2009年9月28日月曜日

芭蕉(奥の細道)からの贈りもの

出光美術館の『芭蕉(奥の細道)からの贈りもの』という特別展を先日見に行った。
これは主に芭蕉の懐紙や短冊類、書状などを、その仮名の書風の変遷に注目して三段階(三期)に分類して(とは言え年代順になるようだ)展示したものである。特にこの分類上、「最も優雅で美しいといわれる、第二期の作品群を集め」たというのが、この展示のポイントらしい。二期とは貞享後期から元禄4年前後の芭蕉が旅を重ねた時期である。

 書に関して何も分からない素人だが、初めて芭蕉の五十件余りの真跡に直に接して感じたのは、どの時期からも感受できる筆の力というか、その立てる「声」というか、その真率さの崩れぬ持続力のすばらしさであった。大師流という書体らしい、この崩しや連綿の書体を今の私などはほとんど読めないが、それを当時の芭蕉の弟子をふくめた人たちがおそらく何の苦もなく読めたであろうという事実のもつすごさに圧倒された。少なくとも僧侶や武家、ブルジョアの町人たち、俳諧師をはじめとする文化・教養階級は弘法大師以来の書の美の伝統の求心力のなかで生きており、それを背景として、たとえば情報の「伝達」としての書状なども、このように「優雅で美し」く書かれたのである。

(何云宛書状 元禄2年)

 
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 書とは関係ないが、「ほそ道」にもある岩沼宿(「武隈の松」)での句文懐紙に眼を留めた。これは「山寺記念館蔵」のものである。その句文は

むさし野は桜のうちに
うかれいでゝ、白かはの
関はさなへにこえ、たけ
くまの松はあやめふく
比になむなりぬ

 ちりうせぬ松は二木を
三月こし

芭蕉翁桃青


これを見、これ読んでいて、書を含めたこの全てが「詩」という以外にはなく、「詩とは何か」というデリダの定義(記憶の節約、圧縮と引きこもり、博識なる無意識)のすべてに合致している、という発見である(別に合致しなくともいいのだが)。こうして芭蕉は自らの旅を記憶の彼方に刻印することで、それは出来事になり、「心を通じて学ぶ」(暗唱)ことができるものになる、その字体とともに。

 八王子米の黄金の稲穂を見ながら散歩することは、その早苗の緑のころを思うことでもある。
 

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