蒸しています。水分の取り過ぎも加勢して余計に汗が流れ落ちるのでしょう。
涼を求めてというわけでもないのですが、イギリス・ロマン主義の代表的詩人ワーズワースの、いわゆる「ルーシー詩篇Lucy Poems」と呼ばれるものを読んでみました。岩波文庫の『ワーズワース詩集』(山内久明編)から、その(1)(2)を引用してみます。
(1)
A slumber did my spirit seal;
I had no human fears:
She seemed a thing that could not feel
The touch of earthly years.
No motion has she now, no force;
She neither hears nor sees;
Rolled round in earth’s diurnal course,
With rocks, and stones, and trees.
微睡(まどろみ)がわたしの心を封じ、
人の世の恐れは消えた。
あの女(ひと)はもはや感ずることもない、
この世の時の流れに触れて。
身じろぎひとつせず、力もなく、
聞く耳も見る目もなく、
日々廻る大地の動きのなかで
岩や、石や、木々と変わりなく。
(2)
She dwelt among the untrodden ways
Beside the springs of Dove,
A Maid whom there were none to praise
And very few to love.
A violet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
-Fair as a star, when only one
Is shining in the sky.
She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh,
The difference to me !
その女は人里離れて暮らした
鳩という名の流れの水源に近く。
その女を褒めそやす人はなく
愛する人とても数少なく。
苔むす岩かげの菫のごとく
人の目につくこともなく。
―星のごとくに麗しく、ただ一つ
輝く星のごとくに。
人知れず暮らし、知る人ぞ知る、
ルーシーが逝ったのはいつ。
地下に眠るルーシー、ああ、
かけがえのないルーシー。
ルーシーという女性のための墓碑銘(epitaph)のような詩です。註によると、このルーシーとはだれのことか諸説があるそうです。岩波文庫には「ワーズワースの最愛の妹ドロシーの連想を伴う」と書かれています。それはともかく、この日本語は、雰囲気は伝わりますが名訳過ぎて、いろんなことを流しているような気がします。(1)では、日本語の詩行にリズムを持たせようとして無理にこしらえたところ。(1)の二連の、それぞれの終りを、独立した修飾句として意識させようとするあまり、「この世の時の流れに触れて」「岩や、石や、木々と変わりなく」というふうに、訳者は気が利いているとたぶん思うでしょうが、そこが大抵つまづくところになります。「では、おまえは?」と言われたら困りますが。
とくに(2)の冒頭の「人里離れて暮らした」という訳は嫌です。untroddenは辞書を引くと、「踏まれていない、人が足を踏み入れたことのない、人跡未踏の」というような意味です。trodというtread(踏む、歩く、道を足で踏んでつくる)という語の過去分詞から派生した、その反意語で形容詞化されたものです。だから、すぐに「人里離れて」なのでしょうか。それにwaysは訳されていません。ここは、「彼女は人の踏み跡のない道々の中に住んでいた」と逐語訳してほしいところです。それに、もう一つ、(2)の最後の行です。The difference to me ! は「かけがえのないルーシー」となっていますが、ここもわかりません。単純に、ルーシーが死んでわたしにはすべてが変わってしまった、ということではないでしょうか?私はそう考えます。このことには私なりの理由があるのです。そのことについては後述します。このThe differenceという語はとても大切だと思うのですが、「かけがえのない人」という意味なのでしょうか。たとえば、She is the difference to meという文があって、そういう意味になるのでしょうか。
この三月の終りに、ロバート・フロストの”The road not taken”という詩に出会いました。それから折りにふれて、私はこの詩のことを思ったり、考えたりしているのですが、実は「ルーシー詩編」の(2)に出てくる、untroddenとdifferenceということば、18世紀の終りころに書かれたワーズワースの詩のなかの言葉ですが、それが20世紀(1916年)に書かれたフロストの”The road not taken”に反映しているのです。偶然の暗合かもしれませんが、このことに最近気づき、そこからフロストのこの詩を読み返してみて、今までとは異なる読み方もあるのではないかと考えました。そのことを言うまえに、フロストの原詩と訳を引用します。
The Road Not Taken
Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;
Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,
And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.
