2009年8月24日月曜日

It's nice here this morning!

今朝の空は、日本の秋の気配を思わせるどこまでも高く澄んだ青空だった。そんなに暑くもない。いつもの公園(ED.AUSTIN PARKという名前があった)の一周1.75マイルの散歩用、ウオーキング、ジョギング用に設けられている道をここ二日はジョギングもまぜて、4周した。かなりハードだが、自分が昔のようにジョギング(走る)できる自信というか、走る感覚を、ここアメリカで取り戻すことができたと思った。とても4周すべてを走ることはできないが、一周は走り、2周目は歩くことを繰り返す。息を切らして歩いているときに、颯爽と肩で風を切りながら通り過ぎた女性が、ぼくに向かってなにか言葉をかけた。挨拶なんだろうが、すこし長く感じた。ぼくはグッモーニンのつもりで、ウグッと返事をして、2、3分後に、その女性ランナーが実は”It's nice here this morning!”と言ったのだということを、美しい空をあらためて眺めながらはっきりと理解して、なんでもないその表現にとても感動したのである。

It's nice here this morning!

明日の朝、ここJACKSONVILLEを離れる。一ヶ月に及ぶアメリカ滞在も今日が最後の日となった。娘たち、その友人たち、またテキサスでお世話になった先生たち(Troy一家とはまた日本で交友が続く)に、今日の美しい青空とともに感謝の気持ちを捧げたい。

2009年8月22日土曜日

pain killer #3

二日目はナッソー(NASSAU)、Commonwealth of The Bahamasの首都である。英連邦の一員としてバハマはエリザベス女王を君主とする立憲君主制の国である。大小700あまりの島からなる、この国の首都がNASSAUで、ニュープロビデンス島という比較的小さな島にある。ここは掛け値なしに美しい。有名なハリウッド映画スターたちがこぞって別荘をここに所有するというのも嘘ではないということがわかる。ここでの一日は長い。船の出発は午後十時ということであった。私たちはヒストリカルツアーなるものに参加することにした。午前10時から2時間あまり。十名あまりの参加者で小さなマイクロバス程のタクシーに乗り合い、出発する。

(Queen's Staircase女王の階段 と呼ばれる場所)





(植民地時代の砦)


ほかにも回ったはずだが、疲れてしまい鮮明ではない。タクシーの運転手兼ガイドの流暢な説明には感心したが、さて私にそのすべてが理解できたろうか。船にもどり昼飯を食べて出直したのはアトランティスという一大リゾートホテルがある小さな島。船で行く。このホテルはカシノから何からすべてある巨大なテーマパークのようなもの。そこの水族館での写真。(先ほど亡くなったマイケルジャクソンがこのホテルのある階から上の部屋をすべて一泊何百万円かで
占拠?するようにして泊まった、というのが、これもまた船頭さんの口角泡をとばすような激しい英語の説明で耳に残ったことの一つではある。)

2009年8月21日金曜日

pain killer #2


すばらしい暑さだったが、頭がくらくらするので、レストランに入る。名前は忘れた。広場があって、そこでスティールパンを叩いてカリビアンミュージックを演奏している。盆踊りみたいだと言ったら、娘が激しく軽蔑したような表情をしたようだった。その盆踊り(リズムが全く違うでしょう!娘曰く)を聞きながら、ラム酒のカクテルを頼んだ。これが最高に素敵だった。

ほとんどの場合、ぼくはお店を選ぶ事や、そこに入ってからの飲み物、料理などを頼んだときに、すべてダメで、そういう選択にかけては最低の男であると人からも(特にFさんには)よく言われ、また自負していることでもあるが、なんとこの飲み物pain killer #2にかけて一切の過去の評判を覆すに足る自信を得るに至った事をここに披露したく思う。それほどすばらしい飲み物であった。そのレシピを以下に記す。

パイナップルジュース、クリームココナッツ、オレンジジュース、それにメインのパサーラム(pusser rum)、それにナツメグパウダー。濃厚で強くて(#2を頼んだわけではないのに、これが来た、3、4、5、とあり、パサーラムの度合いが強くなるものらしい)、これが日本のコップの五倍くらいの入れ物に入って出てくる。氷の量も程よい。一口飲んで、娘と顔を見合わせて、いいね、と同時に呟く。半分ほどでなにか気分が死んでもいいというような感じになるのだが、ウエイトレスのおばさんが何を間違ったのか、ぼくたちの座っているところに来て、ほかに注文は?といいながら、ぼくのグラスにさわり、落として割ってしまったのである。謝りながら、彼女はもう一杯フルに入ったカクテルを持ってきてくれた。もっと飲んでおけばよかった、と言って、また娘の顰蹙を買う。この酒には参りました。そとに出て免税(バハマはここはタックスフリーの地)店で、pusser rumを探したがなかった。そのかわり、これは島の酒といって何の憚りもないラム酒、RICARDO'S cocont rumの一番小さな容器に入ったものを3ドルちょっとで買った。船に持っていって飲もうと思ったのである。これも抜群においしかった。

