○ 我が生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ (茂吉『つきかげ』)
茂吉晩年の歌集の一首だが、この歌について鮎川信夫の以下の鑑賞がある。
―― 平凡な、とりたてて言うことのなさそうな歌である。それなのになぜこの歌が心に残ったかと自問してみると、全く個人的な理由からである。
私の家では、納豆を食膳に供するという習慣がなかった。それで、たまたま気づいたときに「おのがため」それを買い求めるくせが、私にはあったのである。
若い時なら、そんなことはあっさり見過ごされる。しかし、働きが鈍る老境ともなれば、話が違ってくる。「おのがため」にする一切の挙措が、孤独の影を帯びるようになる。それが、納豆を買うというような、些細なことであれば、なおさらそのみじめさはいやますのである。――
「そのみじめさはいやます」というところに鮎川自身の晩年の「みじめさ」を見つめる姿勢が毒のように出ていて、茂吉の悠悠然とした耄碌ぶりを相対化している。この歌に「孤独の影」を読みとるのは鮎川の視点である。と、書いて読み直すと、不思議なことにこの歌がそう読める。読むものによってこそ、読まれるものは輝きもし、鈍くもなる。
腰折れにならないように、何か代入できないか。
○我が生はかくのごとけむおのがため( )帰るゆふぐれ
①口笛吹いて
②食パン買ひて
③奉仕に疲れ
④万馬券買ひ
⑤人を殺して
⑥棺をかつぎ
⑦夜スペ開き
もとより、「納豆買ひて」にかなうはずはない。
1 件のコメント:
( )内に代入のわが解答のコトバは、一合を得て、であります。
折口の晩年には、こんな歌もありましたっけ。(表記は自まま)
人間を深く愛する神ありてもし物言はばわれのごとけむ
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