一、記憶の節約(エコノミー)ということ。一篇の詩(ポエム)は、その客観的な、あるいは外見上の長さがどれほどであろうと、まさにその省略的という使命からして簡潔でなければならない。圧縮(Verdichtung)と引きこもり(retrait)の、博識なる無意識。
二、心ということ。といっても、高速道路のインターチェンジの上を危険もなく往来し、そこであらゆる言語に翻訳されるような文章たちの真ん中にある核心というわけではない。…つまりさまざまな知の対象、あるいは諸種の技術の、哲学の、そして生命―倫理―法律的な言説の対象ではない。おそらくは「聖書」における心でも、パスカルの語る心でもない。…そうではなく、〈心〉の、ある一つの歴史=物語だ、つまり「暗記する・暗唱する(心を通じて学ぶ)」という固有語法のうちに、詩的なかたちで包み込まれているような歴史=物語だ。…
いま述べた二つは、一つのうちに納まるだろう。というのも、二番目の公理は最初のに巻き付いているから。率直に言おう、詩的なものとは、きみが暗記したいと願望するもの、ただし他者から、他者のおかげで、口授されて暗記したい(心によって学びたい)と欲するものだろう、と。
筆写していて面白いなと思うところと訳の分からないところがあるが、後者は無視していこう。次にデリダのこの文章でとびっきり鮮やかなのは、こういう詩的な観念をある一つの形象にまとめたことである。「詩とはなにか?」デリダは言う。それはハリネズミだと。また引用して味わってみよう。
…(詩についてのさっきの二つの公理の要請に対してというような意味の句がある―水島註)答えようとするなら、きみはその前に、記憶を取り毀ち、文化を武装解除し、知を忘れることができなければ、詩学の図書館を焼き尽くすのでなければなるまい。この条件でのみ詩の一回性=唯一性はある。きみは祝賀するべきであり記念しなければならないのだ、「心を通じて」という記憶喪失を、野生=非社交性を、愚かしさ=獣性を、即ちハリネズミを。ハリネズミは自ら盲目となる。身を丸めて球となり刺を逆立てたそれは、傷つきやすくもあれば危険でもあり、計算ずくでありながら環境に適応していない(自動車道で危険を察知して身を丸めるがゆえにそれは事故に身を晒すことになる)。事故なくして詩はない。傷口のように裂開していないような、だがまた傷つけることのないような詩というものはない。きみから私が心を通じて学びたいと欲望する無言の呪文、声なき傷口を詩と呼び給え。だがそれは、本質上、作られまでもなく生起する(場を持つ)。活動もなく、労働もない、どんな生活とも無縁な、とりわけ創造とは無縁なこの上なく簡素なパトスのなかでそれは作られるにまかせる。詩は降りかかる、それは祝福であり、他者から到来するものだ。リズム、だが、非対称だ。……
引用の後半部「とりわけ創造とは無縁なこの上なく簡素なパトスのなかでそれは作られるにまかせる」というのがデリダの言いたいところだと、私が思うのも、こういうところが一番理解しやすいからである。オリジナル、創造、労働の産物という考えはなかなか根強いし、それを全く否定するのも不可能だろうが、そういう詩観にたいして、このような難しいことを言っているように見えながら、実はそれこそ簡素な、詩とは到来する賜のようなものであると要約してもよいデリダの簡潔?な考えを改めて実際の「詩作?」の場で、「心を通じて学び」たいものだと思った。
(上記の詩論の読解めいた講義から、今期の私の授業は出発した。さてどうなるか。50名ほどのクラス。昨年の80名に比べると、すごくゆったりとしていた。私の気分も。)
Poems about Poetryを紹介したいと思い(「詩とは何か?」への詩での回答)、Marianne Moore(1887-1972)の"Poetry"とArchibald MacLeish(1892-1982)の"Ars Poetica"を用意した。日本の詩人では谷川俊太郎の「理想的な詩の初歩的な説明」(『世間知ラズ』所収)という詩。三篇はそれぞれ詩への「解釈」が違い、「創造」的である、という出席者のコメントがあった。その後に、デリダの「詩とは何か」を読んだ。期せずして対照的なテクストの読解が生まれたようにも思えた。そこで時間が尽きた。実はもう一つの詩を用意していったのであるが。その詩はどうして用意されたのかも忘れ去られ、読まれもせず、遺棄された。でも、ここにこうしてある。だれの、創造の成果と問うなかれ!「声なき傷口」として、わたしを呼んでいる。
わたくしどもは
わたくしどもは
ちょうど一年といっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢をみているようでし た
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はずれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いていた金魚の壺にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑いようをしました
見ると食卓にはいろいろな菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたずねましたら
あの花が今日ひるの間にちょうど二十円に売れたというのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみというのでもなく
萎れるように崩れるように一日病んで没くなりました
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