2009年6月26日金曜日

ネバーランドの湖で

かもめ                            



     顔は見せるためにある
    鏡を決して覗かなかった少年時代の「にきび」の日々から
   きみは44歳になった
  復讐のためにもっと美しくなろうとして「きみの自然」と呼べるものを
 虐待してきた月日
 
バルコニーから悲鳴が聞こえ
きみの剥製が落下する
「世界中の子供たちが死んでゆく」
冬の午後
約束どおりにきみは
かもめのような白い命を露出させた

         落下する
            命の剥製
すべてが死に絶えたネバーランドの湖で
「わたしは一つ一つの生活を新しく生き直している」
冷たい岸辺に横たわり
巨大な鮫が空中をゆっくりと泳いでいるのを見る

人生と科学がわたしを置き去りにして行った日々
在ることと在らぬことの、在ることについては在ることの
            在らぬことについては在らぬことの
                 横たわる巣穴

「あなたは、尺度に照らして(かすかな光がここに届いている)
虐待はなかったというのですね(愛することは虐待すること)」
 きみの手がぼくの首をしめる正午
       羽毛が闇のなかを長い時間をかけて落ちてゆく
もう思い出せないその昼と夜のわずかなとき
ぼくの淡い青灰色の背中がきみの手を種族の漆黒に変えたのを
                          覚えているか?

傷ついた爪
雲にまぎれて飛ぶ かもめ
             ここからはきみの顔は見えない
         メランコリックなサングラスに隠された名声
             受精をまつ子宮のやわらかな喝采にかこまれて
       独裁者は
バルコニーから手を振る

  ベルリンの冬、ティアガルテン
                  アスファルトは大地の母のように泣き
                   ゴリラが檻の中できみを笑っている
         記憶のなかの坂道   なにかをつかんだ五本の指の記憶
             アリアドネの臥所がきみを誘う
                 ここで裸になる

          そしてインタビュー
     「12歳の少年と一つのベッドに寝て、あなたは何をしたのですか?」
      熱い息の下で織りあげられる声のない物語
     バビロンとバクダッドが、アッコとアラスカが
    きみの血を沸かすまで
  というより
「厳しい訓練を課した親に優しくすることはきみのなかにある
フュシスに反するゆえ公衆の面前では親たちに優しくし、一人になれば
一人の快楽に没頭するがよい、虐待の記憶そのものが彼らと彼らのノモス全体を
腐らせるまできみはぼくと遊ぶのだ」

深く退行して純白な仮面をつける
 「私はかもめ」
ニーナ
きみとともに在った日々をわたしは忘れない
  鵞鳥も雲も、水に棲む無言の魚も人生のめぐりを終えた
      空に浮かぶ鯨も
 
喝采のなか、わたしたちは「存在」することから退場する
       雲にまぎれて鴎が飛ぶ 
    


(2003/04/21 完成に近い未定稿・gip15号に発表) 

今日、マイケル・ジャクソンが死んだ。昔書いた彼についての詩を、追悼のために掲げておこうと思った。この詩は昨年出した詩集『樂府』にも入れてある。

 
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2009年6月25日木曜日

友人たち

先週の金曜日に小田急相模原の友人の家に、彼らの引越祝いをかねて訪問した。座間の基地内の住宅から民間のマンションに移ったのだ。二階式の室で、そのトップルーフからは360度の景観が可能な豪壮な住宅である。

友人のアメリカの友人一家が、結婚二十周年の記念の旅行ということで、訪れていた。この家の住人たちもアメリカはテキサスの出身で、もう知り合ってからは十年以上になるつきあいである。

その友人の友人はDaveと言って2メートルを超す長身だった。痩せていた。音楽家で、パーカッションが専門ということで、ジャズなども実際に演奏するということだった。私は一目で、この男に惚れてしまった。その優しい灰色の目。にこやかで静かな動き、妻や子供(男の子で10歳)に対する実に自然な言動。こんなに大きいのに、どこにいるか分からないような挙措。ぼくの友人の冗談に笑いながら応える、その応え方も不自然さが全然ない。

彼らの前で、私は自分の詩、「コルクスクリュー」を朗読した。そのあと、仕方話のように身振りを混ぜながら翻訳した。Daveもその妻のジョーンも、もちろん私の友人一家も粛然という感じで聴いてくれた。だれかに真剣に聴かれているという思いを、私はずいぶん久しぶりに味わった。

