書き終わって、直す余裕があまりないほど、最近追い込まれているのか?そうではないが、樹木や雲が秋を告げているのを立ち止まって見たり、思ったりする心の余裕がというか、あまり好きな言葉ではないが「感受性」がほとんど壊滅状態にあるのではないかなどと、自らを省みて最近思う。
まず、あらゆる書き物の、そのそこに秘めている「自己宣伝」に飽きた。
その欲望がいとわしいものに思えて、その匂いを嗅いだとたん読む気がしない。
古典はまだいい、しかし現実に生きている連中で、しかもしょっちゅう書いている、いわゆるプロと称するもので、宣伝の悪臭を放つもの、それには我慢がならないし、そういう予感(先入主でもいい)があるから、とにかくいやだ。
秋の多義性、
こころと欲望はよく入れ替わる。
昨日、西荻ブックマーク。古本屋、音羽館の広瀬さんとも会う。こういうイベントを今回で46回も地道に続けてきたその実践に敬意を表する。そして、この会の前半で佐藤泰志の文学と人間について講演した福間健二の細やかで強さをも兼ねた「観察」もすばらしかった。泰志の二十回目の命日の日の、人々のあつまり。映画もでき、文庫も出た、あの世から泰志はなんと言うだろうか? 和史よ、どう思いますか?
2 件のコメント:
ただ今、実家。明日、帯広の老人ホームに行って父を病院に連れて行く。実家に来る途中、阿寒を通って来るんだけど、紅葉に見とれながらの運転だった。もう冬の気配。現代詩手帖に取り上げてもらってありがとう。泰志の集まりも、いろいろありがとう。わたしは11月下旬に帰ることになりそう。泰志の映画はとにかく観てみたいね。福間さんも映画を撮っているのかな?
井田さんに悪いと思いつつも手伝えないでいるのだが、3日の日は下働きでも何でもしようと思っている。
もうすっかり紅葉なんだね、そちらは。
福間さんは、この夏、映画を撮ったようだ。
いろいろ大変なようだけど、無理をせずにやってください。帰って来たら拙宅で話を聞かせて下さい。
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