2008年11月23日日曜日

Separation

Separation     by W.S. Merwin

Your absence has gone through me
Like thread through a needle.
Everything I do is stitched with its color.

William S.Merwin(1927- )というニューヨーク生まれで、今はハワイに住んでいるという詩人の、Separationという短い詩を見つけた。義父のあまりにもあっけない死が信じられずにいる。葬儀も昨日で終り、今日は女房と二人で、なにをすることもなく一日中家にいた。


別れ

あなたがいないということ、そのことがわたしを貫いてしまう
針の穴を貫く糸のように
わたしのなすすべてが、あなたの不在の色で縫い合わされる

2008年11月20日木曜日

wake

義父の通夜。八王子のサン・ライフで。

すべて親族者のみの出席。むべなるかな、97歳という年齢、そして東京への移住。

木村和史に受付を頼む。

明日は告別式、そして焼き場へ。

―ひとつの死があらたな生を開いてくる、そういう
死を、父たちが死んでくれるように―

2008年11月19日水曜日

義父の死

百歳までは大丈夫、不死身と思っていた義父(97歳)が、昨晩の8時半に死んでしまった。いつものように、三名プラス猫一匹の夕食、そのときの義父はすべてを完食した。いつものようにnhkのつまらないニュースを見て、国谷さんのクローズアップ現代の、ジョセフ・ナイが出たオバマの特集を見る。義父は、オバマ、オバマなどとうれしそうに叫び、翻訳される文字を読んでいた。ぼくは二階の勉強部屋に行く。そのうち女房がぼくを呼ぶ。娘は父が、おかしいという。痙攣のようなものを起こしたので、車椅子の父を父の部屋に連れて行った。そこで、ぼくを呼んだのだ。父がぐったりしている。抱いてベッドにうつす、苦しそうにわめく。「お父さん、お父さん」と言って手を握る。舌がだらんと出るような感じ。横にする、だいじょうぶですか、静かに、静かになる、安らかな顔、そのまま答えない。死んだのだ。この、あっけなさ。

義父のかけがえのないたたずまい、静かで決して声をあらげたことのない人だった、勤勉そのものの明治男、
愚痴をいわない、義父のすべてが、今までぼくを生かしてくれたのだと今になってぼくは思う。思えば、長い長い付き合いだった。義父はぼくに碁を教えてくれた、ぼくらは結局何局碁を打ちましたか?お父さん!数えきれないですよね。ありがとう。

2008年11月17日月曜日

そこのみにて光輝く

昨日、西荻窪の古書店のネットワークみたいなもの、Nishiogi Bookmark主催で行われているイヴェントの第27回目というが、「そこのみにて光輝く―佐藤泰志の小説世界―」というものに参加した。1990年に亡くなった佐藤泰志の小説の好きなものたちだけが集ったというようなintimateな集まりだった。福間健二の、文壇ジャーナリズムと泰志の作品の関係、泰志の病と医者との関係、それをどうとらえるかが泰志の伝記を書く上でのアポリアだという話は切実だった。泰志の友人代表として木村和史も話したが、泰志に絶交を宣言したこともあるという話だった、彼の泰志を大きくとらえて離さない視点の暖かさは独特のもので、福間の話ともども心に残った。それから佐藤泰志の作品が世に埋もれることを憂い、泰志の作品はだれかがきっといつでも読みたくなる作品であるということを信じて、分厚い『佐藤泰志作品集』を昨年出した、今時珍しい、志の出版人、クレイン社の代表である、文 弘樹さんの話も素敵だった。岡崎武志さんの軽妙な司会もよかった。泰志の遺児で長女の方も来ていた。その話は一番衝撃的だった。作家としての父の存在、父の作品、そして父の自裁の意味、それらは現在、彼女がたどりつつある物語のようでもある。

