2009年4月9日木曜日

山辺の桜


春だにもありへし花の都をも散りぬと聞けばあくがれぞ行く(輔尹集)
里はみな散りはてにしをあしひきの山の桜はまだ盛なり(躬恒集)
桜花咲ける尾上は遠くとも行かむかぎりはなほ行きて見む(躬恒集)


誰しかも求めて折りつる春霞立ち隠すらむ山の桜を(古今・春上・貫之)
桜花咲きにけらしなあしひきの山のかひより見ゆる白雲(同・貫之)
み吉野の山辺に咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける(同・紀友則)

C
やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花さかりはみな過ぎにけり。山の桜はまださかりにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまもならひたまはず、ところせき御身にて、めづらしう思されけり。(源氏物語・若紫)

こうやって並べてみて、AからCへと、古今以前、古今集、源氏物語へと何かが流れて総合されている感じがする。Aの歌にある「あくがれ」、Bの歌にある霞と桜の取り合わせや、古今典型の「見立て」などの定着を経て、源氏の表現を生み出している。この表現は、18歳の源氏の「あくがれ」を北山の春の桜花の美と重ね合わせ、この景色と季節が彼の鬱屈を解放させ、そして「若紫」の発見へと導いてゆくように語られる。若紫、冒頭部のこの歩み、「入りもてゆくままに」という歩みは、源氏を日常から異界へと引き連れてゆく歩みである。

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