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2012年4月1日日曜日

少年たち

二本松と会津に行ってきました。風景と人と酒と湯。沈黙のなかに深い思いを抱かせる場所でした。二本松では智恵子と光太郎の文学を越えた生のつながり、それと岳温泉のしんしんとした寂しさを感じました。二本松の霞ヶ城公園の頂にあるのが光太郎書の碑「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」。そこから初めて見る白雪を戴いた実際の阿多多羅山の美しさ。郡山から磐越西線で会津若松に向かってゆくときに車窓から見た磐梯山の雄姿も忘れがたい思い出になりました。会津では、飯盛山はとくに霊的なものを感じさせました。猥雑さも混じっているのですが、白虎隊自刃の記憶がすべてを覆っている、そこから産まれる寒々としたものに圧倒されました。二本松でも戊辰戦争で戦った少年隊の記憶が共有されていました。歴史の変わり目において変革の前衛というのではなく、その前衛たちの犠牲になったのが16、17歳の少年たちだったということを考えるとやりきれない気持ちになります。「佐幕派」として切り捨てられてゆく「寂しさ」、それだからこそ大勢にのみ込まれまいとする「矜持」、この二つのメンタリティが現代の福島の空間にも漂っているように思いました。近代の入り口での犠牲、高度成長の終焉の果ての原発事故による犠牲、もちろん、これら二つに限定して福島を考えることはできないでしょうが、日本歴史の変換のメルクマールとなる事件に集約的に身を曝している場所のような気がしました。

ブレヒトの『少年十字軍 1939』という詩を、白虎隊や二本松の少年隊と重ね合わせて思い出しました。1939年の戦火のポーランドを逃れ、平和の国目指して彷徨い、力尽きて死ぬ55人の少年(少女)たちの話です。飯盛山で自刃した白虎隊19名の「原理主義者」たちのように見える少年たちと、ブレヒトの描くヒッピーたちのように自由なコミューンを形成しているかに見える少年たち、その二つのタイプの少年たちに優劣の差があるのでしょうか。一方は過去(事実として)へ、一方は未来(創作として)へと意味づけられているのですが、両者とも挫折するのです。この二つの少年たちの在り方に思いを馳せることのできる想像力。それが今必要とされているのではないでしょうか。


ぼくには見えてくる、さまようかれら、
浮ぶ、眼をとじればまぶたの裏へ。
かれらはさまよう、けしとんだ農家の跡から
けしとんだ農家の跡へ。
空の上、雲のかげにも、ぼくには見えてくる
べつの、あらたな列また列が、はてもなく!
寒風にさからい、ようやっと足をひきずる
ふるさともなく行くさきもなく。
探してるのは平和な土地、
雷鳴もなく猛火もない
かれらが棄ててきたのとちがう土地。
列は大きくなる、しだいしだい……         
(ブレヒト「少年十字軍」より。野村修訳)

2010年5月18日火曜日

生還

43度の、たしか5年間沖縄の鍾乳洞に寝かせたという泡盛の古酒を下落合の杉原先生のところで、昔の同僚2名とともにご馳走になる。奥様のいつものフルコース(最後はおそばでした、たしかそうだよね)を満喫しながら、贅沢な時間を過ごす。ありがとうございました。杉原先生は79歳とは思えないほど、酔うほどに舌鋒鋭く、教育問題や、いつまでも成長しない、幼児のような、反省なき仇敵石原某都知事を切って捨ててくれた。溜飲が下がるにつれて、酔いの濃度は上がる。さすがに昔とは異なり、きちんと挨拶をして三名は帰宅の途にのぼったのであった。三名の一人は先輩、ぼくとKは同い年。久しぶりに杉原先生のところで、ところだから会えたのだろう。これが16日、日曜日の出来事。自宅に帰り着いたのは17日を過ぎていたが、無事生還。

