2010年7月28日水曜日

わが祈り

今日も充分に暑かった。この間、俳諧関係のことを少し書いたが、それに対して解酲子兄から大切なコメントがあった。それをまず、ここに再録しておく。何に対するコメントかも書くべきだろうが、自分の備忘録のつもりなので、それは省く。

(その一)
―ぜんぜん厳密な話ではないのですが、少なくとも杜国句の主体というか主格を、前二句と同じとすると、重大な打越嫌いにはなると考えられます。安東次男の『芭蕉七部集評釈』には、「一見、打越以下三句にわたって同一人物(姉なる人)の心理、動作が続くようだが、のこしてきた妹の上を思いやりながら湯を使っている人の、これは想像中の情景と見れば転じは悪くない」とあるけれど、これは不徹底のそしりを免れ得ないでしょう。いま手元に見当たらないのでどうとも申し上げかねますが、安東ののちの『風狂始末』においては、自他ということを中心に、それまでの彼の「読み」を組み替えているようです。
また、190において、籬がほとんど俳諧に稀だというのは、ご指摘あって初めて気づきました。似たようなものでは斎垣(イガキ)、瑞垣(ミヅガキ)などが見受けられますが、これらは目立ちにくいけれどあきらかに歌語やそれに準じるものです。これに類することを含め、神祇釈教に神経質な「俳諧」というものの、ある側面を思わざるをえません。
ちなみに、蕪村では句中に籬の語は見つけられないものの、れいの「うぐひすのあちこちとするや小家がち」の詞書に「離落」とあって、これは、「籬落」(まがき)であるとする註が、岩波の蕪村句集にあります。これなど、あきらかに詩(漢詩)の世界を句中に取り入れたものですが、さてこれが歌語と無縁であるかどうか。和漢朗詠集など見ても、なかなか俳句・和歌とか和漢の二分法ではままならないものがあると私は思います。―

(その二)
― 書架を探ったら、安東次男の『風狂始末』が出てきました。れいの冬の日「狂句こがらしの」巻の挙げ句近くの問題箇所の解を見てみたら、三句つづきの姉としたところ、此所は「わが祈り」がはらむべきものはわが妹の妊娠に関わること、そこから姉なる人が妹の「まゆかき」に行き、対して居湯を遣っている主体は妹その人である、というように、もとの『芭蕉七部集評釈』からは大きく読替をしているようです。一応ご報告まで。 ―

改めて、ありがとう。

 以下、日録。

今朝は5時半から歩く。約9キロ。すこしく距離を伸ばす。7時過ぎには帰宅。猫の早く飯を供せよと吾を呼ぶ声はげし。これにすぐに応じ、すぐにシャワーを使ひき。あがるや否や計量器に巨体を載せしも針の振幅少なきに絶望せり。

散歩に疲れ、朝食の後、書斎にて仮眠。起くればすなわち昼なり。昼飯は冷やし狐を作製し、40余年の長きにわたって同居する戦友とともに食す。冷やし狐はなはだ美なり。猫の求むるに、その一切れを与えたり。彼もこれにて満ち足るがごとし。暑熱いよいよ甚し。

戦友の町に出づるを見送る。
―「懸命にゲイになろうとすることは、懸命に他者性を鍛えるということだ。攻撃性に防備するということだ。アメリカで、エイジアンもアフロもイラニアンもコケイジアンも懸命にゲマインな共同性を振り切って、法と経済を充足する「個」を確保しようとする。その闘争的な場面は必ずや「個」のフィクションを査問する声を呼び込む。複数が「我」を張り合う。それを煽るのは、「個」のフィクションを極限まで切り詰めた単数としてのアメリカ国家である。国家の「起源」を「個」のエレン・ヴィタールに折り重ねる図式的なハリウッドの活劇は、「起源」に関与するモラリティを叩き売るだけでなく、「起源」としてのアメリカ国家を無限に懐胎するのである。―宗近真一郎・「二人」の生成をめぐって・「ポエティカ/エコノミカ」所収―