2009年8月19日水曜日

pain killer #1



8月の13日から17日まで。娘と二人でバハマクルーズなる船の旅に出かけた。2千人をこえる乗客、今まで見たこともない巨大な船がジャクソンビルのセントジョン河をカリブ海へと出航したのは13日の午後4時過ぎだった。

Mデッキの244客室に行ってみると、ダブルベットになっている。娘がすぐさま、シングルに直すように言う。それだけが会社のエラーで、あとはすべて、ぼくたち乗客の心の持ちようで、すばらしい旅にもなるし、そうでもないとうようなものらしい。

船の中のエンターティメントについて、娘とぼくの評価は高校生の文化祭のレヴェル(彼女いわく、金次第だろうけど、つまりそういう船の格差もあるということ)。カシノには二人とも興味がなかったので行かなかった。宣伝に比してあまりね!というのが私の思い。でも、デッキなどでギター演奏と歌唱を一人でこなしているすばらしいミュージシャンもいた、フィリピン人が多かった、そんな歌手とは4泊もするのだから声を交わしたりした。ぼくに、なにかリクエストは?というので、My funny Valentineを、などと言うと、勘違いもはなはだしいという顔をしたが、最初のフレーズを弾いてくれた。

明けて、フリーポートに着く。船(fascination!)が停泊した港ではなく、そこからタクシーでLUKAYAというビーチに行く。中国系の資本がここにも入っていて、買収された大きなホテルがある。その周辺に地元の土産物屋とレストランが群がっているという構図である。コバルトブルーのとしか言いようがないのだが、海と砂浜の白がどこまでも広がっている。パラセイリングというのか空には凧状のものがボートに引かれてまぶしそうに飛んでいる。あとで、帰りのタクシーでまた一緒だった白人のおしゃべりなオバサンが、私もやったと自慢そうに言うのに驚いた。あたりまえだが、彼女たちはこのクルーズをenjoyするのだという気力に満ちている。何事もあまりうまく楽しめないぼくには羨ましいかぎりだ。

2009年8月11日火曜日

Lamar University visited

Sam Gwynnの大学院の授業でコメントを求められた。My Fair Ladyの日本語版をSamはyou-tubeで探してあったのを学生たち(4名か5名かの演劇と音楽専攻の院生たち)に映して見せた。そして、ぼくにこの日本語には、イライザが最初喋る社会的な階級を明示するような(たとえばロンドンにおけるコックニー )アクセントや単語の違いがあるのか?という問いだった。そのyou-tubeの映像はどこかの劇団の練習風景だったが、イライザらしき主人公を誰が演じているのか分からなかった(不思議な事に、アメリカの大学で見る日本人の演劇は、ぼくにギルバートとサリバンのミカドを見ているような摩訶不思議な経験を与えた。日本人自身が演じているのに、妙にエキゾチックで貧弱な感じ。それに日本語から遠のいた耳には最初この日本語の全体がすぐにとらえられなかった、これも初めての経験)。どの歌かも分からなかったが、ぼくが答えたのは、この翻訳には社会的な階級を明示するようなアクセントや言葉はなく、現代の日本語が使われている。現代の日本語は一様化がはなはだしい。バナキュラーな言語もあるにはあるが、それも滅びつつある。ここで使われている日本語で唯一奇妙な感じを与えるのは、それは翻訳者が主人公の出自の低さをことさら表現するために考えたのだろうが、一人称の「わたし」を「あたい」とかえて歌わせているところだ。今はほとんどの日本人が使わないこの表現はたぶん娼婦などが使う言葉であった。というようなことをしどろもどろ喋ったのだった。

