2010年11月15日月曜日

Ohio Impromptu

どうしてこう疲弊するのだろうか?辛気くさい、老人の繰り言か。

 ベケットの「オハイオ即興劇」を読む。何故か知らんが、ベケットのことが最近いつも気にかかる。なにも知らないのに。極北のようなものか、あそこまで行けば文学も根絶やしだろうと思うからかもしれない。とにかく最近、「文学」が嫌になってきた。詩もそうかも。小説は読む体力がない。リョサも借りてきたけど、ほったらかし。

 英語で読みたいけど、面倒くさい。アマゾンの古書の出品のなかに、ベスト・オブ・ベケット3(白水社)「しあわせな日々・芝居」があって、そのなかに「オハイオ即興劇」も入っていた。700円ぐらいだった。今日届いていた。読んだ。このわけのわからなさの快感。現実と虚構と芝居と分身と読むことと聴くことの、すべてが曖昧な影を帯び、画定できない境や閾が息づきはじめて、いやすべてが…、

 最初に読み手は聞き手に向かって「語るべきべきことはもうほとんど残っていない。これを最後の…」と始まるテキストを読むのだが、これが舞台上の二人の役者(reader とlistenerという役柄)によって演じられる。この二人は区別不可能なほどに似ているという設定がある。聞き手は机の上をノックすることにより、朗読の部分を後退させたり進行させたりする。

 そのテキストの内容は、聞き手に対する誰かからの(聞き手が愛して、別れた人)メッセージのようでもある。その話は聞き手の経験のすべてがそこに記録されたもののようでもある。しかし読み手もすべてを理解して読んでいる、一つの身ぶりは、これは間違いないな、と言いながら、本を覗き込むのだが、これは間違いないな、と書かれているそこを読んでいるのである、そういう身ぶりがある。自分が書いたものを確認することの、その文字が、そのとおりそのページに書かれていて、それを読んでいるという仕掛け。

 その読まれるテキストの中の印象的な部分、
「川の二つの腕は、なんと喜ばしい渦を巻きながら相混じり、相抱いて流れ去ることか」、これには訳者(高橋康也)の注釈があって、「ベケットには珍しい抒情的エロティシズム」とある。

最後の部分で読まれるテキストの内容、それは読み手と聞き手の「今」を語るものでもある、

「そこで例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直され、二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。ひとつしかない窓からは、夜明けの光も差さなかった。外の通りからは、ひとびとのめざめる物音も聞こえなかった。それとも、ゆえ知らぬ思いに耽っている二人の男にとって、それらのことはどうでもよかったということなのか?朝の光とか、めざめの物音などは。いかなる思いか、知るよしもない。思い?いや思いではない。心の深き淵だ。故しらぬ心の深き淵に沈んで。心呆けたる深き淵。いかなる光も届きえぬところ。いかなる物音も。かくして二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直された」、

注意、これはその読まれる物語であるということを忘れるな。この芝居の二人の訳者への言及とまがうこのテキスト、テキストと舞台上の区別が一気に混同される。

そして最後、もちろんこれもその読まれるものに書かれている内容を読み手が読む、

「語るべきことはもうなにも残っていない」、もう一回、この台詞がある。

そして最後のト書き、

―― 二人は同時に右手をテーブルにおろし、顔をあげ、互いに見つめあう。まばたきをしない。表情のない顔。十秒。 溶暗。――

「考え、いや、考えではない。こころの深み。どんな深みだか誰も知らないところに沈められ。こころの、ではない、こころのない深みに」(...profounds of mind. Of mindlessness.)
というような訳もある。こちらの訳のほうが好きだ。

2 件のコメント:

k.t1579 さんのコメント...

「どうしてこう疲弊するのだろうか?」私も同感。世の中が、そうさせるのか。それとも自分が、そうなのか。ともあれ、そうなの。

先週、蕃さんがコメントを返してくれたのに確認せず夕方4時過ぎ「奏」へ行き5時の開店後にフライヤーで日程変更を知りました。

ここ最近私も、あまり読み進めないのものの、ナボコフの「賜物」とブルガーコフの「巨匠とマルゲリータ」を読んでいます。

「とにかく最近『文学』が嫌になってきた」とありますが、やはり冒頭の「疲弊」に起因しているのでは、ないかと私は思いますよ。

と「とにかく」と余裕なく結論を急ぎたがるところが「疲弊」そのもの、なのでしょう。
12月4日、できたら伺いたいと思います。

ban さんのコメント...

やっぱりそうか。悪かったです。健ちゃんの電話やらメール探したのだけど、なかったから、なんとかなると思ったのだが。

私のメールアドレスご存じですよね、よかったら、そこに健ちゃんの、携帯のメールでも知らせて下さいませんか。立川でも飲みたいし、学校かえりのあなたをあそこなら待つことができるでしょうから。