2010年7月24日土曜日

ただ暑し

日焼田や時々つらく鳴く蛙     乙州
日の暑さ盥の底の蠛(ウンカ)かな 凡兆
日の岡やこがれて暑き牛の舌    正秀
ただ暑し籬によれば髪の落ち    木節
夕顔によばれてつらき暑さかな   羽紅


猿蓑(巻之二 夏)から。多分、現在の大暑のころの句だろうか。上の中では「ただ暑し…」という句がなんとなくわかる。「ただもう暑くてやりきれない。せめて道端の垣根寄りに行くと、抜け落ちた髪の毛がからまっていて何ともうとましい」(岩波・新日本古典文学大系・「猿蓑」は白石悌三の校注、による)という意味らしい。ただあつしまがきによればかみのおち、という響きも、ただあつし、を増幅させているような気がする。意味とイメージの上から言えば、髪の毛の暑苦しさはそれだけでインパクトがある。そういうところを言いとめたのはなかなかだ。でも、その暑苦しさのなかで、「籬」が暑さをぬけだす兆しになっていると、僕なら注釈を加えるかもしれない。

と思って、索引にあたるが、この言葉を使ったものは「籬の菊の名乗りさまざま」という「続猿蓑」の最初の歌仙中の里圃の付句と、「冬の日」第三歌仙の荷兮の「まがきまで津波の水にくづれ行き」という付句だけである。もっとも、この索引は「初句による索引」だから、「籬によれば」などのように中七のそれは探せばあるのかもしれない。それでも「籬」は「歌語」で「俳言」ではないから、その数はたぶん少ないだろうと予測はできる。木節の句の面白さは、俳言の暑さの中に雅やかな歌語を拉致し得たところにあるのではないか。「籬によれば」という文学の歴史が日常の中できらめくのである。あるいは沈むのである。

「現代思想」の5月臨時増刊号はボブ・ディランの特集号だった。僕が読んだ限りでは、どうしようもなく、あるいは、とんでもなくといってもいい、それほど面白かったのは瀬尾育生の「伝道者ディラン」というエッセイである。こんなに難解でラディカルなディラン論を読んだことはない。このエッセイのことではなく、このエッセイについてはその感想をいつか書くであろう。青山真治の「最も好きなディランの詩のフレーズは?その理由は?」というアンケートの回答を上の論旨に関係させてみたいのである。

青山は次のように回答している。

"Now you don't seem so proud about having to be scrounging for your next meal."(Like a Rolling Stone)
 突然、ポップス(現在)に歴史(大恐慌)の流れが押し寄せる瞬間。

俳諧も、けだし歴史(古典)の流れが押し寄せる瞬間を傷のように刻印しながら、それを越えて行く現在を、この社会のなかで打ち立てようとした芸術ではなかったのか。そういう意味でディランと同じ真のポップスであり、絶えざる流行のなかにいながら……。

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