2008年12月6日土曜日

加藤周一の死

加藤周一が昨日亡くなった。89歳だった。まともには読んではいないが、朝日の不定期の連載コラム『夕陽妄語』はよく読んだ。試験問題などにも何回も使ったりした。腰を据えた観察と的確な批評は、この国の浮薄を撃つだけではなく、文章自体も再読三読にたえるものだった。いよいよ、「知識人」らしき「知識人」はこの国からは払底し、売り尽くしの札が貼られるであろう。同じ頃11月28日にレビィ・ストロースは百歳の誕生日を迎え、サルコジ大統領が慶賀のために自宅を訪問したそうである。いろいろといわれるサルコジだが、この20世紀の偉大な文化人類学者を敬う気持は、人気取りの一環であれ、多少なりとも抱いていたということで、これと比較してわが邦のだれそれはと言うべき言葉もないのである。

昨日は立教の第9回目の授業だった。選んだ作品の合評に関して、ある受講生のリアクションカードを読んでいたら、冷たい批評が多すぎるという言葉が気になった。相互に批評させるのだが、率先して手をあげる人がいないので、ぼくが指名することになる。それが少し偏っているなとは思っていたけど、どうしても意見や批評をちゃんと言えるような学生を指名しがちになるのだ。その学生たちのコメントが冷たいと、この女学生は書いていた。冷たいというのはどういうことだろう?そう思えば、反論すればいいのではないか。次第に、いろんなことが表面化してきたようでもある。リベラルな場を作り出そうと、ぼくは最初の授業で語ったが、そのことの意味を再考しようと思った。あと少ししかないけれど。

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