という部分を、そうだよなあ、表現がいいなあという気持ちと、わかりそうだがまだわからない表現があるな、というようなことを、考えつつ、そうだ、ここで言及されていることのすべてはフーコーにあるのかもなどと、フーコーを読まねばなどと、考えているうちに、またまた眠っていた。

4時半に戦友の帰るを迎ふ。これより走りにゆかんと余の言ふに、馬鹿、あほと叱責さる。さらば飲むに如かず。以下省略。

よきことありぬ。敬愛する詩人より今日葉書をいただく。吾のかくものの文体に言及して、
「明解で生き生きと弾むようなところがあって、昔、切り絵をする人が、ハサミと絵をきびきびと動かしているうちに、いつの間にか、くっきりした造形が切り取られている…それを子どもの頃見たことが思い返されてきました」と評して下さった。書き写していて面はゆいけど、なんと人を励起する具体的な表現だろうかと感激する。果てまで持っていきたい表現である。(私個人を離れて)普遍的ですばらしい表現でもあることは言うまでもない。生きる勇気が湧いてくる。

ここまでお読み下さった人、ありがとうございます。

2010年7月27日火曜日

ポエティカ/エコノミカ

 7月17日あたりから、学校の仕事は暇になったので(私は夏休みになり、通勤せずともよくなった)、毎朝メタボ症状の事後的な対策として散歩を90分ほど、8キロ程度を欠かさず今日までやってきた。朝できなかった場合は午後4時半から外に出たが、これが無謀だった。この暑さはまだこの時刻では衰えることがなかった。私の頭は、野球帽をかぶって防護しているのにもかかわらず、薄いせいも無論あるだろうが、今の時点(午後9時)でもまだ手を当てると普段とは異なる熱(暑熱のなごり)がある。年よりの冷や水ならぬ熱水である。熱中症手前だったろう。ハイの状態で汗みずくになりながら、ふらふらと帰宅したのである。
ここで休憩。ユーチューブの再生リストに入れ置いたベートーベンのピアノソナタなどを聴きながら書くとしよう。エリック・ハイドシェックの悲愴が鳴り始めた。
  
 一昨日は添田馨の『吉本隆明 論争のクロニクル』を通読した。添田さんはジャーナリスティックなまとめ方も結構上手い人だなという感想。こう整理してくれると、不勉強の身にはいろいろとためになる。昨日は宗近真一郎の『ポエティカ/エコノミカ』という評論集を半分ほど読む。タイトル通りに現代における「詩」と「経済」をクロスさせて、その対立や同型的な、あるいはアンビバレントな欲望と表現の相関について鋭く考察したもの、こういう視点もあるのだな、これも勉強になる。二人とも昔の「genius」の集まりの仲間だ。
 冷房をつけながら読むのだが、そのまま寝たり、寒くて起き、冷房を消す、また堪えがたい暑さ、…こういうことを繰り返して、文学も経済もわけがわからなくなるが、なぜか詩を書きたいという気持ちがさびしげに残っている。

 今、ケンプがMoonlight Sonataを弾いています。

 去年の今はアメリカにいたのだなと思うと、アメリカが懐かしくなる。

「現代詩手帖」の詩誌月評の仕事も9月号のそれになった。締め切りが8月9日。
8月号は明日か明後日あたり店頭に出るだろう。機会がありましたらどうぞのぞいてください。(8月号の原稿は一番苦しかった。出来も悪い。それでもなんとか書けたという意味で、私一個の記憶には残るだろう。)

ヴァイオリンソナタになった。クロイツェル。オイストラフです。

2010年7月24日土曜日

草の夕ぐれに

 二人だけの芭蕉七部集読書会。今日、午後2時から、八王子の子安市民センターで昔の同僚(彼は去年引退して、都の非常勤教員をやっている)と二人で「冬の日」の第一歌仙「狂句こがらしの巻」を読む。三十畳もあろうという和室、舞台まで付いている。もう半分の部屋が向こうにあり、その仕切りを開放すると小さな講堂や宴会場にもなろうかという作りだ。友人によると、舞台を使わなければ800円でいいとのこと。午後1時から5時まで。友人は、ペプシコーラの大壜二本とポテトチップスまで用意してきた。それだけではない、なんと彼は水筒に氷を入れ、当然のように角瓶の小さな奴まで隠していたのだ。大丈夫か?大丈夫ということで、まず畳の上にそこにある和室用の長机をセットし、彼は持参したプラスチックのコップに二人分のウイスキーのコーラ割を作る。乾杯と、小さくささやき、今回は彼の発表(驚くなかれ、七部集を読破するまで、この会を続けて行こうという決意なのだ)だから、彼の講読がはじまる。印象に残った付合の部分、

