤読ではない誤解をいくつか指摘してみよう。「その内容は恋愛とは無関係のことである」というのは、式部のこの切ない「友情」の歌が「恋愛」と「誤読」されていないということへの不満から来る言及か。可笑しいと思うのは、その次の「雲隠れ」云々のところ。どうでもいいことだが、「雲隠れ」は「死に置き換えられている」とは何を言いたいのか?そして「隠れる」は「死」をさすことばだからどんな「批評」もない、とは?。まったく見当ちがいの「誤読」としか言いようがない。語のレベルでの批評の対応が「原典」とそれによった「作品」との間で求められているということなのか。(誤解のないように言っておけば、式部の歌での「雲隠れ」は立ち去った、消えたという意味だ。それが貴人の死を意味することもある。倉田はそんなことは先刻承知のことだ。)
「これだけのことを書くなら、紫式部の歌を作品の冒頭に掲げることなど、必要ないだろう。だれも、この倉田の作品を読んで、これは紫式部の歌と関係があるとは思わないだろう。だれも何も思わなかったら、それは紫式部の歌を利用して新しい作品を書いたということにはならないのだ。」
どうしてこういうもの言いが成立するのか、ほとほと首をかしげざるを得ない。これは言いがかりであって、谷内自身の論理で言えば、むしろ「だれも…思わない」というところにこそ、彼の推奨する「誤読」のラディカルさはあるのではないかとも思うほどだ。私は次のように思う。これは谷内の言うような事態ではない、つまり文学の「原典」などというカノンがあり、それに対して抵抗しなければ「文学」ではないなどという範疇の問題ではない。そういう「体勢」に無意識かもしれないが読みを導いてはならないと私は思う。
式部の歌と「ストーリー」としての散文は相互に照らし合っている。倉田の言葉を使えば彼の詩と「歌」の―秘かに符合する「切所」― 、それを読者としても発見する歓び、その歓びを、切ない「現代」の「青春」の「回想」の数々に古歌の「風体」を合わせることから生み出そうとした、そこにこの詩集の新しさがある。古歌に引きずられてではなく、古歌の新しい「風体」を今ここで私たちは倉田の「ストーリー」と一緒に発見するのである。
―倉田のこの詩集は「百人一首」と向き合わせる形で作品が書かれているが、何も向き合っていない。ことばが向き合っていない。倉田のことばが百人一首のことばを批評していない。「誤読」してない。
たとえば「めぐり逢ひて」。紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分ぬまに雲がくれにし夜半の月影」を題材にしている。その内容は、恋愛とは無関係のことである。
昔の友だちと久々に会った。(めぐり会った、という題材が使われている。)その友だちは、実は病院に入院するために「わたし」の街にやってきて、そこで「わたし」と会っただけなのだ。―
という谷内の批評から、彼の読みの「誤解」(「誤読」以前の)を指摘してみよう。①「百人一首」と向き合わせる形で書かれているが、何も向き合っていない。ことばが向き合っていない、これはどういうことだろうか?②「百人一首」のことばを批評してない、「誤読」してないとはどういうことだろうか?これについて谷内は―「文学とは、特に文学を題材とした文学とは「誤読」でなくてはならない。…あることば--それを強引にねじ曲げ、原典のことばではたどりつけないところへ行かなければならない。そして、そこには「祈り」が入っていないといけない。倉田の作品には、そういう「誤読」がない。ただ、百人一首と重ならないだけなのだ。これでは、なぜ百人一首を題材に選んだのか、さっぱりわからない。」―と理由らしきことを述べているが、これは単に評者の「文学観」めいたものの披瀝にすぎない、従ってこの当為めいたもの言いが倉田の詩集を批評しているということにはならない。①に戻って、そもそもこの詩集は「百人一首」と向き合っているのではなく、百人一首中の35首の歌をエピグラフに配した35篇の散文詩の集まりである、というのが正しい。そこから読解は始まるべきだ。「百人一首」というようなものはない、それぞれの「歌」があるだけだ。倉田は別に彼が私淑する安東次男の「百首通見」をもくろんだのではない。彼がことさら「誤読」するまでもなく、その肉体にまで染みこんだこれらの35歌をいかに縦横無尽に、彼の「青春」の「体験」などと向かい合わせているか、その飛躍の妙に私は引きつけられる。
たとえば、ここで谷内が引用している紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かげ」をエピグラフにした「めぐり逢ひて」という作品について考えてみよう。谷内は倉田のこれらの作品が「ストーリーに従事しているから」面白くないという。もう少し遠回りして、谷内の「ストーリー」観をながめてみよう。
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ストーリーといっても「現代詩訳」ではないから、そのストーリーは百人一首のストーリーではない。むしろ、倉田は元歌のストーリーからは離れてみせる。つまり、まったく(違うという意味だろうが、ママ・水島註)ストーリーをぶつけ、百人一首から離れる。百人一首から離れるために、百人一首が書いていないストーリーをぶつける。
そこに、なんともいえない「退屈」が入り込んでくる。
ストーリーから離れるのに、別のストーリーに頼る--というのでは、詩は生まれない。いや、どんな文学も生まれないのではないか。―
これは無体な批評というものだ。彼は「百人一首」の「現代詩訳」が欲しいのだろうか?そんなもの私は読みたくもない。「元歌のストーリー」とは何か? 「歌」にどういう「ストーリー」があるというのか?「歌」と「ストーリー」は截然と異なるものではないか。その歌の成立事情などを書いた「詞書」ということなのだろうか。ここでこの詩の批評に戻ろう。谷内は次のように書く。前の引用とダブルところもあるが、
