○ 紙衣(かみぎぬ)の濡るとも折らん雨の花 芭蕉
というような風情の雨ではないが、嘘でもいいからと思って。
「あすは檜の木」とかや、谷の老木のいへる事あり。きのふは夢と過て、あすはいまだ来たらず。ただ生前一樽のたのしみの外に、あすはあすはといひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ。
○ さびしさや花のあたりのあすならう 芭蕉
前書きも含めて、好きである。
○ Stefan George(1868-1933)
ゆたかな宝のかずかずを惜しみなく使いはたせ、
ながいあいだの旱(ひでり)が草木を喘がしたのちのように
いまここできみたちは熟した手足に
柔和な雨をそそがねばならぬ。
夕べの星があまやかにうるんでまたたくとき、
ほてりとかげりがこもごもにきみたちの心をいざなうとき、
そこに実ったこよない果実を摘みとって、
あたえられたかぎりのものを享受したといいうるようにするがよい。
そしてきみたちが心のなかで早くも遠方の形姿に接吻することを
痴愚と名づけよ、おそるべきまがごととせよ。
そしてまたまことの接吻と 夢のなかで受けた接吻とを
融け合わすすべを知らぬことを。
ゲオルゲの「魂の年」より、手塚富雄訳「ゲオルゲ詩集」(岩波文庫1972年)より。
これは芭蕉の「あすなろう」の寂しい響きとは異なるエピキュリアン、ただし限りなく倫理的なエピキュリアンの歌だが、その不可能性の美しさの歌でもあるようだ。そこで両者の象徴が響きあう。
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