 二の折の裏、揚句に至る三句、

  わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮
   けふはいもとのまゆかきにゆき   野水
  綾ひとへ居湯に志賀の花漉して    杜国

この三句の主体をどう定めるか。彼は「いもと」の姉でいいと言う。それは彼の全くの想像なのだが、安東次男の読みとあらかた一致しているのに私は驚いた。 荷兮の奇想、野水の品位、杜国の美しさ、われわれが確認したのはそういうことだった。

 それから個人的に、この歌仙で一番好きな句は、芭蕉の「うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに」という句である。その理由は、秘密。もし、私に次の詩集を出す機会が恵まれるなら、「草の夕ぐれに」というタイトルにしようなどと……

ただ暑し

日焼田や時々つらく鳴く蛙     乙州
日の暑さ盥の底の蠛(ウンカ)かな 凡兆
日の岡やこがれて暑き牛の舌    正秀
ただ暑し籬によれば髪の落ち    木節
夕顔によばれてつらき暑さかな   羽紅


猿蓑(巻之二 夏)から。多分、現在の大暑のころの句だろうか。上の中では「ただ暑し…」という句がなんとなくわかる。「ただもう暑くてやりきれない。せめて道端の垣根寄りに行くと、抜け落ちた髪の毛がからまっていて何ともうとましい」(岩波・新日本古典文学大系・「猿蓑」は白石悌三の校注、による)という意味らしい。ただあつしまがきによればかみのおち、という響きも、ただあつし、を増幅させているような気がする。意味とイメージの上から言えば、髪の毛の暑苦しさはそれだけでインパクトがある。そういうところを言いとめたのはなかなかだ。でも、その暑苦しさのなかで、「籬」が暑さをぬけだす兆しになっていると、僕なら注釈を加えるかもしれない。

と思って、索引にあたるが、この言葉を使ったものは「籬の菊の名乗りさまざま」という「続猿蓑」の最初の歌仙中の里圃の付句と、「冬の日」第三歌仙の荷兮の「まがきまで津波の水にくづれ行き」という付句だけである。もっとも、この索引は「初句による索引」だから、「籬によれば」などのように中七のそれは探せばあるのかもしれない。それでも「籬」は「歌語」で「俳言」ではないから、その数はたぶん少ないだろうと予測はできる。木節の句の面白さは、俳言の暑さの中に雅やかな歌語を拉致し得たところにあるのではないか。「籬によれば」という文学の歴史が日常の中できらめくのである。あるいは沈むのである。

「現代思想」の5月臨時増刊号はボブ・ディランの特集号だった。僕が読んだ限りでは、どうしようもなく、あるいは、とんでもなくといってもいい、それほど面白かったのは瀬尾育生の「伝道者ディラン」というエッセイである。こんなに難解でラディカルなディラン論を読んだことはない。このエッセイのことではなく、このエッセイについてはその感想をいつか書くであろう。青山真治の「最も好きなディランの詩のフレーズは?その理由は?」というアンケートの回答を上の論旨に関係させてみたいのである。

青山は次のように回答している。

"Now you don't seem so proud about having to be scrounging for your next meal."(Like a Rolling Stone)
 突然、ポップス(現在)に歴史(大恐慌)の流れが押し寄せる瞬間。

俳諧も、けだし歴史(古典)の流れが押し寄せる瞬間を傷のように刻印しながら、それを越えて行く現在を、この社会のなかで打ち立てようとした芸術ではなかったのか。そういう意味でディランと同じ真のポップスであり、絶えざる流行のなかにいながら……。

