2009年11月27日金曜日

詩と物語

Raymond Carverの新しい?伝記"A Writer's Life"(By Carol Sklenica・Scribner)というのが出た。これについて、あのStephen Kingが書評を書いている、その書評(Raymond Carver's Life and stories・nytimes.com.Nov22)を、あらかた読んだ。その書評自体についてはここでは書かない。

 Carverの死後一年経った1989年に出版されたCarver最後の詩集"A NEW PATH TO THE WATERFALL"邦題(村上春樹訳)「滝への新しい小径」を読み返して、これに限らずカーヴァーの村上春樹に対する深い影響ということを考えた。村上はカーヴァーが一番好きなんじゃないか。
 
 村上は先日(11月23日)、ロイター通信のインタビューに応じて、次のようなことを語っていた(asahi.com)。記事通りではないが、趣旨は同じ。

「ジョージ・オーウェルの『1984』は近未来小説だが、自分の『1Q84 』は近過去小説として書いた、それは過去はこうあったかもしれない姿ということで書きたいと思ったからだ」「1995のオウムによる地下鉄サリン事件や9・11の事件は現実の出来事とは思えない。そうならなかった世界というのは、どこかにあるはずだ、という気持ちがどこかにある」

以上の事は、ぼくには『滝への小径』の、テス・ギャラガー(カーヴァーの晩年を共にした、カーヴァーにとってはミューズとも言うべき共同生活者の女性詩人)の感動的な序文にある次の一節との照応を考えさせられた。実はこの詩集はテスの編集によるものといっていい(なぜなら、カーヴァーは癌の再発で、編集作業などをテスに任すよりしかたがなかった、というよりそういうことには無頓着だったというのが正確だろうが)、彼女が「アレンジしたものを二人で検討して」最終的には六つのセクションに分け、最初のセクションには旧作が収められた。その理由について、テスは述べている。

 それによってレイは、ちょうど自分の作品にチェーホフの時代を持ち込み(最初テスのチーェホフ熱狂があり、それがカーヴァーに伝染し、この二人は朝、昼、晩とカーヴァーの約2ヶ月後の死に至るまで、チェーホフ作品を語り合って飽きることがなかった、そこからカーヴァーはこの最後の自分の詩集に、彼が惹かれたチェーホフのパッセージを14個、まるで自分の詩のようにして自分の詩集に裁ち入れた、ぼく〈水島〉はこういう詩集の作り方もあるのだと深く納得する、カーヴァーをどうにかを生かしめたのはチェーホフの作品のようでもあるから)、根付かせたのと同じように、自らのかつての人生をもそこに運び入れたわけだ。そしておそらくそれらを想像力を介してとりこむことで、彼は双方の人生を変容させたのだろう。そういう点においては、ミウォシュの『到達されざる大地』の中の、彼がしるしをつけたパッセージがレイの密かな目的を説明しているかもしれない。(水島註:引用の引用になるから読みにくいけど、ミウォシュもカーヴァーの好きな詩人だった。ミウォシュはポーランドの詩人で、アメリカに亡命した。1980年にノーベル文学賞を受けた。『到達されざる大地』は原題は"UNATTAINABLE EARTH"で1986 年刊だから、カーヴァーが亡くなる2年前ということになる)

 カール・ヤスパースの弟子であるジャンヌが、私に自由の哲学というものを教えてくれた。それは今現在、今日なされているひとつの選択は、過去に向けて自らを投射し、我々の過去の行動を変化させることになるのだと認識することによって成立している。


村上はその『1Q84』でどう「過去の行動を変化させることになる」のだろうか?その第三巻は2010年の5月に出版予定であるという。彼は次のように応える。

 「僕はあまり日本語の日本語性というものを意識しない。よく日本語は美しいという人がいるが、僕はむしろそれをツールとして物語を書いていきたい。非常に簡単な言葉で、非常に複雑な物語を語りたいというのが目指しているところ… 」

こういうところが村上春樹の本領だとぼくは思うのだが、ここで核になっているのは「物語」への確信であるということを見逃してはならない。実はこれもカーヴァーの深い影響が関係しているのではないか。

 カーヴァーの詩は、小さな物語の宝庫である。すぐ短編小説になりそうなものもあれば、逆に短編が詩に変形されたものもある。彼ほど、詩と小説の垣根を取っ払った詩人、作家はいないだろう。村上の作品にカーヴァーのように「詩」を感じることは正直言って余りないのだが、彼が日常の一挙動に等しい微細な動きの観察者であり、そこからすぐに小さな物語をいくらでも立ち上げ、それを最後には時間の流れとともに不可解な人生そのものにも匹敵する大河に化してしまう端倪すべからざる力量を持っている稀有な長編作家であることは認めざるをえない。一方は小さな「内なる声」にすべてのエクリチュール(詩であれ、短編小説であれ)がその歩みを誠実に刻印するとしたら、もう一方はその「内なる声」を信じることが不可能な時代、それを歩むための策略に満ちた「誠実」さというようなものを、その長編に仕組まなければならない時代の作家であるということだ。つまり「冷戦後」を書くとは、1988年に亡くなったカーヴァーとは異なる過酷さを作家に強いるだろうということ。しかし、ぼくは村上の書くことの基本にカーヴァーの破滅と祈りがあることをどこかで信じている。

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