Dave一家は今日帰国した。

2009年6月22日月曜日

その余はざつ音のみ

土曜日の、思潮社の「現代詩手帖創刊50年祭」のイベントで、吉本隆明は西行法師のことを語った。西行法師と高村光太郎が好きだと言ったのだが、西行法師のあるエピソードをとても楽しそうに話してくれた、そのことがずっと心に残っている。

『吾妻鏡』が伝える69歳の西行晩年の話だ。東大寺の再建勧進のために西行は再度の陸奥への旅に出る。彼の一族である平泉の藤原秀衡に沙金の勧進を願う旅だった。西行の絶唱、
 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山

の詞書き「東の方へ相識りたるける人のもとへまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりけるを思ひ出でられて」の―相識りたるける人―とは秀衡のことと言われている。

この最後の旅の有名な逸話として、西行は鎌倉で頼朝に会う。というか、頼朝が一人の老僧に会い、不審に思い、梶原景季に確かめさせ、西行とわかり彼を招いて会談する。歌道と武道(弓馬のこと)について頼朝は質問したという。 西行は次のように答えたという。―弓馬のことは在俗当時の初めには、なまじいに家風を伝えていたけれども、保延三年八月に遁世した時に秀郷以来九代の家に伝えてきた兵法の書は焼失してしまった。罪業の因となることであるから、全く心底にとどめおかず、みな忘れてしまった。詠歌のことは、花月に対して動感の折ふしにわずか三十一文字を作るばかりであって、奥旨などは全く知らない、云々―と。

このあと頼朝は銀の猫を贈り物として西行に渡したのだが、明くる日の正午に西行は引き止められたが退出し、その贈り物の猫を門前で遊んでいた子供に投げ与えたという。

この話を吉本さんはなにか遠くを見やりながら、でもこれが今の自分にとっては一番切実だというような感じで話された。まあ、いろいろ吉本さんの、このときの講演についてはこれから言われるかもしれないが、私はこの西行のエピソードを吉本隆明がこの現在に話したということ、そのことの意味をゆっくりと自分なりに考えていこうと思う。

「その余はざつ音のみ」(吉本隆明の、このイベントに寄せられた言葉の中より、その文脈を無視して引用する)

2009年6月14日日曜日

茅の輪くぐり

6月13日(土)朝日夕刊の、高橋睦郞さんのコラム『花をひろう』は、「あやめ」だった。わかりにくい。あやめ、菖蒲、花菖蒲が混然として使われている。古歌のあやめ、
 
  ○ほとゝぎすなくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもする哉
これを本歌とする、新古今、
打しめりあやめぞかをる郭公(ほととぎす)鳴くや五月の雨の夕ぐれ
   「摂政太政大臣(藤原良経)」
を引いて「このあやめは現在いうところのあやめではない。現在のあやめは植物学的にはアヤメ化の 渓蓀(あやめ)、対する古歌のあやめはサトイモ科の菖蒲のこと。花は渓蓀にくらべておよそ地味で、云々」とある。また、ここでいう菖蒲と現在の花菖蒲(今咲いている)とも違うようだ。現在の花菖蒲は大ぶりで鮮やかな色が多いが、これは品種改良が重ねられてこうなったのだろうと思う。高橋さんは「近世では現在のアヤメとハナショウブとを厳密に区別せず、場合によってアヤメともハナショウブとも呼んだようだ」と言う。ハナショウブは今のハナショウブのことだろう。これを書いているATOKの変換では、「あやめ」とうつと「菖蒲」という漢字も用意されているから、この混同は相当なものにちがいない。大辞林も「何れ菖蒲か杜若」とあり、あやめ、と読むのである。こう書いていると自分でも訳が分からなくなってくる。疲れて顎がはずれそうだ。次の詩も高橋さんの同じコラムで知ったもの。

顎        井伏鱒二『厄除け詩集』より

けふ顎のはづれた人を見た
電車に乗つてゐると
途端にその人の顎がはづれた
その人は狼狽へたが
もう間にあはなかつた
ぱつくり口があいたきりで
舌を出し涙をながした
気の毒やら可笑しいやら
私は笑ひ出しさうになつた