I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I-
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.
行かなかった道 ロバート・フロスト
黄ばんだ森の中で道がふたつに分かれていた。
口惜しいが、私はひとりの旅人、
両方の道を行くことはできない。長く立ち止って
目のとどく限り見渡すと、ひとつの道は
下生えの中に曲がりこんでいた。
そこで私はもう一方の道を選んだ。同じように美しく、
草が深くて、踏みごたえがあるので
ずっとましだと思われたのだ。
もっともその点は、そこにも通った跡があり
実際は同じ程度に踏みならされていたが。
そして、あの朝は、両方とも同じように
まだ踏みしだかれぬ落ち葉の中に埋まっていたのだ。
そうだ、最初眺めた道はまたの日のためにと取っておいたのだ!
だが、道が道にと通じることは分かってはいても、
再び戻ってくるかどうかは心許なかった。
今から何年も何年もあと、どこかで
ため息まじりに私はこう話すだろう。
森の中で道が二つに分かれていて、私は―
私は通る人の少ない道を選んだのだったが、
それがすべてを変えてしまったのだ、と。
この訳は駒村利夫という人のものです。とても聡明な感じのする訳ですよね。そして、この詩はアメリカの高校生たちのテキストには必ず載っているポピュラーなもので、学期の節目や卒業式などにはよく引用されるものだということも後で知りました。自分の目の前に、二つの道があって、両方とも同じように美しく、自分を誘うのだが、残念ながら、一人の旅人としては一つの道しか選ぶことはできない、もう一つの道はまたの日にと思って取っておいても、そこに戻ることは確信できない、仕方がない、自分はこの道、「通る人の少ない道を選ぶ、そのことが「すべてを変えてしまった」と、今から何年もあとに、ため息まじりに、どこかで話すだろう、というのです。こうして下手なパラフレーズをしていても、おわかりのように、この詩は単純そうに見えて、実はそうではありません。
この詩の複雑さは、簡単に言うと、詩の話者Iと、詩人のIが二重化されていて、それぞれの時間がこの詩の中にわざと混然と折りたたまれていることから生じるものです。つまり、詩のなかのI(私)は、最終連を見ると分かるように、人生の道の選択を強いられています、そしてというか、しかしというか、何年も何年もあとになって、ため息まじりに、その選択の結果を顧みるのは、フロスト自身であり、あるいはもう一人のIなのです。つまり未来形(I shall be telling this with a sigh)で語られるのですが、この時点では、すでに顧みられているのです、すべてが。従って、”that has made all the difference.”は、もう一人のIあるいはフロストの現時点での嘆きなのです。
もう少し、“The Road Not Taken”について話します。ここで使われている”road”という語が、喩であることはお分かりだと思います。人生とか、将来の道とかいうことでしょう。高校生たちの別れと新たな出発に際してのセンチメンタルな思い出を飾る詩のように読まれるのももっともです。それはそれとして私には何の文句もありません。しかし、もう少しこの詩に付き合ってみると、この詩からなにか激しい痛恨の思いのようなものが聞こえてくるようです。ここで何かを、フロストは決定的に失った何かを嘆いているのではないでしょうか?私には、この”road”、二つの道の暗喩が指し示すものは、もっと複雑なものに感じられます。たとえば、それは二人の同じような自分のうちの、もう一人の自分であったかもしれませんし、愛する人や友人の暗喩であるかもしれません。
ワーズワースに戻ります。ワーズワースの”untrodden”は、もうお分かりのように、フロストの詩では”In leaves no step had trodden black.”と”one less traveled”という句に反映しています、そして”The difference to me !”は、最後の”And that has made all the difference.”