学部生の一般教養の授業にもSam Gwynnの授業の前に参加した。Jim SandersonのAmerican Literatureの講義である。理系の学生も若干いた。全体で8名ほどの学生。サマーセッションということで集中して授業を受けることが可能で、学生にとって普通のセメスター(あるいはターム)よりお得であるということなどをおぼろげに聞いたような気がするが、たしか2時間10分一こまであったとおもう、それは受ける方も教える方も大変だなと思った。ものすごくチャーミングな授業で、インタラクティブな講義。枕のように分厚いテキスト(The norton anthology of AMERICAN LITERATURE)はあまり使用しなかったが、時々はその何ページかを指摘し開かせていた。講義のテーマは20世紀の文学を用意したものは何かということであった。主に実に広い視点から歴史と哲学への言及が多かった。その意味を学生に考えさせるといったスタイル。いろんな意味で刺激を受けた授業である。終わったあとに、感謝の言葉を述べて、そのテキストを買いたいと言ったら、研究室のどこかに余分なものがあるという。Samの講義に出ていたときに、ドアをあけてにっこり笑いながらぼくに「進呈」してくれたのである。

これらのことが可能になったのはすべて、
Moumin Quazi, Ph.D.
(Assistant Professor of English, Tarleton State University
Secretary, South Asian Literary Association
Editor, CCTE Studies
Co-Editor, Langdon Review of the Arts in Texas
Co-Editor, Voices)のおかげである。MouminはTroyの友人で、最初のアメリカ旅行のときに、デントンでぼくもあったことがある。詩人でもある。Moumin(モーマン)に感謝する。SamもJimもモーマンの親友で、両者ともモーマンによればincredible writersということだった。モーマンは締め切りをいくつもかかえていて忙しいというのでこの大学(以前かれはここにつとめていた)、そしてTroyのSmith Pointにはこの時点では来ることができなかったが、メールなどで連絡を取ってくれたのであった。

アメリカに行ったら、詩のワークショップか大学での詩の講義などを受けてみたいと思っていた希望、すべてではないが、いくらかは友人たちのおかげでかなったのである。

2009年8月10日月曜日

Smith Point in Tex

8月3日から8月8日(土)の朝まで友人TroyのSmith Pointの家に滞在する。メキシコ湾に続く奥深い入海(bay)に沿う別荘地のような所である。「ような」と書いたのは、昨年のハリケーン、アイクの襲撃を受けて、ほとんどの家が壊滅したからである。友人の家も一階部分がすべて無くなってしまった。細かいことは省くが、彼は奥さんの仕事で娘を含めた三名で日本にまた来ることが決まった、そのときにヒューーストン近郊にあった自分の家を売って(夏の別荘のようなものとしてSmith Pointの家を購入していたので、休みには日本からそこに帰ればいいと思っていたのだ)日本にやってきた。それが去年の春だった、9月に、残っていた最後の家が壊滅したというわけだ。ここの友人たちに頼んだりして修復もかなり進んでいたが、完全ではない。この夏の彼にとっての帰郷は、その修復という事にあったのだろう。
しかし、この恐れを知らないテキサス男は、「大草原の小さな家」状態の家に何名もの友人たちを招いていた、私もその一人。夜の釣り、発電機をかけて、ハリケーンから生き残った小さな桟橋の先から海を照らしながらの釣り。西に太陽が沈むと同時に東から月が昇ってくる、その広大な眺めを遮るものはなにもない。水平線と太陽が溶け合う(まるでランボーの詩のように)、ジュッという音を立てて太陽の光が燃えるのだ。東からはクールな月の光がきみ一人を目指して、そうきみだけをvanishing point(消点)として、ここSmith Pointでは燃え尽きるのだ。なにものにもかえ難いのは、人生の長さにも似た、夜の長い時間をかけた(livelong)日没と月の昇りの競演である。それだけのために、というのは嘘かもしれない、無数のビールもあったのだから、しかし、やはりそれだけのために、この荒廃した入海の村は宇宙から見える地球のように緑に輝いている。なにもないということの途轍もない輝きをそえて。

2009年8月2日日曜日

Savannah 訪問

Jacksonvilleから北へハイウェイ95、16号と車を飛ばして2時間ほどで目的地。Savannah はジョージア州有数の観光地。週末のせいもあり、相当の人出で賑わっていた。その家はオコーナーが13歳まで居住した所(Flannery O'Connor Childhood Homeで、ぼくが期待したような記念館ではなかった。(晩年の農場付きの家がAndalusiaというアトランタ寄りの所にあって、そこが記念館らしきイメージはあるが、そこまではとても遠いということ)

