2010年3月29日月曜日

皺ある寒さ

北村太郎の「死者について」(「北村太郎の仕事3」所収)というのを読んでいたら、その冒頭「W.H.オーデンが三月二十八日、ウイーンホテルで死んだ。」と始まるのが変な感じがした。これは1973年十一月の日付が記されているエッセイだ。初出誌はたぶん現代詩手帖だろうが、「パスカルの大きな眼」1976年思潮社、という単行本から収録されたということが後に付いている「書誌」からわかる。としたら、この今ぼくが読んでいる全集本にいたるまでに、少なくとも2回の校定、校訂、校正などの時機があったにもかかわらず、北村太郎の敬愛したW.H.オーデンの死亡期日が誤って書かれているという、これもプロの校閲者であった太郎の名誉にかかわるような基礎的・事実的な誤記が残されてしまったということになる。W.H.オーデンの命日は1973年の9月29日。どこで間違ったのだろうか、読みながら気になった。このことが気になった原因は実は、その間違った日付3月28日がわれわれ老夫婦の?十回目の結婚記念日だったので、あれあれオーデンの死んだ日だったの?などと思い、調べ直したことからわかったのだ。しかし、北村太郎のこのエッセイはすばらしいもので、オーデンのあの皺だらけの顔について次のように述べている。

あれは六十歳をすぎての写真であったろうか。面ながのその顔の、額だけでなく、目のまわり、頬、唇のあたりまで、深い皺が刻みこまれていた。毛唐の老人は、われわれの国の老人たちよりも、一般に皺が深く、また骸骨的であるように思われるが、肉を主とする食習慣によるものかどうか、わたくしには分からない。…(中略)とにかく、毛唐の老人のグロテスクさは、本邦のそれといちじるしく対照的である。オーデンのおびたただしい深い皺は、わが国では稀に老農夫の顔に見られるところのものであって、老詩人、老農夫の対比は決してオーデンに対するわたくしの冒瀆ではなく、むしろオマージュなのである。…(中略)とにかくオーデンの顔の皺は異様である。彼の日々は、知的にも感情的にも、あまりに充実しすぎていて、それが生理に、つまり皺に現れたのかも知れない。そして、その充実さの時間的限度が六十六年であったのだろう。


その人の顔の皺をもとに、その人の特異さを論じることのできるのは北村太郎一人だけだろう。

もう一つこの巻きには「「寒さ」について」という、これも面白いエッセイがあって、この季節外れの寒さの三月の終わりにこれを読んだことも、なにかの縁であると思う。その終わり、


いちどきに二日の物も喰て置      凡兆
雪けにさむき嶋の北風        史邦
火ともしに暮れば登る峰の寺      去来

の寒さこそ文明なのだ。そして「猿蓑」集は標題が示すように、「冬」が巻之一で、その寒さからすべてが始まるのである。


と「寒さ」こそ文明だと宣言し、これが書かれたのは1973年2月だが、そのときの「暖冬」の日々を唾棄している。寒さこそか、それにしても寒い。

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