に。だから、ワーズワースの”The difference to me !”も、喪失の感情をそのまま訳すべきだというのが、このエッセイの結論です。そして、フロストのこの詩は墓碑銘であること、それも言いたかったことです。話がいつものように暗くなり、また暑苦しくなったところで、終りにします。(8月5日、午前11時45分、書き終わる)
4 件のコメント:
きちんと読むと私などにもよく理解できる、英詩の名講義ですね。
二重化されたIの話など、藤井貞和氏の『物語理論講義』における多人称の問題、特に物語人称の提起を強く想起しました。
二つのIは、入れ子構造ではないように思います。ある言説、文を聞いているとき、人はいろいろに現れるIを構文として聞いているのではなく、それぞれの「現前」として面接しているように、私には思われます。うまく言えませんが。
そして、differenceに見る烈しい喪失や悔恨の印象に至る説明にもなるほどと唸りました。それから逐語訳についてですが、テキスト本体の理解のためなら、直訳や逐語訳がもっと活用されていいように感じます。これも藤井さんの受け売りで、古文には研究語訳というのがあるそうで、これは文学の薫り漂う現代語訳に対比されたもので、無味乾燥に助動詞にいたるまで現代語で原文を「復元」することを指すものだそうです。きょうの話を読み、そんなことを思いました。
「ルーシー詩篇」の方の詩ですが、訳の方はbanさんの意見に賛成ですね。メリハリのないぼんやりした、僕の恩師の高橋義孝氏の口癖を真似すれば、老眼鏡をはずした老人の視界のような訳です。特に最終連の訳がだめですね。oh,The difference to me! は、この詩の眼目ですから、これを「かけがえのないルーシー」と訳すなんて、ダメだと思いますね。だれも人に知られずに暮らしていて、いつなくなたかも、ほとんど知る人もなかったからとはいえ、自分にとっては、彼女が生きているか、地下に眠るかは、決定的な違いなのだ、と言いたいのだと思います。だから定冠詞がわざわざ附けてあるのではないでしょうか。「彼女は墓の中にいるではないかだって、冗談じゃない、それではダメなのだ」といった意味のことを、もっと綺麗にいってほしかったですね。
倉田さん、平川さん
この長々しいのを読んで下さって、ありがとうございます。
倉田さん、今考えていることがあって、たとえば「道」という形象は、詩や短歌、俳句にはどういうように描かれているのか、ということを調べてみたいということなのです。そういうことを岩田さんにも話しました。彼は、老子の「タオ」も付加すべきだとアドバイスしてくれました。これは、その手始めのものです。膨大なものになるかもしれないし、中途半端で終わるかもしれません。
藤井さんの本、早速探して読みます。ありがとう。
平川さん、
ありがとうございます。訳に文句をつけるほどの英語力はないのですが、フロストの詩と比べてみて言いたかったのです。
たとえば、カフカを読むと、ゼノンなどがカフカ的に読み直される、というようなことをボルヘスが書いていました、これに関していいことばがあったと思いますが忘れました。つまり、後生が先輩を作り直すような意味で読みたかったのです。
ロバート・フロストの"The Road Not Taken"について一言。
人生には、ある道をとったがゆえにもう一方の道は、絶対に選べなかったと言う選択と、目の前にもうひとつの道が見えているが、そちらの道は、あとでもう一度戻って、選びなおしてもよさそうだ、つまりそちらの方の道ならいつでもいけるから、そのときの為にとっておこうと言う場合の選択と、二種類の選択があるようです。ロバート・フロストのこの詩は後者の場合にぴったり当てはまるような気がします。その根拠は、第3連の「そうだ、最初眺めた道はまたの日のために取っておいたのだ!」という一行です。しかし、結果的には、その道に戻るチャンスは、二度とないのです。
僕の場合でいいますと、大学を卒業した時、サラリーマンになるか、大学院に進学して、教師になる道を進むかは、決定的な選択でした。しかし、大学に入学した直後、最初の外国語として、ドイツ語を、選んだとき、もうひとつの選択肢として、第三外国語と言う道があったのです。そこでぼくは、フランス語を学ぼうとして、実際にフランス語の教科書を買ったのですが、怠け心のせいで、授業には一回も出なかったのです。その後、そのときフランス語を学ばなかったのを何度も後悔しましたね。それなら今からでもやればいいじゃないかですって、それは無理と言うものです。
しかし、フロストに習ってこのことだけははっきりいえますね。あの時フランス語を習っていれば、僕のドイツ語教師教師としてのあり方はずいぶん違ったものになったであろうと。
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