あまり、特筆すべき傑作はなかった。
授業では、「出会い」の②ということで、ル・クレジオと岩佐なをとブコウスキーについて話した。ル・クレジオにおける「パナマのエンベラ族」との「出会い」、岩佐における「霊的、彼岸的なるもの」との「出会い」、ブコウスキーにおける「日常」との「出会い」などについて話した。
ところで、ル・クレジオのノーベル文学賞受賞のお祝いに、10月11日の朝日新聞に、今福龍太が書いていた。
とりわけ七十年代初頭にはじまるパナマ・メキシコ滞在とそこでのアメリカ大陸先住民との決定的な出会いが、彼の小説のヴィジョンと文体を大きく変容させた。水、太陽、大地、風といったエレメンタルな自然物の示す凝縮された宇宙をまるごと抱きとめ、それを文明社会における調和的な生の枯渇に対置させた。子供、先住民、移民、女性といった周縁的存在への繊細な共感と感覚的浸透の強度は、現代作家のなかでも例外的にきわだっている。激烈な世界化の波のなかで、西欧的理念に背を向ける少数者の世界を支持しつづける彼は、ある意味では反時代的な作家の極北に位置するともいえるだろう。
自然界の豊かな静寂と、人類の古い叡智のかすかな持続の声だけに耳を澄ませてきたル・クレジオの体内の静謐な海。それが彼の小説言語の源泉だ。受賞による喧騒によってそれが一時的に波立つことがあっても、彼の海はすぐにも平静な群青の拡がりをとりもどすことだろう。
まさにそうだし、こうとしかいえない捉え方である。そういう意味で、ル・クレジオの06年の訪日のときの世話人(多分)でもあり、彼を奄美や北海道のアイヌの森などに連れていった知己の言葉であろう。
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