ブレヒトの詩に、―老子出関の途上における「道徳経」の成立の由来―という長いタイトルの詩がある。その註釈をベンヤミンが書いている。この註釈とそれに方向付けられた原詩を私は心腐るとき、くじけているときに読むことにしている、というより今日あたりからそうしようと思ったのである。
「史記」の老子出関の話を下敷きにしたこの詩は、ベンヤミンによると、「友情」(フロイントリヒカイト)の持つブレヒト詩における特別な役割をしめすものだという。ベンヤミンはこの詩のテーマを「友情」に見ているといっても過言ではない。
老子と国境の役人、貧しい税関吏との友情。そして、この友情を支えるのは明朗とした、屈託のなさ、ハイターheiter(iはこの字ではないけど)である。このハイターという特質が、老子と老子に教えを書き残して欲しいと乞う税関吏の二人の人間性を支えている好ましいものである、そういうふうにベンヤミンは註釈する。老子の家僕である少年の気質もそうだと、ベンヤミンは言う。「屈託の無さ・ハイター」という言葉の響きは、私にはベンヤミンという批評家が終生望んだ生の「理想」の響きとして聞こえる。
供をしている少年は、税関吏に自分の主人のことを、「この人は教えを説いて生活してきたんだ」と説明する。だから課税されるような貴重品はないというわけだ。それは嘘ではないことが税関吏にはよく分かったのだ。その次のパートから原詩を引用してみよう。
5
だが税関吏の男は、屈託のない(ハイター)調子で
なおも尋ねた、「どういう教えを悟ったというのか?」
少年は言った、「動いているしなやかな水は
時が経つとともに強大な岩にさえ打ち勝つ。
いいかい、堅固なものが負けるのだ」。
6
昼の最後の光を失うまいと
少年はいま牡牛を駆り立てた。
そして少年と牛と老師はすでに黒松のところを回って姿を消した、
そのとき突然、我らが税関吏のうちに興奮が兆し、
そして彼は叫んだ、「おーい、お前!止まれー!
7
あの水というのはいったい何なのですか、老師よ?」
老師は牛を止まらせた、「そのことに関心があるのかな?」
男は言った、「私は一介の税関役人でしかありません、
しかし、誰が誰に勝つというのは、私にも興味があります。
知っているのなら、話してください!
8
どうか書き記してください!この少年に口述してください!
そういうことはやはり、持ち去るものではありません。
私の家には紙だって墨だってあるのですから、
それに晩飯だってあります、私はあそこに住んでいます。
ところで、それはひとつの言葉なのでしょうか?」
9
老師は肩越しに男を
見た。継ぎの当たった上衣。裸足。
そして額に一本の皺。
ああ、勝者が老師に歩み寄ったのではなかったのだ。
そこで老師は呟いた、「お前も?」
10
礼を尽くした願いを断るには
老師は見たところ年をとりすぎていた。
というのも、老師ははっきりした声で言った、「問いをもつ者は
答えを得るに値する」。少年は言った、「それにもう冷えてきています」。
「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」。
こうしてあの偉大な81章から成る「箴言」の書が完成したというようにブレヒトは書き、ベンヤミンはそれを、「老子道徳経」を、友情が成立させた書物というふうに、そう夢想することを楽しむかのように、ベンヤミン自身もなんの屈託もなく(ハイター)註釈する。それを読むわれわれ、ベンヤミンの悲運を熟知している後生たちは、ここに生の励ましを得なければなにを得るというのか。
ベンヤミンは次のように書いている。
まず第一に、友情は無思慮に働くものではない、ということ―(9連を引用したのち…水島註)税関吏の願いがどんなに礼を尽くしたものであれ、老子はまず、願いをなす者にその資格があることを確認するのである。
第二に、友情の本質は、小さな親切を片手間になすところに、ではなく、きわめて大きな親切を、それがごく些細なことであるかのようになすところにある、ということ。老子はまず、問いを発し答えを求める資格が税関吏の男にあるか、それを確かめたあとで、この男を喜ばせるために旅を中断して、それに続く世界史的な何日間を提供するわけだが、その際のモットーはこうである―
「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」。
私は、この「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」という老子の屈託のない簡潔な言葉に、この世の友情や、師弟愛や、総じてコミュニケーションの原基を見る。
こういう話をもどかしく、先日友人に、夜の、もう終電近い電車の中で話し続けたのである。その日は財部鳥子さんの話を聴き、そのあともビールを飲みながら親しくこの敬愛する詩人と雑談を交わすことができた。そのときの印象が、まさに明朗とした「屈託のなさ」というものであった。対話していると、私の憂鬱など一刷毛で消えてしまう、そういう感じ。その思いが、この詩とベンヤミンを想起させたのかもしれない。友人は電車の中で、私の話を静かに聞いてくれた。そして、次のようなドイツ語を、若いときどこかで見たといって、私の手帳に、「屈託なく」書いてくれたのであった。
Leben ist ernst,
Kunst ist heiter.
人生はまじめ、真剣、芸術は明朗、屈託がない。
3 件のコメント:
秋も深まり、もの思う季節にふさわしく、
良い物語(老子)と良い詩(糞尿の丘)を
読ませてもらいました。
私は昨日、笠間というところに行って、
やきものや西洋画を沢山見てきました。
大学の授業も始まってお忙しそうですが、
是非また一杯、いやイッパイ飲みましょうね。
うれしいです。
先ほどまで、お猿とひさしぶりに飲んで今帰ったところです。
今朝私は気づいた。
小松兄よ、許されかし。駒場兄と取り違えて前のコメントを書いたことを。おサルなどといわれてはなんのことか分からなかったでしょう。あれは駒場兄との共通の知人。
小松兄よ、でもありがとうという気持と、飲みたいという気持には変わりはありません。
秋のすがすがしい天気です。笠間もいいところですよね。
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