人のよさそうな案内係の中年の男性がいて、日本から来たというと、その家の入り口にゆき、鍵をかけて、ぼくのためだけに説明してやるという態勢をととのえる。娘が半分通訳してくれたから、ほぼ理解できたが、一人だけではおぼつかなかったろう。歴史的な景観保存地区で、家の2階の窓から正面に1870年代に建てられた大きなカソリックの教会(Cathedral of St.John the Baptist)の美しい尖塔が目に飛び込んでくる。これを少女時代のMary Flannery(案内のその人は必ずオコーナーのことをMary Flanneryと呼ぶ。これが本名で彼女は実際にこう呼ばれていたということ。Flanneryはいわゆるミドルネームである。作家として、いわばペンネームの意識でFlannery O'Connorを使ったのだという。すなわち、Mary Flannery O'Connorというアイリッシュの響きをもつ本名では本など全然売れないだろうと考えてミドルネームを名にしたのだという説明だった)が毎日眺めていて、またミサや他の奉仕行事などに通ったのだと思う。

少女時代のMary Flanneryの逸話をいくつも話してくれたが、それらはすべてこの少女が非常に変わった子供だったということを証明するものである。尼(nun)さんたちにも平気で自分の考えを主張する子だった、いつも孤独を好んでいた、童話はグリム童話しか読まなかった(彼女が読んだという本のまえで)、子供らしい童話は大嫌いだった、傑作なのは、裏庭(バックヤード)で母親が鶏を飼っていた、この裏庭はワーキングバックヤードとその係の人は言ったのだが、母親の仕事場のようなもので、そこで母親の仕事(卵を取ったり、鶏肉を料理したりか?)を手伝いながら、この少女にも鶏の飼育が命じられる。二羽の鶏が与えられたという。なんとまあMary Flanneryはこの鶏を後ろに歩くように調教したというのだ。そして実際に、この後ろに歩く鶏は有名になり、30年代のニュースフィルムにも取材されて今でも見る事ができるということで、見せてもらったりした。手紙の一節、
ーー私は内股歩きの子で、顎なしの少女です。もしあなたが私を一人にしてほっといてくれないのなら、私はあなたに噛み付きますよーーなどの説明。

すっかり疲れて、昼食の店に行くと、テレビで有名な料理おばさん系列の店ということで長蛇の列。おいしい南部料理の店ということだったが、並んだのはいいが、予約客以外はダメということがわかってそこを離れる。途中激しいスコールのような雨。なんとか食事をとったら、もう午後4時過ぎ。オマー(娘のパートナー)の素晴らしいドライブテクニックで他の車をぶっちぎるように抜きながら大雨と乾燥を繰り返すハイウェイを80マイルでフロリダへ帰ってきた。

2009年8月1日土曜日

七月尽

ここ(Jacksonville.FL)に来て4日目、時差の関係で7月の27日を2回経験したから5日目ということもできる。とにかく、今は七月の終わりの日で、その午後23時半にこれを書いている。娘の家のパソコンからも書く事が出来るので、少しずつアメリカ滞在記を綴ろう。

まだ時差の感覚がついてまわる。若いときは平気だったのに辛い。娘の多くの友人たちと会う。楽しい。英語は半分も理解できないが、気持ちはすべて分かる。

朝は、近くの広大な公園の、一周30分ほどかかる散策とジョギング用の道を歩く。今日は2週した。娘とそのパートナーは仕事に朝早く出かけてゆく。ここは朝早く、日が暮れるのは遅い。その上、サマータイムが今施行されているから、朝の散歩の時計は7時過ぎだが、ぼくの感覚から言えば(時差を抜いたとしても)午前6時くらいだ。一人での散歩にも慣れた。出会う人すべてが、good morning!と声をかけてくる。最初はわずらわしいと思ったが、素敵な慣習のように今は感じる。(朝の挨拶すらも忘れはてた社会にいたのだった。)

A Coat
  
  by William Butler Yeats


I made my song a coat
Covered with embroideries
Out of old mythologies
From heel to throat;
But the fools caught it,
Wore it in the world’s eyes
As though they'd wrought it.
Song, let them take it.
For there's more enterprise
In walking naked.

(私は歌のために上衣を作った。
この上衣、踵から喉元まで、
古い神話のあれこれから選んだ
刺繍模様に覆われている。
だが、馬鹿どもがそれを盗み、
自分で織り上げた振りをして
世の人々の前で着てみせた。
歌よ、そんなものはやつらにくれろ。
裸で歩くほうが
もっと勇気のいる仕事だぞ。)高松雄一編 対訳イェイツ詩集(岩波文庫より)


持参してきた、上記の詩集の詩をゆっくりと読む。今日読んだ詩のなかで、心に残った詩。