雨。朝、一時間半ほどいつものように湯殿川の道を散歩する。蓑をつけてというわけにはゆかない。傘をさして。
その途中で、「ほそ道」の、
―闇中に摸索して「雨もまた奇なり」とせば、…―
という句を思い出して、口にしていた。だれもいない雨の朝の道だが。帰って、この後の句を確かめると、「雨後の晴色またたのもしき」というのであった。「象潟」の風光を文章のなかに閉じ込めようとするアクロバティックなエクリチュールが始まるところ。この身も歌枕や対句の響きに裂かれそうだが、雨に濡れた散歩が救うということもあるだろう。
そうだ。早苗のことを書こうとしていたのだ。堤の田に、苗代が一緒に作られていて、田植えを待つばかりの早苗の小さな青い群れが行儀よく並んでいた。苗代のそばにより、じっと見ていると、自分のDNAが何かを感知してうずくようだ。そこに深く書き込まれている弥生時代以来の記憶のようなものが目覚めるのだろうか。
―早苗とる手もとや昔しのぶ摺り―
この句の射程も想像を超えてはるかなものだという思いを新たにする。「風流のはじめや奥の田植歌」の句がどこか「文」に依拠しているのに比べて、「早苗」は自立している?こういう感想はばかげている。句文一体のエクリチュールをばらすことは元来できないからだ。
早苗とは雨に濡れける吾妹なり 蕃
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