― 紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分ぬまに雲がくれにし夜半の月影」を題材にしている。その内容は、恋愛とは無関係のことである。
昔の友だちと久々に会った。(めぐり会った、という題材が使われている。)その友だちは、実は病院に入院するために「わたし」の街にやってきて、そこで「わたし」と会っただけなのだ。その最後の部分。
入院なら毎日おみまいにゆくよと言ったら、来ないでほしいからこうして会いに来た。お願い、そこに来るなんてことかんがえないで。もうあたし、誰にも会うことのないところへ行くの。とささやいたあの夜の声を、わたしはけっして忘れない。
「雲隠れ」は「死」に置き換えられている。「雲隠れ」の「隠れる」は「死」をさすことばとしても使われることがあるから、ここにはどんな「批評」もない。どんな批評もせずに、「隠れる」を借りてきて、「死」と言い換えているにすぎない。
これだけのことを書くなら、紫式部の歌を作品の冒頭に掲げることなど、必要ないだろう。だれも、この倉田の作品を読んで、これは紫式部の歌と関係があるとは思わないだろう。だれも何も思わなかったら、それは紫式部の歌を利用して新しい作品を書いたということにはならないのだ。
文学を材料にして文学を生み出すには、原典と強い関係がなくてはならない。
強いつながりがあって、そのつながりが強いからこそ、そのことばを振り切るようにして新しいことばが、新しい運動をしなければならない。―
谷内の誤読ではない誤解をいくつか指摘してみよう。「その内容は恋愛とは無関係のことである」というのは、式部のこの切ない「友情」の歌が「恋愛」と「誤読」されていないということへの不満から来る言及か。可笑しいと思うのは、その次の「雲隠れ」云々のところ。どうでもいいことだが、「雲隠れ」は「死に置き換えられている」とは何を言いたいのか?そして「隠れる」は「死」をさすことばだからどんな「批評」もない、とは?。まったく見当ちがいの「誤読」としか言いようがない。語のレベルでの批評の対応が「原典」とそれによった「作品」との間で求められているということなのか。(誤解のないように言っておけば、式部の歌での「雲隠れ」は立ち去った、消えたという意味だ。それが貴人の死を意味することもある。倉田はそんなことは先刻承知のことだ。)
「これだけのことを書くなら、紫式部の歌を作品の冒頭に掲げることなど、必要ないだろう。だれも、この倉田の作品を読んで、これは紫式部の歌と関係があるとは思わないだろう。だれも何も思わなかったら、それは紫式部の歌を利用して新しい作品を書いたということにはならないのだ。」
どうしてこういうもの言いが成立するのか、ほとほと首をかしげざるを得ない。これは言いがかりであって、谷内自身の論理で言えば、むしろ「だれも…思わない」というところにこそ、彼の推奨する「誤読」のラディカルさはあるのではないかとも思うほどだ。私は次のように思う。これは谷内の言うような事態ではない、つまり文学の「原典」などというカノンがあり、それに対して抵抗しなければ「文学」ではないなどという範疇の問題ではない。そういう「体勢」に無意識かもしれないが読みを導いてはならないと私は思う。
式部の歌と「ストーリー」としての散文は相互に照らし合っている。倉田の言葉を使えば彼の詩と「歌」の―秘かに符合する「切所」― 、それを読者としても発見する歓び、その歓びを、切ない「現代」の「青春」の「回想」の数々に古歌の「風体」を合わせることから生み出そうとした、そこにこの詩集の新しさがある。古歌に引きずられてではなく、古歌の新しい「風体」を今ここで私たちは倉田の「ストーリー」と一緒に発見するのである。
2011年5月6日金曜日
a soldier of ideas
「ものを考える一兵卒」というのは"a soldier of ideas"の藤永先生の訳だが、これは確か今年カストロがすべての役職から身を引いたときの言葉ではなかったか。それを藤永先生が英語で訳して紹介したのだと思うけど、そうでなくてもとてもいい言葉で、またいい訳だと思う。
政治家ではないが藤永先生もそうだし、カストロもそうだし、藤永先生がそのブログで教えてくれた今はなき70年代のカナダの首相、Pierre Trudeauもそう呼ばれていい人々だ。彼らは自分の仕事を懸命にし、その道や、社会や、人々のために尽くし(人々を不幸にするのではなく)、引退してからは功名を思わず、陰険な権力を使うことはしない。そういう人しか"a soldier of ideas"にはなれないのだ、というのが正しい。平岡敏夫先生もそのなかの一人として数えることができる。日本近代文学の幅広い研究に尽くされ、今は詩も書く。平岡先生の書くものから、私は一度もその道の「権威」としての重苦しさや抑圧を感じたことがない。いつでも初々しく、感情と知性のバランスがとれ、しかも現状に甘んじることはない。まさに"a soldier of ideas"だ。
政治家ではないが藤永先生もそうだし、カストロもそうだし、藤永先生がそのブログで教えてくれた今はなき70年代のカナダの首相、Pierre Trudeauもそう呼ばれていい人々だ。彼らは自分の仕事を懸命にし、その道や、社会や、人々のために尽くし(人々を不幸にするのではなく)、引退してからは功名を思わず、陰険な権力を使うことはしない。そういう人しか"a soldier of ideas"にはなれないのだ、というのが正しい。平岡敏夫先生もそのなかの一人として数えることができる。日本近代文学の幅広い研究に尽くされ、今は詩も書く。平岡先生の書くものから、私は一度もその道の「権威」としての重苦しさや抑圧を感じたことがない。いつでも初々しく、感情と知性のバランスがとれ、しかも現状に甘んじることはない。まさに"a soldier of ideas"だ。
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