2009年10月12日月曜日

Self Pity

 休みありとて、何のかひあることもえせず、ひとりいたづらなる朝の早歩きをのみ、自らに強ひるかのごとく、秋桜や稲穂のさきの野分に倒れたるをあはれびつつ、歩(あり)くこそ徳なき男(をのこ)の楽しみなれ。

そのかみは20年代の英国の流人(exile )ロレンゾの 詩を何編かひもときぬ。なかにいと短き詩あり、

Self Pity  
D.H.Lawrence

I never saw a wild thing
sorry for itself.
A small bird will drop frozen dead from a bough
without ever having felt sorry for itself.


ネット(網世界)をgoogle it(閲)するに、以下のような和訳有り。

自己憐憫

私は、自分自身を哀れむ野生の生き物を見たことはない
小鳥は凍え死に枝から落ちても決して自分自身を哀れとは思わない。

 
訳の巧拙は問はず、この詩の問はんとするところをしばらく彷徨せん。
かかる短詩の陥りやすき弊は処世訓の卑俗さならんと思ふに、この詩もその弊から自由ならざるやうに見ゆれども、いかにや葦編三たび絶つの気で繰り返し読むに、話者の気稟の尋常ならざる高さを自づと感得するはわれのみならんや。(人間中心主義(anthropocentrism)の批難やそこから敷衍さるる現代環境問題などの「問い」はここでは論外として扱はず。)

(ルサンチマンや自己憐憫の感情ほど、ロレンゾなる男が嫌悪した感情はなかった)とお里がしれたところで、今日は終り。

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