2010年4月19日月曜日

上田夜桜紀行

景観保存地区の町並み

 
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亀齢酒造
 
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上田高校お堀の桜
 
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上田城大手門
 
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お城の夜桜1
 
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夜桜2
 
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夜桜3
 
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加舎白雄顕彰
 
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堀端の白雄記念碑
 
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前山寺の桜(以下、翌日4月18日)
 
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信濃デッサン館
 
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村の鎮守の御柱祭
 
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(4月17日、岩田さんと午後4時前の「あさま」で出発。上田まで一時間半。車中飲む、降りてからも上田城、居酒屋と彼の友人阿部さんをまじえて飲む。阿部さんの所で一泊する。翌日は、阿部さんの車で塩田平を抜けて信濃デッサン館にゆく。阿部、岩田の学生時代からの交友の深さに打たれた旅でもあった。ご両人に深く感謝する。)

2010年3月15日月曜日

2009年8月24日月曜日

It's nice here this morning!

今朝の空は、日本の秋の気配を思わせるどこまでも高く澄んだ青空だった。そんなに暑くもない。いつもの公園(ED.AUSTIN PARKという名前があった)の一周1.75マイルの散歩用、ウオーキング、ジョギング用に設けられている道をここ二日はジョギングもまぜて、4周した。かなりハードだが、自分が昔のようにジョギング(走る)できる自信というか、走る感覚を、ここアメリカで取り戻すことができたと思った。とても4周すべてを走ることはできないが、一周は走り、2周目は歩くことを繰り返す。息を切らして歩いているときに、颯爽と肩で風を切りながら通り過ぎた女性が、ぼくに向かってなにか言葉をかけた。挨拶なんだろうが、すこし長く感じた。ぼくはグッモーニンのつもりで、ウグッと返事をして、2、3分後に、その女性ランナーが実は”It's nice here this morning!”と言ったのだということを、美しい空をあらためて眺めながらはっきりと理解して、なんでもないその表現にとても感動したのである。

It's nice here this morning!

明日の朝、ここJACKSONVILLEを離れる。一ヶ月に及ぶアメリカ滞在も今日が最後の日となった。娘たち、その友人たち、またテキサスでお世話になった先生たち(Troy一家とはまた日本で交友が続く)に、今日の美しい青空とともに感謝の気持ちを捧げたい。

2009年8月22日土曜日

pain killer #3

二日目はナッソー(NASSAU)、Commonwealth of The Bahamasの首都である。英連邦の一員としてバハマはエリザベス女王を君主とする立憲君主制の国である。大小700あまりの島からなる、この国の首都がNASSAUで、ニュープロビデンス島という比較的小さな島にある。ここは掛け値なしに美しい。有名なハリウッド映画スターたちがこぞって別荘をここに所有するというのも嘘ではないということがわかる。ここでの一日は長い。船の出発は午後十時ということであった。私たちはヒストリカルツアーなるものに参加することにした。午前10時から2時間あまり。十名あまりの参加者で小さなマイクロバス程のタクシーに乗り合い、出発する。

(Queen's Staircase女王の階段 と呼ばれる場所)





(植民地時代の砦)


ほかにも回ったはずだが、疲れてしまい鮮明ではない。タクシーの運転手兼ガイドの流暢な説明には感心したが、さて私にそのすべてが理解できたろうか。船にもどり昼飯を食べて出直したのはアトランティスという一大リゾートホテルがある小さな島。船で行く。このホテルはカシノから何からすべてある巨大なテーマパークのようなもの。そこの水族館での写真。(先ほど亡くなったマイケルジャクソンがこのホテルのある階から上の部屋をすべて一泊何百万円かで
占拠?するようにして泊まった、というのが、これもまた船頭さんの口角泡をとばすような激しい英語の説明で耳に残ったことの一つではある。)

