昔、男、初冠して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。 思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。
春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れ かぎりしられず
となむ 追ひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやき みやびをなむしける。 (第一段)
「初冠」の段である。「昔男」と「業平」は、この段の造形を通して、必然的に結ばれていくのだろう。その基にあるのは歌である。「いちはやきみやび」とは相手を押し倒すことでもなければ、もちろん裸になって憂さをはらすことでもない。「はげしいみやび(風流)」という意味である。「追ひつきて」はこの表記では、すぐに、間をおかず、という意味になるが、「おいづきて」ととって、経験をつんだ大人みたいに、と解釈する説もある。この段と「源氏物語」の「若紫」の巻との関係も興味ある話柄だが、それはさておいて、かぎりなく魅惑された古都であり男の故郷でもある所に住む姉妹に対して、わが心の惑乱を、昔男は「しのぶの乱れかぎりしられず」と言い、切り裂いた「信夫摺り」の自らの衣の裾につけて「いとなまめいた女はらから」に贈る、そのことで自らの魅惑された心の錯乱を完璧に形象化するのである。それが「みやび」ということである。
こんなことを書くのは、昔男ならぬ今の自分の心を静かにさせたい、落ち着かせたいからにほかならない。ふわふわして放心している心、魂が抜けだしてしまって、どこに行ったかもわからぬようなこの身体、「伊勢物語」のこの段を声に出して読むと、落ち着くような気分がする。乱れの果てに若紫の可憐な白色が浮かぶからだろうか、それとも「みちのくの」と始まる古歌のささやきが膨大な過去を揺り動かし、その魂(タマ)が私の身体に入ってくるかのような錯覚を起こすからだろうか。
とても強い情熱がとても繊細なもの思いの歌に包まれる。その秘密。その「心ばへ」。
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