2010年7月20日火曜日

あつしあつし

 暇になったので、散歩を再開した。6月の後半から7月中旬にかけての机周辺の不健康な仕事がたたって、体重も何もかも「重くれ」という感じになっていたこともある。
梅雨が思わぬ災害をもたらしながらやっとあがったと思うと、この暑熱地獄である。一時間半の歩きを再開したのはいいが、ハーハーゼーゼーの体たらく。しかし、今4日連続更新中、ひたすら歩くだけ。朝の6時から7時半まで、朝できなければ午後の4時半から6時まで、この時間帯は引退人間だから可能なのだが、もう少し朝は引き上げ、午後は引き下げるほうが、この暑さ対策を考えれば妥当であろうか。
 
 田んぼが数枚気持ちよい川沿いの場所がある。それを見ると先の豪雨で完全に冠水というか、漬かってしまった九州や中国の稲田の映像がダブる。あれらの田んぼはもうダメなんだろうと思うと痛ましい。
 
 芭蕉の「猿蓑」の二番目の歌仙は「市中は物のにほひや夏の月」ではじまる。
    市中は物のにほひや夏の月   凡兆  
     あつしあつしと門々の声   芭蕉
    二番草取りも果さず穂に出て  去来

その第三の「二番草取りも果さず穂に出て」という去来の句を、稲田のそばを通るたびによく思い出していた。太田水穂の「芭蕉連句の根本解説」に、二番草の説明として「二番草というのは、植付けてから二番目に取る田の草をいふ。一番草は陽暦では七月上旬、二番草は八月上旬ごろと見てよい。三番草まで取るのが普通になってゐる」とある。…今年は陽気が暑いので、二番草も取らないうちから稲が穂に出てしまった…というような意味である。豊作の予感ということだろう。二番草を取る暇もなく水没してしまった稲田も、この現代にあるのだということ。その稲田はおそらくは地方に残った高齢の人々の労作の賜物であったろう。
 
 野菜直売所という幟が無風に垂れ下がっている。朝方の販売も始めたらしく二三人自転車を止めている。時々は私もここで買う。立ち止まって物色していると、たどたどしい日本語でトウモロコシを求める女性がいた。三本頼んでいて、いくら、と訊いている。頭巾に手甲というのか手袋の顔見知りのここの農婦?が、三百円と答えると、躊躇して「私、高い」と客の女性は言う。そして二本に改めた。聞いていて、心痛むやりとりだった。その女性が自転車で急いで立ち去った後に、九条ネギだと農婦が言うネギと茄子を合計200円で私は買った。そのビニール袋をぶら下げ、次第に強まる陽射しにあえぎつつ私は歩いた。

2010年7月17日土曜日

借り暮らしのアトム

 
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どっちが家主か、ようわからん。

2010年7月16日金曜日

An apple a day

 今日、山の下東の最後の授業。5月の末から、週に二日で5時間の授業だった。9月からは大学の後期の授業が始まるので、とても一緒にはできない。1年生の最後の授業(70分)だった。漢詩入門をやってくれということだった。昨日の70分は、一海知義の「漢詩一日一首・夏」(平凡社ライブラリー)から「七夕・范成大」の所をプリントして、「古詩十九首」の第十首にある、例の「迢迢牽牛星、皎皎河漢女」から始まる古詩などを読みながら七夕の由来を紹介したりした。そしてそれが乞巧奠とも呼ばれ裁縫の上達を願う民間の祭りでもあったことなども話す。冷泉家の展覧会では、宮中に伝わる乞巧奠の儀式が展示されていた。そのあと、杜甫の深刻な社会批判の詩も紹介した。要するに、押韻の規則だとか絶句、律詩などということをすぐにやりたくなかっただけだが。
 今日は、いよいよ漢詩の決まりのことなどをしゃべらなければいけないのだが、また迂回して、英詩のナーサリーライムなどをプリントして、その脚韻rhymeや頭韻alliterationのことなどを説明した。それに谷川俊太郎のオノマトペ中心の詩を二編ぐらいプリントした。プラス「二十億光年の孤独」から「ネロ―愛された小さな犬に」も。そして井伏鱒二の「厄除け詩集」から于武陵の「勧酒」の名訳、「サヨナラ」ダケガ人生ダ(これは教科書に「勧酒」が載っているから)をプリントして配布する。とくに日本の自由詩と定型詩の違いなどを含めて、英詩や漢詩の世界を壮大な展望?の下に喋ってやろうというつもりだったが、うまくいったかどうかは分からない。(私の願いは漢詩の授業の時いつも思うのだが、中国語ができたならということだ。残念ながら学ぶ余力はない)。
 最後の挨拶などしたら、また来て下さいなどと愛想のいいことをいう男子生徒などもいた。

