朝、一ヶ月ぶりのウォーキング。湯殿川は思ったほど増水はしてなかったが、流れははやい。タイムラグで狂っている体内感覚をここのそれにリセットするのには歩くのが一番いい。稲穂が随分伸びている。空に黒雲の塊が流れている。フロリダの空をハリケーンの余波で黒雲が過ぎったときは、地平線が見えるような広大な公園だったから、世界中が暗くなるようで、おそろしくなったが、八王子の空は家々にくぎられて狭く感じる。颱風はもう過ぎたのだろうか、まだこれからなのか。風は強い。歩きながら考えたことがある。場所と問題、場所と主題というようなこと。「ある主題のために、場所を拉致するのではなく、きみにとっての主題や問題を、今ここの場所に置いてみることのほうが大切なのではないか」、置き方の問題もあろうが、まず場所の場所性ということを第一にし、そこに君の主体や問題などをありのままに置いてみること、そこから出発したらどうか、などと考えながら歩いていた。ゆくりなく沖縄という場所が浮かんできた。その前に、たとえば日本という場所、福島や他の場所、そこに「原発という問題」が置かれているということ。これは正しい言い方ではない、無理矢理、強制的に「原発という問題」が福島や他の具体的な場所を「拉致」したのだということが今は明白になった。その問題の危険性が露わになって初めて、それが置かれた場所の場所性が事後的に問われるようになった。青森や佐賀や鹿児島の場所性も原発という問題がやがて明らかにするのだろうか。私が言いたいのは、我々の今ここの場所性(それは我々の「主体」性とは違う)を具体化すること、それを大切に考えることからはじめようということだ。沖縄を考えることはここでいう場所を大切にすることの意味と同じである。沖縄という場所は様々な問題に絡まれて傷つけられているように見えるし、実際もそうであろう。しかし、その場所性は常にそれらの問題を明白にし批判しうるほどの具体性と強さを持とうとしている。問題の困難さに負けない場所というのがある。そこでは君の小さな主体性など何ほどのものでもないが、その場所はそれをも鍛え直してくれるだろう。散歩のときに考えたことがこれと同じであったかどうかは忘れてしまったが、いつもの湯殿川の散歩という日常が私の小さな理性を呼び戻したようでもある。
今日やりたいこと。
ヨシフ・ブロツキーのフロスト論"On grief and reason"を読み継ぐこと。ここでの問題の一つはアメリカの詩人とイギリスの詩人の「自然観」の違いということ、私はそれに日本の現代詩人のそれも付加して考えてみよう。後期の授業の糸口になればいい。
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