七部集輪読の日(5月28日・土)
ぼくの発表。「猿蓑」の第一歌仙「鳶の羽」を読む。岩田氏は所用あって欠席。林氏とぼくのみ。いつもの会議室がとれなかったので、2階の和室。その半分は仕切ってあって、囲碁クラブのような集まりが使用している。碁石の音が気になったけど、次第に歌仙に集中していった。この巻は去来、凡兆、史邦、芭蕉先生の四名での興行。表六句を書いてみよう。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
股引の朝からぬるゝ川こえて 凡兆
たぬきをゝどす篠張の弓 史邦
まいら戸に蔦這ひかゝる宵の月 芭蕉
人にもくれず名物の梨 去来
このはじまりはやはり今までの歌仙(「冬の日」などの)とは違っている感じがする。去来の発句は芭蕉の、この集の巻頭句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」を受けている。発句の味わいは蕪村晩年の「鳶」図にきわまると安東次男は述べている(「芭蕉七部集評釈」)。「濡れに立ち向かう者の身を引き締めた風姿」を蕪村の絵は伝えて余すところがないという。その絵を背景に安東は去来のこの句を読む。発句の読みの姿勢が定まると、全体の読みも調整されるというのがぼくの経験だ。安東のおかげで蕪村の絵のイメージがこの歌仙のガイドとなった。格調の高さ、「さび」や「かるみ」、門外漢にははっきりと分からないながらも、ああこういうところだろうなという感触。なかでもいいなと思った句がある、それは去来の「火ともしに暮れば登る峰の寺」という長句など。この句が心に残っていた。
柳田國男は繰り返し俳諧の魅力について書いている。自分でも折口信夫などと一座して歌仙をいくつか巻いているのは有名である。彼が英国にいたころ(たぶん、国際連盟の委員としての仕事であろう)の話。
「大震災の時にはロンドンにいたが、家郷の音信を待つ間、その愁ひを忘れるために、西馬校本の七部集を携えて北の海岸を巡歴し、車中であの付合の大部分を暗記して来たのが、今でもまだ切れ切れに、寝らぬ夜の楽しみに残っている」(『俳諧と俳諧観』)と昭和24年ごろに書いている。3・11を経験した現在に照らして含蓄があって忘れがたい一節だ。
もう一つ『七部集の話』では次のように書いている。
俳諧、芭蕉についての本が「この頃」(昭和・戦後)までにあまりなかったということを述べたあとに、
「私などの場合をいふならば、明治32の末にホトトギス発行所から、俳諧三佳書といふ小形本が出たのを早速買い求めて猿蓑だけを読んだ。子規氏の解釈は主として発句をほめていたが、私などの楽しいと思ったのはやはり連句の方であって、たとへば、
火ともしに暮れば登る峯の寺
とか、又は、
茴香の実を吹落す夕嵐
とかいふやうな付句を、間もなく暗記してしまふほど吟誦したものであった。しかしこれがただ七部集といふものの一篇であることを知るだけで、…(中略)…十何年もしてから始めて西馬の標注七部集といふ二冊本を手に入れた。…(略)人を馬鹿にしたやうな、わかりきったことしか註釈して無いといふつまらぬ本だったが、それでも縁が有って今に持ち伝へているのみでなく、私はこれを携へて二年余り、西洋の諸国をあるきまはり、あの大震災直後の愁ひ多き数週間を、これにかじりついて暮らしていたこともおぼえて居る。今となっては棄てることのできない記念の書である。」
ここでも大震災のときに、七部集にかじりついて我が身を支えたというようなことが述べられているのが興味深い。これを引用したのが、柳田がまず覚えた付け句が去来の「火ともしに」であったこと、それが私の好きな句であること、その同一を「記念」せんがためでもある。どうでもいいことだが。ちなみに「茴香の実を吹落す夕嵐」も去来の付け句で、これは三名(去来・凡兆・芭蕉)の巻いた「猿蓑」第二歌仙「市中は物のにほひや夏の月」にある句。
柳田の先程の『俳諧と俳諧観』は寺田寅彦に捧げたオマージュのような文章だが、ぼくはこの文章ではじめて寺田が並々ならぬ俳諧・連句の鑑賞・批評家であり、また実作者であることを知った。「寺田寅彦随筆集 第三巻」(岩波文庫)を早速求めて所収の「連句雑俎」を読んだ。その面白さは最近のわが「愁ひ」を払うほどのものだった。連句俳諧を「寺田さんはあたり構はずに、これは西洋に無いから、日本独特だから大いに復興させようと言はれるのである。それを私は知らないばかりに、正面に立って拍手を送らなかったのが残念でたまらない」と柳田は書いている。寺田の、連句と音楽との対比には目から鱗が落ちる思いがした。寺田の「連句雑俎」の「一連句の独自性」の章から、
「…南洋中の島では一年じゅうがほとんど同じ季節であり、春夏秋冬はただの言葉である。ここでは俳諧はありえない。またたとえばドイツやイギリスにはほんとうの「夏」が欠如している。そしてモンスーンのないかの血にはほんとうの「春風」「秋風」がなく、またかの地には「野分」がなく「五月雨」がなく「しぐれ」がなく、「柿紅葉」がなく「霜柱」もない。しかし大陸と大洋との気象活動中心の境界線にまたがる日本では、どうかすると一日の中に夏と冬とがひっくり返るようなことさえある。その上に大地震があり大火事がある。無常迅速は実にわが国風土の特徴であるように私には思われる。」と書き、このことを知るには俳諧連句を読むに如かずという。
「試みに「鳶の羽」の巻をひもといてみる。鳶はひとしきり時雨に悩むがやがて風収まって羽づくろいをする。その姿を哀れと見るのは、すなわち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧が生まれるのである。旅には渡渉する川が横たわり、住には小獣の迫害がある。そうして梨を作り、墨絵を書きなぐり、めりやすを着用し、午の貝をぶうぶうと鳴らし、茣蓙に寝ね、芙蓉の散るを賞し、そうして水前寺の吸い物をすするのである。このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、また最も優秀なるモンタージュ映画となるのである」(昭和6年3月 渋柿)
寺田寅彦の連句論について書いてみたいと思っている。
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