1988年5月、アムステルダムのホテルの窓から転落して、チエットは死ぬのだが、その11ヶ月前の東京公演での演奏を辺見庸は最高のパフォーマンスとして、シオランの「音楽とは悦楽の墳墓、私たちを屍衣でつつむ至福」(このシオランの言葉もすごい)という言葉で讃頌する。とくに、この一曲を。そこのところを引いてみよう。
かつて“うたう屍体”とまで酷評されたことのあるジャンキー(麻薬中毒者)・チエットは、「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」を永年の求道者のように奥深く、殺人鬼のように優しく狂った、ある種ちかよりがたいほど醒めた声質でうたいあげて、満場を泣かせたのだった。例によってスツールに脚をくみ、前かがみになってすわったままの歌もトランペットも、かぎりない喪失と脱することのかなわない奈落、そして不可思議としかいいようのない恩寵のようなものも感じさせたのである。文字通りの奇蹟であった。
辺見は「喪失とひきかえの恩寵」の善なる例としてビリー・ホリディを挙げ、彼女が「いわば善なる者の蹉跌と堕落、悔恨を情緒てんめんと歌い上げて神の心をも動かした」のに対して、チエットには自省や悔恨はなく、彼の当該の歌のすごみは、「したがって、恩寵のゆえではなくして、神をもあきれさせ、ふるえあがらせた底なしの無反省とほぼ完璧な無為をみなもととしていることにある」のだという。
闇の底からわきあがってくるその声は、うたがいもなく腐りきった肉体の芯をみなもととし、ただれた臓器をふるわせ、無為の心と重奏してうねり、錆びた血管をへめぐり、安物の入れ歯のすき間をぬけて、よろよろと私の耳に達した。ここに疲れや苦汁があっても、感傷はない。更生の意欲も生きなおす気もない。だからたとえようもなく切なく深いのである。そのようにうたい、吹くようになるまで、チェットは五十数年を要し、そのように聴けるようになるまで、私は私でほぼ六十年の徒労を必要としたということだ。ただそれだけのことである。教訓などない。学ぶべき点がもしあるとしたら、徹底した落伍者の眼の色と声質は、たいがいはほとんど堪えがたいほど下卑ているけれど、しかし成功者や更生者たちのそれにくらべて、はるかに深い奥行きがあり、ときに神性さえおびるということなのだ。
これが辺見庸のChet Baker理解の核心にある思いである。Chet Bakerを抜け出して辺見自身の人間性というものの幅を思わせるところでもある。
私は2,3年前にChet Bakerになぜかわからないが入れあげてしまい、ほとんど彼の曲のすべてを聴いたのだが、こんな深い理解からではなかった。今夜、辺見を読みながら、またこれを書きながら、聴きかえしている。東京公演の模様がyou tubeに入っているのには驚いた。私が聴いたのはおもに彼の全盛期のものだったから、この深さには思いも寄らなかったのだろう。
(シュツットガルドでの公演、これも晩年の "I'm a fool to want you")
(東京公演での"My funny valentine")
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