(万葉集)大伴家持の歌より
二十三日興によりて作る歌二首
春の野に霞みたなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも(巻十九・四二九0)
わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(同・四二九一)
二十五日、作る歌一首
うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りしおもへば(同・四二九二)
春日遅々に、うぐひすまさに啼く。悽惆の意、歌に非ずしては撥ひ難きのみ。よりてこの歌を作り、もち て締緒を展ぶ。(以下・略)
(古今集)
家にありける梅の花のちりけるをよめる つらゆき
くるとあくとめかれぬ物を 梅の花いつの人まにうつろひぬらん
なぎさのゐんにてさくらをみてよめる 在原業平朝臣
世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし
(枕草子)
春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
(源氏物語)―朝顔―
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹のけぢめをかしう見ゆる夕暮れに、人の御容貌も光りまさりて見ゆ。
「時々につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、この世の外のことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも残らぬをりなれ。すさまじき例に言ひおきけむ人の心浅さよ」とて、御簾まきあげさせたまふ。月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽のかげ心苦しう、遣水もいtいたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童べおろして雪まろばしせさせたまふ。
(徒然草)
第四十三段
春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賎しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。
いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。
第四十四段
あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つやゝかなる狩衣に濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹き止みて、山のきはに惣門のある内に入りぬ。榻に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止る心地して、下人に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。
御堂の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。
心のまゝに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。
(奥のほそ道)
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
(菊花の約・雨月物語)
青々たる春の柳、家園(みその)に種(うゆ)ることなかれ。交はりは軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐めや。軽薄の人は交はりやすくして亦速かなり。楊柳いくたび春に染れども、軽薄の人は絶て訪(とむら)ふ日なし。
(蕪村の句より)
春雨やもの書かぬ身のあはれなる
うたゝ寝のさむれば春の日くれたり
行春やおもき頭をもたげぬる
ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ
春雨や身にふる頭巾着たりけり
遅き日のつもりて遠きむかしかな
筋違ひにふとん敷きたり宵の春
等閑に香たく春の夕哉
さしぬきを足でぬぐ夜や朧月
椿落ちて昨日の雨をこぼしけり
誰がためのひくき枕ぞはるのくれ
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど
春の海終日のたりく哉
曙のむらさきの幕や春の風
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
行く春や同車の君のさゝめごと
(杜甫)
春夜喜雨
好雨知時節 好雨時節を知り
当春乃発生 春に当たりて 乃ち発生す
随風潜入夜 風に随ひて 潜かに夜に入り
潤物細無声 物を潤して 細かに声なし
野径雲倶黒 野径 雲 倶に黒く
江船火独明 江船 火 独り明らかなり
暁看紅湿処 暁に紅の湿れる処を看れば
花重錦官城 花は錦官城に重からん
(白居易・和漢朗詠集)
惆悵春帰留不得 紫藤花下漸黄昏
悲しくてなりません。春を惜しんで引き留めようとしても、そんなことにかまわず春は帰って行ってしまうのですから。晩春の花である藤の花のあたにも、春の最後の一日が暮れて、すでにたそがれの色がこめてきました。
「徒然草」の44段は季節は秋なのだが、43段の春と対になっているので、引用した。源氏物語の「朝顔」からの引用は、式部の季節のとらえ方が人物の心と不可分な形で選択され描写されているということを言いたいがため。以上の引用をもとに、自分なりの、古典作品による―春のカタログレゾネ―を作ってみた。これをもとにして、昨日国立公民館主催の、「古典への招待」という肩の凝らない集まりで2時間しゃべってきました。聴講してくださった人たちに感謝します。今朝近くの公園を過りました。夜来の雨と風で椿が落ちていました。
まさに夜半翁の句の風情そのものでした。春ですね。
椿落ちて昨日の雨をこぼしけり
2 件のコメント:
このように並べられるのをみますと、枕草子がなかったら、徒然草もなかったのだなあと思われます。ひょっとして芭蕉も、俳句という形式もと、そのように思いました。
蕪村は、枕草子や徒然草が好きだったようですね。
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