「ほろをん ほろをん」
橋の下の菖蒲は誰が植ゑた菖蒲ぞ
ほろをん ほろをん

私は電車を降りてからも
込みあげて来る笑ひを殺さうとした


― 橋の下の菖蒲は誰が植ゑた菖蒲ぞ
ほろをん ほろをん
という二行の「菖蒲」は花菖蒲だろう。花菖蒲をよく観察すると、はずれた顎にみえなくもないからだ。―

と高橋さんは書いている。井伏はルビを振っていないので「菖蒲」があやめか菖蒲かわからないが、「花菖蒲」というふうに睦郞さんは書いておられる。その理由は花菖蒲が「はずれた顎にみえなくもないからだ」。これがこのコラムの閉じめ。この文章自体が最後は井伏の厄除けと同様に、邪気祓え、水無月の祓えのような終わり方になっていて、さすがは高橋睦郞と言いたいが、もう少しこれらの花の異同をわかりやすくと思うのはおねだりのしすぎか。

井伏のこの詩の全文を「厄除け詩集」で読めたのも、このコラムの誘いのせいだった。感謝しよう。二連目の三行の転換がとてつもなく面白い。忘れそうもないオノマトペだ。

金曜日の遠足で、香取神宮も、鹿嶋神宮も「茅の輪」がこしらえてあったのを見た。左足から入って右足から出ることを三度繰り返し、次の歌を唱えなさい。水無月祓にはまだ早いが、すませてきました。
 ○水無月の夏越の祓する人はちとせの命延ぶといふなり

 
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(香取神宮)

2009年6月12日金曜日

遠足

潮来に遠足。「あやめ祭り」観覧。バスの日帰り旅行。正確には「あやめ」ではなくすべて花菖蒲。ここで、やっと「あやめ、杜若、菖蒲」の異同を自分なりに納得できるものにした(といっても、自信はない)。これが、この旅行の一番の功徳か。朝の7時半八王子より、午後6時八王子着。43名のパック旅行。自分たちも含めて後期?高齢者多し。でも、楽しかった。行程は潮来を中心にして、香取神宮(下総)と鹿嶋神宮(常陸)をめぐるもの。潮来と鹿嶋は初めてだった。

舟に乗る。

 
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菖蒲の群落

 
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急に思い出した、そうだ、ここは芭蕉の門弟、本間自準が隠栖した所でもあった。芭蕉と曽良が、ここ潮来で自準とまいた連句があり、その記念の碑がここの長勝寺という禅寺に
あるのだった。それを思い出して訪ねた。
 
 塒せよわらほす宿の友すずめ    主人(自準)
  あきをこめたるくねの指杉    客(芭蕉)
月見んと汐引きのぼる船とめて    ソラ

 
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潮来を後にして、鹿嶋神宮に寄る。その鬱蒼たる森に感動。ここに芭蕉の『鹿嶋詣』のかすかな跡を掃ふ。根本寺の仏頂和尚こそいまさね、などか「深省」の念を発せざらんや。

此松の実ばへせし代や神の秋    桃青

 
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雨杜鵑座禅豆

『常磐屋之句合』(延宝8年1680・芭蕉37歳)のなか、第九番。


夕べかな雨杜鵑座禅豆

右 勝
麦飯やさらば葎の宿ならで

これは杉風の自選句25番に芭蕉(栩々斎主人桃青)が評語(判詞)をつけたもの。野菜類の句合で遊びなのだが面白い。この判詞は「左の句、雨の夕べの淋しさをいはんとて、座禅豆といひ、郭公に慰めたるさま、興ありてきこえ侍れども、葎の宿ならぬ麦飯こそ猶珍しけれ。」とある。右がいいというのだが、この句は謡曲『定家』の「さらば葎の宿ならで外はつれなき定家葛」という詞が下敷きになっているということで、その良さがよく私にはわからないのだが、「麦飯」との取り合わせに、談林風にも飽きたらぬ勢いになってきた芭蕉たちの新風への動きが現れているのだろうか。左句はまさに取り合わせそのものといっていい句だ。「座禅豆」が俳諧の焦点をつくるわけだが、これを知らない。辞書で引くと「(座禅の際、小便を止めるために食べる習慣があったということから)黒豆を甘く煮た食べ物。」(大辞林)この句はまた新古今の俊成の歌「むかし思ふ草の庵のよるの雨に涙なそへそ山ほととぎす」を本歌的なものとして意識しているとも、岩波旧大系『芭蕉文集』の頭注からは読める。親と子の対決でもあるのだ。この句合わせの芭蕉の跋文がまた非常に面白いが、そのことについて書くエネルギーがない。

