羽生槙子さんの『花・野菜詩画集Ⅲ』(開成出版)を今朝読んだ。その絵と詩は、この世の地に根を下ろす「花・野菜」のみならず、生あるものすべてとの、常に更新される瑞々しく、まぶしい結びつきに満ちている。彼女は「いっしょに暮らしている人」羽生康二氏とともに、季刊詩誌「想像」を年4回発行されている。一番新しい号のナンバーは133号だから、単純に計算して33年にわたる詩誌である。その息の長さに驚くが、何よりもその内容のゆるぎなさに打たれる。それは権力や権威の強制や抑圧に抗して、一人の市民・人間として、それぞれが自立しつつ共生できる在り方を模索し鍛えてゆくものだと私は思う。私のもの言いは大げさに聞こえるかも知れないが、お二人の根本にあるものは槙子さんの詩集所収の次の詩からもうかがえるものと同じである。
冬になって 庭の柿の木の葉は残り少な
その中の一枚の葉が
散る間合いを測っている とふいにわたしにわかった
そう 微風が二度
三度目の微風で 葉は
枝からそっと手を離した ゆらゆらと
ゆったり やわらかに 地に載った
それは安心して眠りに入る形
柿の葉 なんてすてきなんでしょう
庭の草木はすべて神秘だと その時わたしにわかった
(「柿の木の葉」)
庭の草木に「神秘」を見る眼。「安心して眠りに入る形」を見守る眼。この眼を私も槙子さんから受け継ごうと思う。そして、「神秘」や「安心して眠りに入る形」を動揺させ、不安に陥らせる人の業、経済や競争の秤を見るだけの「眼」、それがもたらしたものこそ、この国の「原発」災害ではないだろうか。
わたしは年寄りになった。原発を何としてでも今、いったん全部止めてほしい。そして生きている間に原発を持たない国になることを求めて人々の間に議論が起こり、政治が変わるきっかけになってほしい。この春、野菜を作るかどうか、少し迷ったけれど、4月、庭にピーマンとミニトマトの種をまいた。
詩集の「あとがき」だが、私もこの希望を同じく持つ。それとともに、槙子さんの蒔いた野菜たちの命が傷つけられることなく育ち、われわれの命との新鮮なまばゆい結びつきをこれからももたらしてくれるように祈る。
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