寒い日が続く。書評の締め切りが迫っているのだが、書く気がしない。現代詩手帖3月号の詩誌月評で私の詩「凍死」(tab14 号)が痛烈に批判されていた。倉田さんに知らされて、雨の中5時頃に八王子に買いに出かけたのである。この欄の今年の担当者は渡辺玄英という詩人である。曰く、―21世紀の今、はたして杜甫と同じ大げさなノリで志を詠い、単純に悲憤慷慨することにどれほどのリアリティがあるのだろうか。たとえあったとしても「現在」の必然性がそこにあってしかるべきではないのか。私の疑問点はそこにある。― と。
この詩は、昨年末から今年初めてにかけての日比谷の「派遣村」のことをテーマに、そこに追い込まれた人々によせるシンパシーを、杜甫のある漢詩を借りて表現しようとしたものである。駄作ではあるが、悲憤慷慨などは私の最も苦手とするところであり、ただ杜甫の漢詩にすべてを語らせようとしたつもりである。その配合、現代の悲惨と杜甫の慷慨の取り合わせは、確かに―「現在」の必然性―という点からいえば、甘かったし、書いた時もそう感じていた。そのことは私自身が、この派遣切り、派遣村などの「現実」を把握しきれていない、もっとぶつかるべきなのに杜甫などで逃げてしまったということに帰着する弱さのせいだと思っている。―大げさなノリ―などになりようはなく、そういう気分をむしろ相対化するようなことも書いたつもりだが、結末の繰り返しに、この詩の失敗があったと思う。あそこで繰り返すほど逆に作者は鬱状態だったのだが、そこをすくわれてしまった。明らかな失敗作だ。そういうことをはっきりと知らしめた渡辺に感謝すべきだろう。
私の詩のあとに、渡辺は小峰さんの詩をとりあげて次のように書いている。こういう評言は一般的にも必要のない、意味のないものだ。
― 完成されて上手いけれど退屈な作品と、スキルに難があって未熟でもビビッドな何かを感じさせてくれる作品とでは圧倒的に後者を支持したい。―
この部分は改行して他の作品にふれはじめるその冒頭に置かれているから、私や小峰さんの作品について言っているのではないかもしれないが、前者が私の作品のことであり、後者が小峰さんの作品について言っているとしたら意味のないことである。
この文章とは関係ないことだが、私は小峰さんの作品を「省略が多くてもの足りないところもあるが心に残る佳品だった」、要するに「スキルに難があって未熟でもビビッドな何かを感じさせてくれる作品」などというようには読まない。省略自体、その短さ自体が大きな意味を持っている作品である。まして、スキルに難があるなどとはとても言えない。
寒い。もう寝よう。
3 件のコメント:
小峰さんの作品が、「「スキルに難があって未熟で」あるとは、とても言えない。この評者は何か勘違いをしている。
僕の推察では、評者の渡辺玄英とかいう人は、杜甫の原詩をまったく読んでいませんね。
蕃さん、僕は偶然NHK古典講読・漢詩の『杜甫』をもっています。この『茅屋秋風の破る所と為るの歌』は非常にいいですね。強風に飛ばされた屋根の材料の茅を目の前で悪がきたちにもっていかれながらも、いっさい子供たちを恨まず、貧しい人たちが安心して微笑みながら住める大きな家が欲しいものだ。そのためなら自分の家がぼろぼろになって凍死してもかまわない、といっています。
蚤のキンタマほどにも度量のない現在の政治家、官僚どもへの、婉曲ではありますが、痛烈な風刺となっています。優れた政治詩だと、僕は思いますがね。
タクランケさん、平川先生、書き込みありがとう。
杜甫の詩は、本当にいい詩です。まさに述志の詩として読むよりは「すぐれた政治詩」として評価すべきだと思います。
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