今朝(11日)、6時から8時まで湯殿川。傘をさし、合羽を着て歩いた。小学生の登校と行き違いながら家に帰った。雨はずっと降っていた。そのとき何かを思っていた。小学校の裏門が川の堤側にあるのだが、十本あまりの大きい、紅のタチアオイが咲いている。裏門に似合う花だと思っていたのだろうか。歩いていると気分が昂揚してくる。そういうとき何かを見ている、なにかを思っていると考えがちである。「見える」のではない、「見る」のだ、見えると見るがそのとき一致するというような、昔読んだだれかのものに書いてあったな、そういう一瞬が訪れる。梶井基次郎の『ある心の風景』(大正15年8月)の一節、
―「ああこの気持ち」と喬は思った。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或は全部がそれに乗り移ることなのだ。」―
という思い。最近はこの言葉を無意識のなかに探っていたのかもしれない。それと芭蕉がどう関係するのかまだよく分からないが、たぶん全く関係ないのだろうが、こういう思いに芭蕉をつなげてみたい気がする、したからここまで書いてみた。

2009年6月8日月曜日

軒の栗

芭蕉と曽良が白河の関を訪れたのは元禄2年、陰暦の4月20日、陽暦に直せば6月の7日である。昨日にあたるわけだ、そういうことに一々慨嘆するのは年のせいか。ここの文章も短い中に、古歌のコノテーションを十二分響かせている。引喩と「本歌取り」の文章。いよいよ陸奥の入り口であるという意味で、場所としては重要な所なのだが、一字一句たりともおろそかにしない彫塑された短い文章で、わりとあっさりとした感じでこの関所を越えてゆくという印象がまず私には強い。しかし、その短いなかで、直接言及される歌人・古人とその歌は五指にあまる。それらがまた様々な歌の「関所」を喚起するから「風雅」の広がりと連帯は時空を越えることになる。自句を載せないで、同行曽良の「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」にとどめているのは、おそらく次の「須賀川」の項との関連対照を考えたのだろうが、松島でもそうだが、わざと自らを沈黙させることで言葉を越えた感動を表現したいかのようでもある。「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」という言葉、古歌の洪水を芭蕉なりにしかと受け止めた一句である。

とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流の初やおくの田植うた
 
無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ。
 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られ、ものに書付侍る。其詞、
      
      栗といふ文字は西の木と書て、
      西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生
      杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

  世の人の見付ぬ花や軒の栗


須賀川の項を全文引用したのは、ここが好きだからという簡単な理由。裃をつけた全力投球の挨拶句という感じがする「風流の初やおくの田植うた」(これを出すために、白河での沈黙があったわけだ)よりも、拾遺的に書きとめられた後半部のアダージョの調子(詞書きがとくに好きなのだ)で書かれた「大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧」の話に惹かれる。これを読むと、「栗」という字を一生忘れることができなくなる。また「軒の栗」というモチーフが隠者のシンボルめいて表象されるのは歴史があるのだろうが、それはさておき、私はこの場面を描いた蕪村の絵の虜でもあることを告白しよう。芭蕉たちは元禄2年4月22日~29日までここに滞在した。
 

与謝蕪村筆「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
        (隠者可伸と栗の木)

 
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2009年6月6日土曜日

鳰鳥のすだくみ沼

 6月になった。2日(火曜日)、福間健二と相原の立ち飲み屋「毎度」で6時半頃から飲む。彼は最近は京王線で帰っているので、この横浜線はあまり使っていないというこ。久し振りに相原途中下車の立ち飲みの味。TOLTA作成の『トルタの国語』という傑作・怪作「国語テキスト」を貰う。TOLTAのメンバーであり、ここで「詩のセンター試験」という超絶的な詩の読解を試みている南谷君からぼくに渡してくれと頼まれたということで三冊も素晴らしい雑誌(詩誌とよんでもいいのだが)を貰ったのである。南谷君ありがとう。さて、福間さんと会ったからには「毎度」で済むはずがなく、八王子の「ティノ」に寄り、たぶん最終でお互いに帰ったのであった。痛快な夜だった。
 この TOLTA作成の『トルタの国語』については、稿を別にして感想文を書きたいと思う。読む前から、妙な言い方だが、絶対に面白いという予感がする。寄稿者にしても今一番ひりひり?している(させる)連中である。眠っていてはおられないのだが、あとで別に詳しく書くつもり。

