昨日(15日)は今期最後の授業だった。いつもは50名ほどのプリントの用意で済むのに、55部用意したプリントが全部なくなって、プリントなしで受講していた学生もいた。自分自身のものを遅れてきた学生で、見知っている女子学生に渡したから、あとは空で話をするしかなかった。これは最後の授業なので、今までサボっていた諸君も顔を出したということだろう。高校の時の教え子で、この大学の英文の修士で、今年はドクターのコースを受けるというSさんがご苦労さんという意味もこめてか、聴きに来ていた。授業が終わってSさんを連れて、一時間ほどビヤホールで生ビールを飲みながら(うまかったこと!)あれこれ話す。Sさんの友人でFlannery O'Connor を修論に書いた人のことなど、その論文が優秀で何とかという賞を貰ったということ(賞状はなくて、賞金だけが出るという)。Sさんと、この友人は去年二人で授業を聴きに来てくれたこともあった、一緒に飲もうなどと話したが、その友人は今は就職して福島にいるということ。そういうことや、ドクターに行けたらHenry JamesをやりたいなどとSさんは語った。
Flannery O'Connor の書簡集" The habit of being"の話を授業で少しした。この書簡集はオコーナーが39歳に宿痾の病、狼瘡(lupus)で亡くなってから15年目の1979年に出版されたものだ。編者は生前深い親交のあったSally Fitzgeraldという女性の書評家である。このタイトルももちろん彼女が付けたものだ。1948年(オコーナー23歳)から死の年1964年までの彼女が出した手紙792通が収録されている。相手は友人、編集者などだが、手紙のどの相手も職業などとは関係なしに、オコーナーが発する精神性の磁場のなかで、日々の些細な話題から病気のこと、オコーナーの作品のことなどをめぐり率直に誠実に相互に「書きあった」ということが、オコーナーの手紙だけからでもよくわかる。このタイトルもすばらしいと思う。たぶん、こういうことだと思う。存在すること、それを習慣としてとらえること、習慣という言葉がここでは精神の姿勢、才能のようなものとして捉え返されている。アメリカの南部という世界で生き、書いた人間、しかも宿痾を背負った人間がが、自らを支える「習慣」として、まず一番目に「書くこと」の習慣を身につける、そして次にそれよりも大切な、第一の習慣を包み込む大きく深い習慣として、生存する、生きる、あるBeingということを自らの内部から捉え直したのだということ。みなさん、簡単なことのように見えますが、そうでしょうか? でも、この二つの習慣を目の前にはっきりと意識してみてください。オコーナーは書くことに興味を持っている若い人たちにもよく助言したそうです、「書くのです、あなたが書けることを、そうすればあなたは、あなたがなれるはずのものになる」(You write, she repeatedlys said, what you can. And you become, we can further infer, what you canと編者のSallyは書いています)。
創作と存在を、結びつけて下さい。「習慣」という言葉を、その陳腐さではなく、驚きと新鮮さで捉えるようにして。以上のようなことを喋って今年の授業は終わったのだ。
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