昨日は女房と三崎漁港まで行ってきた。悲しくなるような快晴の空。十時半、片倉を出て、横浜で京急に乗り換えて三崎口に着いたのが一時前だった。そこからバスで漁港まで。去年の八月に新井さんがこの駅でFとTとぼくの三人を迎えてくれたのを思い出した。
バスのなかも結構な人の数だったが、漁港に着いて驚いたのはもっと数多くの観光客が有名無名のマグロ料理のお店の前を行ったり来たりしていることだった。漁港の「うらり」という、道の駅みたいな、ここでは海産物だが、その大きな販売所も開いていたし、海をめぐるようにして点在するお店のほとんどは正月の2日というのに、みな開いていて、しかも満員の状態だった。比較的、人が並んでいないお店で、遅い昼飯を食べた。もちろんマグロ料理のランチというもの。単純においしかった。
そのあとに、地元の「海南神社」に参詣した。初詣は産土の神に参るのだろうが、ぼくらみたいに、もうどこが故郷なのかわからなくなった離散者(ディアスポラ)には、むしろ旅先の神に参るのがふさわしいとも思う。交通安全のお守りやらなにやらを買った。海の神ゆえに交通安全、自動車の危難を避けうるのだろうとも思った。
商店街の軒にアロエの花が咲いている。漁港から離れた商店街を歩く、うって変わってさびしいほどの静けさである。ゴムの大きな樹や観葉植物の域を越した、これまた巨大なゼラニュームのある通りに出た。去年の八月に新井さんに連れられて、この通りのお店で食べて飲んだのだった。奥に行けば行くほど、正月の漁村の静かなたたずまいを感じさせられることはわかるのだが、ぼくらは海港にもどり、子供たちの喜ぶ、海中の魚を見ることのできるという船に乗ることにした。子供もいないのに。「にじいろさかな号」の船底から見た、メジナやタイたち、彼らも船上から撒かれた餌などに引き寄せられて船に近寄って来るのだが、水陸両方の変わらぬ生活の困難さを思うと、いや思いはしなかったが、なにか悲しい気持ちになった。空のまぶしい青と冬の海のなにかをたたえて、たたえきれないという風情の青。
漁港への帰途の船の中から見た富士のシルエットは美しかった。ぼくは太宰治の『富嶽百景』が好きだが、若い時のような過剰な感情移入なしで、はじめて目に映った富士のシルエットはこれだと思ったりした。こんなもんだ。
3 件のコメント:
三崎口、去年夏に行って私もほんとにいいところだと思いました。
今日は突然ご馳走様になってしまいありがとうございました!
今度お会いできたときは、私が、というより、私の連れにおごらせますから!
(ちなみに、見るからにガテン系は、たまたまですが、ブログと一緒にやめました。)
ちょうど大晦日の晩に実家に居たら、オヤジが突然、私に「三崎口まで幾らかかる?」と訊ね、その足で出かけてしまいました。
元日の昼過ぎに帰ってくるまで随分と気を揉んだものの、ケロリとした顔をして「いや、風もなくて穏やかだったよ」と話す姿を見て
安心をしました。
このブログを読み、ふとコメントしたくなりました。
昨夏からご無沙汰していますが暮に八王子で旧交を温めたり何とか元気にやっておりますが片倉の養老の滝や相原の立飲み等も懐かしく思っております。
お二人、書き込みありがとう。
K.tさん、久しぶり。またぜひ飲みましょう。
hirokoさん、楽しかったです、おいしかったです。
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