ということで、なんとか(山の上学校と山の下学校の期末テストのために、私は都合6個の異なる試験問題を作らざるを得なかった、これは長い教員生業のなかでもはじめてのことで、ほとんど生きる気力を失うばかりの、大袈裟?、仕事だった、その後の採点、成績付けなどをふくめて。しまいには夢に、別の高校でも教えていて、その試験問題を作るのを忘れてしまっているのではないかという疑いに攻められて、飛び起きたこともあったほどだ。)乗り越えることができた。この反動が自分ながらこわいのだが、今はとりあえずゆっくりしたい。

2010年7月15日木曜日

ここにもひとり

 今日は、山の下東で70分の授業をする。昔だったら、試験休みで、生徒も教員ものびのびできたのに、約十年あまり前から、都教委は「試験休み」などという「慣行?」を破壊して、いや、すべての「有意義な」「慣行」(この否定的なことばの響き!)を含めて破壊する「改革」を続行してきた、そのせいで、この耐えがたい湿度と暑さのなかで、午前中70分の授業を三時間、この山の東では率先して?やっているのである(いや正確に言えば、すべての都立校がこれに似たことを強いられてやらざるをえないのである)。1年生の授業だが、みんなすこぶる真面目で一言も不満の声は出ない。私は耐えかねて言ってやった、「みなさん、よくがまんできますね。昔は、今の時期はみんなが好きなこと、バイトやら、恋やら、読書やら、遊びやら、そういうことに熱中できる貴重な時期で、勉強のことなど全然気にかけなかったのですよ、云々」。沈黙、失笑、……。
 でも、でも、生徒たちの表情はなぜか私には救助を求めるもののごとくに見えたのである。引退した人間の無責任な観察と言われればそれまでだが。

 山の下東から、国立公民館、芭蕉の俳諧について話す。ときどき、だれに向かって話しているのか(年齢を越えた共感、共苦もあるのだということ)わからなくなった。そこで話したなかの「去来抄」の有名な一節は、

○ 岩鼻やこゝにもひとり月の客    去來

―先師上洛の時、去來曰、「洒堂ハ此句ヲ月の猿と申侍れど、予ハ客勝りなんと申す。いかゞ侍るや」。先師曰、「猿とハ何事ぞ。汝此句をいかにおもひて作せるや」。去來曰、「明月に乗じ、山野吟歩し侍るに、岩頭また一人の騒客を見付たる」と申す。先師曰 、「こゝにもひとり月の客ト、己と名乗り出づらんこそ、幾ばくの風流ならん。たゞ自稱の句となすべし。此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入れける」となん。(中略)退て考ふるに、自稱の句となして見れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。まことに作者その心をしらざりけり。―

 「ここにもひとり」と、生徒や同年配の人々に、私も「名乗り」をあげたかったのである。ただ、見ている人でなく。私もあなたたちと同様に、…… と。                      

2010年7月9日金曜日

Almost blue

雨、危座して我を叱る人なき七月の雨よ
きびしくやさしく疲れている雨よ
物に憑かれたやうに聡く賢きわが姉たちよ
危座して我を叱れ
日のなかの常なる音の立てるやかましき
Chet Bakerのふぐりに立てる針供養
われ自らの滅びを滅びよ
それすらも管状の感情(ユーチューブの掛詞と読め)


ここまでで、最近の日常の音をこそ書かめ、いな聞かめ……

またAlmost blueが管からしみてくる。

「危座云々」は 解酲子の、夢に藤井貞和が出てきたという彼の日記の記述による。

今日も、どうにか、そんなに粋がらずに、気張らずにSauve qui peutという感じ。