○ほとゝぎすなくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもする哉
これを本歌とする、新古今、
○打しめりあやめぞかをる郭公(ほととぎす)鳴くや五月の雨の夕ぐれ
「摂政太政大臣(藤原良経)」
を引いて「このあやめは現在いうところのあやめではない。現在のあやめは植物学的にはアヤメ化の 渓蓀(あやめ)、対する古歌のあやめはサトイモ科の菖蒲のこと。花は渓蓀にくらべておよそ地味で、云々」とある。また、ここでいう菖蒲と現在の花菖蒲(今咲いている)とも違うようだ。現在の花菖蒲は大ぶりで鮮やかな色が多いが、これは品種改良が重ねられてこうなったのだろうと思う。高橋さんは「近世では現在のアヤメとハナショウブとを厳密に区別せず、場合によってアヤメともハナショウブとも呼んだようだ」と言う。ハナショウブは今のハナショウブのことだろう。これを書いているATOKの変換では、「あやめ」とうつと「菖蒲」という漢字も用意されているから、この混同は相当なものにちがいない。大辞林も「何れ菖蒲か杜若」とあり、あやめ、と読むのである。こう書いていると自分でも訳が分からなくなってくる。疲れて顎がはずれそうだ。次の詩も高橋さんの同じコラムで知ったもの。
顎 井伏鱒二『厄除け詩集』より
けふ顎のはづれた人を見た
電車に乗つてゐると
途端にその人の顎がはづれた
その人は狼狽へたが
もう間にあはなかつた
ぱつくり口があいたきりで
舌を出し涙をながした
気の毒やら可笑しいやら
私は笑ひ出しさうになつた
「ほろをん ほろをん」
橋の下の菖蒲は誰が植ゑた菖蒲ぞ
ほろをん ほろをん
私は電車を降りてからも
込みあげて来る笑ひを殺さうとした
― 橋の下の菖蒲は誰が植ゑた菖蒲ぞ
ほろをん ほろをん
という二行の「菖蒲」は花菖蒲だろう。花菖蒲をよく観察すると、はずれた顎にみえなくもないからだ。―
と高橋さんは書いている。井伏はルビを振っていないので「菖蒲」があやめか菖蒲かわからないが、「花菖蒲」というふうに睦郞さんは書いておられる。その理由は花菖蒲が「はずれた顎にみえなくもないからだ」。これがこのコラムの閉じめ。この文章自体が最後は井伏の厄除けと同様に、邪気祓え、水無月の祓えのような終わり方になっていて、さすがは高橋睦郞と言いたいが、もう少しこれらの花の異同をわかりやすくと思うのはおねだりのしすぎか。
井伏のこの詩の全文を「厄除け詩集」で読めたのも、このコラムの誘いのせいだった。感謝しよう。二連目の三行の転換がとてつもなく面白い。忘れそうもないオノマトペだ。
金曜日の遠足で、香取神宮も、鹿嶋神宮も「茅の輪」がこしらえてあったのを見た。左足から入って右足から出ることを三度繰り返し、次の歌を唱えなさい。水無月祓にはまだ早いが、すませてきました。
○水無月の夏越の祓する人はちとせの命延ぶといふなり
(香取神宮)
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