2009年8月21日金曜日

pain killer #2


すばらしい暑さだったが、頭がくらくらするので、レストランに入る。名前は忘れた。広場があって、そこでスティールパンを叩いてカリビアンミュージックを演奏している。盆踊りみたいだと言ったら、娘が激しく軽蔑したような表情をしたようだった。その盆踊り(リズムが全く違うでしょう!娘曰く)を聞きながら、ラム酒のカクテルを頼んだ。これが最高に素敵だった。

ほとんどの場合、ぼくはお店を選ぶ事や、そこに入ってからの飲み物、料理などを頼んだときに、すべてダメで、そういう選択にかけては最低の男であると人からも(特にFさんには)よく言われ、また自負していることでもあるが、なんとこの飲み物pain killer #2にかけて一切の過去の評判を覆すに足る自信を得るに至った事をここに披露したく思う。それほどすばらしい飲み物であった。そのレシピを以下に記す。

パイナップルジュース、クリームココナッツ、オレンジジュース、それにメインのパサーラム(pusser rum)、それにナツメグパウダー。濃厚で強くて(#2を頼んだわけではないのに、これが来た、3、4、5、とあり、パサーラムの度合いが強くなるものらしい)、これが日本のコップの五倍くらいの入れ物に入って出てくる。氷の量も程よい。一口飲んで、娘と顔を見合わせて、いいね、と同時に呟く。半分ほどでなにか気分が死んでもいいというような感じになるのだが、ウエイトレスのおばさんが何を間違ったのか、ぼくたちの座っているところに来て、ほかに注文は?といいながら、ぼくのグラスにさわり、落として割ってしまったのである。謝りながら、彼女はもう一杯フルに入ったカクテルを持ってきてくれた。もっと飲んでおけばよかった、と言って、また娘の顰蹙を買う。この酒には参りました。そとに出て免税(バハマはここはタックスフリーの地)店で、pusser rumを探したがなかった。そのかわり、これは島の酒といって何の憚りもないラム酒、RICARDO'S cocont rumの一番小さな容器に入ったものを3ドルちょっとで買った。船に持っていって飲もうと思ったのである。これも抜群においしかった。

2009年8月19日水曜日

pain killer #1



8月の13日から17日まで。娘と二人でバハマクルーズなる船の旅に出かけた。2千人をこえる乗客、今まで見たこともない巨大な船がジャクソンビルのセントジョン河をカリブ海へと出航したのは13日の午後4時過ぎだった。

Mデッキの244客室に行ってみると、ダブルベットになっている。娘がすぐさま、シングルに直すように言う。それだけが会社のエラーで、あとはすべて、ぼくたち乗客の心の持ちようで、すばらしい旅にもなるし、そうでもないとうようなものらしい。

船の中のエンターティメントについて、娘とぼくの評価は高校生の文化祭のレヴェル(彼女いわく、金次第だろうけど、つまりそういう船の格差もあるということ)。カシノには二人とも興味がなかったので行かなかった。宣伝に比してあまりね!というのが私の思い。でも、デッキなどでギター演奏と歌唱を一人でこなしているすばらしいミュージシャンもいた、フィリピン人が多かった、そんな歌手とは4泊もするのだから声を交わしたりした。ぼくに、なにかリクエストは?というので、My funny Valentineを、などと言うと、勘違いもはなはだしいという顔をしたが、最初のフレーズを弾いてくれた。

明けて、フリーポートに着く。船(fascination!)が停泊した港ではなく、そこからタクシーでLUKAYAというビーチに行く。中国系の資本がここにも入っていて、買収された大きなホテルがある。その周辺に地元の土産物屋とレストランが群がっているという構図である。コバルトブルーのとしか言いようがないのだが、海と砂浜の白がどこまでも広がっている。パラセイリングというのか空には凧状のものがボートに引かれてまぶしそうに飛んでいる。あとで、帰りのタクシーでまた一緒だった白人のおしゃべりなオバサンが、私もやったと自慢そうに言うのに驚いた。あたりまえだが、彼女たちはこのクルーズをenjoyするのだという気力に満ちている。何事もあまりうまく楽しめないぼくには羨ましいかぎりだ。