若い人たち三名と、国立で飲んだ。詩の話を脈絡もなく、延々としたような気がする。帰りは、一人で片倉まで、寝過ごしもせず、わりとまともな状態で帰還する。どんな話をしたのか、どんな話を聞いたのか、それがいつもおぼろげである。しようがない。でも楽しかったなあという感じはいつまでも残っていて、それが悪酔いもさせず、今朝もなんとか早く起床させ、仕事にも行くことができた、そのエネルギーになっているのであろう。
話は変わるが、ぼくは自分の詩の朗読は下手だが、吉増剛増の真似は上手だと思っている。そういう詩のカラオケのようなものはないのかな、時々胸中の声を出したくなるよ。
ル・クレジオの話聞きたかったけど、忙しくて行けなかった。
平山郁夫が亡くなったが、友人は自分のことをかつて裏山行夫と称して、裏山にあたる高尾山のあれこれのルートを完全制覇したと笑いながら喋ったことがあった。
今年の1月に急逝した笹井宏之という若い歌人がいたが、彼の「ねむらないただいっぽんの樹となってあなたのワンピースに実を落とす」という歌がとても好きだ。
昨晩飲んだ若い人たちの感度の良さと優しさに還暦(を超えた)者は感動した。
毎度カーヴァーですみません、ちょっと大谷良太の生鮭のムニエルの詩を読み、カーヴァーのこいつは生きている鮭の詩を思いだしたので、それはAT NIGHT THE SALMON MOVEというタイトルの詩で、
AT night the salmon move
out from the river and into town.
They avoid places with names
like Foster's Freeze, A&W, Smiley's,
but swim close to the tract
homes on Wright Avenue where sometimes
in the early morning hours
you can hear them trying doorknobs
or bumping against Cable TV lines.
We wait up for them.
We leave our back windows open
and call out when we hear a splash.
Mornings are disapointment.
ついでに村上春樹の訳も書いておこう。
夜になると鮭は
川を出て街にやってくる
ファスター冷凍とかA&Wとかスマイリー・レストランといった場所には
近寄らないように注意はするが
でもライト・アヴェニュー の集合住宅のあたりまではやってくるので
ときどき夜明け前なんかには
彼らがドアノブをまわしたり
ケーブル・テレビの線にどすんとぶつかったりするのが聞こえる
僕らは眠らずに連中を待ちうけ
裏の窓を開けっぱなしにして
水のはね音が聞こえると呼んだりするのだが
やがてつまらない朝がやってくるのだ
とても、いいよ。読み返してみて、昔気づかなかった部分が見えてくる。「朝」は英語ではMornings なんだ。この複数形にこめられたニュアンスを村上は「やがてつまらない朝がやってくるのだ」という習慣的、繰り返し的な響きをこめて「…くるのだ」と訳したのだろうね。アメリカのbottom dogsのような生活者の夜の意識がここには幻想的に、ロマンティックに定着されている。これに大谷良太の「今泳いでいる海と帰るべき川」の情動のようなものを比較するとどういうことが言えて、どういうことが言えないだろうか。
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