2009年6月6日土曜日

鳰鳥のすだくみ沼

 6月になった。2日(火曜日)、福間健二と相原の立ち飲み屋「毎度」で6時半頃から飲む。彼は最近は京王線で帰っているので、この横浜線はあまり使っていないというこ。久し振りに相原途中下車の立ち飲みの味。TOLTA作成の『トルタの国語』という傑作・怪作「国語テキスト」を貰う。TOLTAのメンバーであり、ここで「詩のセンター試験」という超絶的な詩の読解を試みている南谷君からぼくに渡してくれと頼まれたということで三冊も素晴らしい雑誌(詩誌とよんでもいいのだが)を貰ったのである。南谷君ありがとう。さて、福間さんと会ったからには「毎度」で済むはずがなく、八王子の「ティノ」に寄り、たぶん最終でお互いに帰ったのであった。痛快な夜だった。
 この TOLTA作成の『トルタの国語』については、稿を別にして感想文を書きたいと思う。読む前から、妙な言い方だが、絶対に面白いという予感がする。寄稿者にしても今一番ひりひり?している(させる)連中である。眠っていてはおられないのだが、あとで別に詳しく書くつもり。

 3日、二日酔いの気配を秘めつつ、山の上の学校で午前中4時間の連続で授業。いつのまにか昨晩の酒もすっかり抜けていた。

 4日、某所で小町谷照彦先生の源氏講義を聴く。「若紫」を読んでいる。この日は、源氏が引き取りを乞う若紫の「幼さ」のシンボルとして尼君が持ち出し、まずは拒否の姿勢を見せるときに「まだ難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれば」という、この「難波津」の歌、そのあとに源氏が自分の若紫への思いは決して浅くはないというときに「あさか山あさくも人を思はぬになど山の井のかけ離るらむ」と歌のほとんどを占める「あさか山」の歌についての話が印象に残った。この2歌については「古今和歌集序」に、
 
   難波津の歌は、帝の御始めなり。<大鷦鷯帝の難波津
   にて親王と聞こえける時、東宮を互ひに譲りて、位に
   就きたまはで、三年になりにければ、王仁といふ人の
   いぶかり思ひて詠みてたてまつりける歌なり。この花
   は梅花をいふなるべし>。安積山の言葉は、采女の戯
   れより詠みて、<葛城王を陸奥へ遣はしたりけるに、
   国司事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、
   すさまじかりければ、采女なりける女の土器取とりて
   詠めるなり。これにぞ王の心とけにける。安積山影さ
   へ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは>。この二
   歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人の始めにもし
   ける。
と説明されている。2歌が「歌の父母」であるという言い方はここに出て、この日に読んだ源俊頼の『俊頼髄脳』にも「これ二つは、歌の父母として、手習ふ人のはじめとして、幼き人の手習ひ初むる歌なりと、古き物にかけり。」と「古今・序」を指して言っている。
難波津の歌は「難波津にさくやこの花冬ごもり今ははるべとさくやこの花」。去年(2008年)紫香楽宮跡から発掘された木簡は確か「あさか山・安積山」と同じ歌だったのではなかったか。源俊頼の『俊頼髄脳』と藤原俊成の『古来風体抄』。浅香山の歌の伝承形態として、これらとは全く別の話を伝える『大和物語』155段の哀切なエピソードなどを読んでいると、時間感覚がうしなわれてしまい、この後に雑踏の町に出ると、自らが9世紀、10世紀、あるいは王朝の人物であるかのように思われて、距離がしばらくとれない。むしろそういう自分を、そう思う自分を、そうでない自分よりもできるだけながく存在せしめたいと思う。
 5日、朝日朝刊別冊(be on Saturday)の高橋睦郞さんのコラム「花をひろう」は「杜若」だった。そのなかに、「かきつばたの語頭が垣に通じることから平安時代以後はしばしば恋含みの隔ての心持ちをこめて詠まれた」と解説があり、紀貫之と源俊頼の歌が紹介されている。順に。

  君が宿我が宿わけるかきつばた移ろはぬ時見る人もがな
鳰鳥のすだくみ沼の杜若人隔つべき我が心かは
  
 6日(土曜日)、今日の朝日夕刊に光森裕樹という30歳の歌人の歌が載っていた。そのなかの印象に残った歌。

  花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへは知らず思春期

 この歌をうるさい歌論家だった源俊頼ならどう批評するだろうか。どういう「歌病かへい」と論ずるだろうか。試みに二首を並べてみる。

  鳰鳥のすだくみ沼の杜若人隔つべき我が心かは
花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへは知らず思春期 

「我が心」と「思春期」を飾る句の中身の違いはあれ、この形式の完璧に自若たる様は両歌の880年余りの時の隔たりを感じさせない。私は光森の歌の批評をしているのではない。歌の時間と空間の巨大さを今更ながら味わっているだけだ。日本語のというべきか。

今晩、インターネットのラジオでジャズボーカルを聴きながら、書いていた。ぞくっとするような少女の声が聞こえてきた。Nikki Yanofskyというカナダの天才少女、現在は15歳、7月ころ来日公演もあるようだ。12歳の初々しい、スイングしなければ意味がない、

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