とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の初やおくの田植うた
無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られ、ものに書付侍る。其詞、
栗といふ文字は西の木と書て、
西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生
杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
須賀川の項を全文引用したのは、ここが好きだからという簡単な理由。裃をつけた全力投球の挨拶句という感じがする「風流の初やおくの田植うた」(これを出すために、白河での沈黙があったわけだ)よりも、拾遺的に書きとめられた後半部のアダージョの調子(詞書きがとくに好きなのだ)で書かれた「大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧」の話に惹かれる。これを読むと、「栗」という字を一生忘れることができなくなる。また「軒の栗」というモチーフが隠者のシンボルめいて表象されるのは歴史があるのだろうが、それはさておき、私はこの場面を描いた蕪村の絵の虜でもあることを告白しよう。芭蕉たちは元禄2年4月22日~29日までここに滞在した。
与謝蕪村筆「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
(隠者可伸と栗の木)
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