 3日、二日酔いの気配を秘めつつ、山の上の学校で午前中4時間の連続で授業。いつのまにか昨晩の酒もすっかり抜けていた。

 4日、某所で小町谷照彦先生の源氏講義を聴く。「若紫」を読んでいる。この日は、源氏が引き取りを乞う若紫の「幼さ」のシンボルとして尼君が持ち出し、まずは拒否の姿勢を見せるときに「まだ難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれば」という、この「難波津」の歌、そのあとに源氏が自分の若紫への思いは決して浅くはないというときに「あさか山あさくも人を思はぬになど山の井のかけ離るらむ」と歌のほとんどを占める「あさか山」の歌についての話が印象に残った。この2歌については「古今和歌集序」に、
 
   難波津の歌は、帝の御始めなり。<大鷦鷯帝の難波津
   にて親王と聞こえける時、東宮を互ひに譲りて、位に
   就きたまはで、三年になりにければ、王仁といふ人の
   いぶかり思ひて詠みてたてまつりける歌なり。この花
   は梅花をいふなるべし>。安積山の言葉は、采女の戯
   れより詠みて、<葛城王を陸奥へ遣はしたりけるに、
   国司事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、
   すさまじかりければ、采女なりける女の土器取とりて
   詠めるなり。これにぞ王の心とけにける。安積山影さ
   へ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは>。この二
   歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人の始めにもし
   ける。
と説明されている。2歌が「歌の父母」であるという言い方はここに出て、この日に読んだ源俊頼の『俊頼髄脳』にも「これ二つは、歌の父母として、手習ふ人のはじめとして、幼き人の手習ひ初むる歌なりと、古き物にかけり。」と「古今・序」を指して言っている。
難波津の歌は「難波津にさくやこの花冬ごもり今ははるべとさくやこの花」。去年(2008年)紫香楽宮跡から発掘された木簡は確か「あさか山・安積山」と同じ歌だったのではなかったか。源俊頼の『俊頼髄脳』と藤原俊成の『古来風体抄』。浅香山の歌の伝承形態として、これらとは全く別の話を伝える『大和物語』155段の哀切なエピソードなどを読んでいると、時間感覚がうしなわれてしまい、この後に雑踏の町に出ると、自らが9世紀、10世紀、あるいは王朝の人物であるかのように思われて、距離がしばらくとれない。むしろそういう自分を、そう思う自分を、そうでない自分よりもできるだけながく存在せしめたいと思う。
 5日、朝日朝刊別冊(be on Saturday)の高橋睦郞さんのコラム「花をひろう」は「杜若」だった。そのなかに、「かきつばたの語頭が垣に通じることから平安時代以後はしばしば恋含みの隔ての心持ちをこめて詠まれた」と解説があり、紀貫之と源俊頼の歌が紹介されている。順に。

  君が宿我が宿わけるかきつばた移ろはぬ時見る人もがな
鳰鳥のすだくみ沼の杜若人隔つべき我が心かは
  
 6日(土曜日)、今日の朝日夕刊に光森裕樹という30歳の歌人の歌が載っていた。そのなかの印象に残った歌。

  花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへは知らず思春期

 この歌をうるさい歌論家だった源俊頼ならどう批評するだろうか。どういう「歌病かへい」と論ずるだろうか。試みに二首を並べてみる。

  鳰鳥のすだくみ沼の杜若人隔つべき我が心かは
花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへは知らず思春期 

「我が心」と「思春期」を飾る句の中身の違いはあれ、この形式の完璧に自若たる様は両歌の880年余りの時の隔たりを感じさせない。私は光森の歌の批評をしているのではない。歌の時間と空間の巨大さを今更ながら味わっているだけだ。日本語のというべきか。

今晩、インターネットのラジオでジャズボーカルを聴きながら、書いていた。ぞくっとするような少女の声が聞こえてきた。Nikki Yanofskyというカナダの天才少女、現在は15歳、7月ころ来日公演もあるようだ。12歳の初々しい、スイングしなければ意味がない、