そのあと9時から福間健二監督の映画『岡山の娘』のレイトショー。東中野のポレポレ。ここは何回か行ったことがある。福間のこの映画は始めて観た。和史と一緒に観る。これまでにいろんな情報も耳にし、監督当人や出演者の何人かもよく知っているのだから、初めて観たような気はしなかった。佐藤泰志の長女と、この『岡山の娘』の娘さんをどこかで重ねて観ている自分に気づいた。二人とも、世俗的には、だらしない、どうしようもない父親をもったが、そこから逃げるのではなくて、どこかでその父親のだらしなさも含めて、もっと言うなら、旧式の彼らの虚勢や弱さを、あえて背負って恥じない「若さ」の質、新しい若さとでもいうべきものを、この二人は自然に湛えていたのである。そういうことを感じた。また映画に先立って行われた、若松孝二監督と福間のトークショーもよかった。私は初めて若松孝二という稀代の反権力のカリスマのような監督の謦咳に接して、いやただマイクを通してその声を聞いたに過ぎないのだが、すっかり好きになってしまった。それは、今までの文脈にからめて言えば、泰志や『岡山の娘』の父たちとは截然と異なり、インテリではなかったからだ。乱暴な言い方かもしれないが、若松監督の佇まいがしめすのは、日々の労働そのものに打ち込むこと以外なにも考えない人間のあり方だった、そういうあり方を、実は泰志の小説も、福間の映画も求めていたし、もとめているのではないだろうか。

2008年11月14日金曜日

お生憎さま、すべて幻

 立教大7回目の授業。今日は吉増剛造さんのエッセイと詩について喋る。その「激しさ」と静かさなど。次回の課題は「過激な詩を書く」というもの。

 前回の課題は、アクロステイックなど、すこし「仕掛け」のある詩ということだったが、結構いろんなものが出された。ビジュアルなもの、あいうえお唄、アクロステイックが多いが、そのなかでもっと複雑な沓冠、など。沓冠は一編だったが、判じ物だが、これはしぶい傑作である。

 
 
ある一生

落ちて生まれた我らは確か、無二の愛子
愛想尽かされたが故の、この隘路。
いまだ我らは、悲しき蜻蛉
憎み憎まれ、互いに悪玉
苦しみの恋は徒花と説いて
寂しくくっ付き、枯れる雄蕊と雌蕊。
廻り廻る、永遠の回転木馬なのです。


 

2008年11月2日日曜日

Where are we?

 
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アメリカの友人Troyにブランチに招待されて、座間キャンプに行く。ところが、女房だけ、要求された写真付きのIDカードのようなものがなかったので、これは頓挫する。息子と僕は免許証があったけど。それにしても、このわけのわからない厳重な警備よ。しかも日本の屈強な自衛官が警備しているのである。ライフルを持ち、写真付きのカードかなにかなければダメだというのである。招待した友人夫婦は、ぼくらのことを説明して通してくれというようなことを言ったけど、決まりだからだめだと突き放された。日本の自衛官がそういうのである。普通の日本の主婦で、運転免許など持たないものが写真付きのidカードなど持っているはずはない。女房は健康保険証を差し出したけど、だめだった。

ということで、そこでのブランチはやめにして、引き返して、友人たちの娘(日本の小学校の4年生に通わせている、基地の近くで、他にも基地のなかから通っている子供たちもいる)が好きだという、一軒の回転寿司屋で友人一家3名、ぼくら3名で食べた。おいしかった。

そのあと、友人たちの家、これは座間キャンプとは異なり相模原駅のそばの一角にある。しかしここにも警備の自衛官がいた、さきと違うのはアメリカ人の警備兵(MPか?)もいたことである。日本人はしぶっていたが、アメリカ人のはからいで、女房もokとなり、やっと居住区のスペースには入ることが出来た。友人たちの計画によれば、ブランチのあと、ここでビールを飲みながら談笑するということだったのである。ベースの豪華なブランチは食いはぐれたが、友人の家(この8月に彼らはテキサスからきた。ヴァネッサ、これは友人の妻だが、国防省の仕事に応募して、基地の学校のカウンセラーになったため)でのビールやバネッサが作ってくれたスコーンなどを味わうことができたのである。そして、この写真は彼らの家のある空間である。全く別の国、日本の喧騒もなにもない。大樹が茂り、清澄な空気が秋の空を漂う。

なつかしいテキサスの地ビール、Shiner BOCKを飲み、マドリン(娘の名)の弾くチェロを何曲か聴く。

そして友人たちのここでのこれからの幸福を祈りながらも、この家の電気代や光熱代、家賃のすべてが無料であることを思うと、その思いやりのすごさに、わが日本の政権のどうしようもない馬鹿さをあらためて考えざるをえなかった。貧乏なぞは、サブプライム問題なぞは、どこ吹く風?というような空間だったが、ヴァネッサが帰りに送ってくれた車の中で言うには、イラクにゆく兵士の子供たちもここにはいるということだった。

 
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