2010年1月24日日曜日

アイヒェンドルフの思い出のために

アドルノの「文学ノート」Ⅰ・Ⅱ(みすず書房)を、ここ最近ずっと読んでいて、その思考のスタイルに引き込まれている。博識は言うまでもないが、博識を打ち砕く弁証法的過激さとでもいうべきものや、その論理展開と文章自体の面白さ、いろいろある。とくに音楽に関する思考の鋭さは、楽理に対する通暁と作曲家を当時の時代や哲学を背景にしながらその限界と未来を語り尽くすといった仕方で述べることにおいて、アドルノをしのぐ人はいないだろうと思う。「文学ノート」ではないが、「ベートーヴェン 音楽の哲学」(作品社)におけるベートーヴェン後期作品の解釈の切れ味のすごさ、「ベートーヴェン 晩年の様式」と題された断片の深さ、ここからエドワード・サイードの「晩年のスタイル」という概念も生まれたのだった。その全部をここに書き写したくなるのだが、『アイヒェンドルフの思い出のために』(「文学ノート」所収)と題された、後期ロマン主義の詩人、作家であるヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788-―1857)の詩について論じたエッセイがある。そしてこのエッセイの終わりには「コーダ-シューマンの歌曲」と題されていて、「アイヒェンドルフの詩によるシューマンの歌曲集、作品39は、抒情的連作歌曲(チクルス)の傑作の一つである」と始まる、それこそシューマン音楽への蘊蓄を傾けながら専門馬鹿のような自己満足には堕さないぞといったアナリーゼが12の歌曲すべてに施されている。私にはここを紹介する余裕はない。カルチャーセンターなどで流行るレクチュアコンサートなどにも行って聴いてみたいと思うのだが、私の能力を超えている。もちろんアドルノのレクチュアも。しかし、―「リーダークライス」の構造はテクストの内実ともっとも密接な関連に置かれている―という言葉を読んだだけで、アドルノがどんなにふかくテクストであるアイヒェンドルフの詩に読解の自信があり、なおかつシューマンの曲の全体の布置に対して自らの理解の自信があり、そこから、はやるように言っているのがよくわかる。ああ、こういうとき楽理がもっと分かればなあと己の非才を嘆くばかりである。ここではアイヒェンドルフの「憧憬」という詩をアドルノ(サイ-ドによれば、アドルノ=晩年のスタイルの憂鬱な薄明をつかさどる大司祭、といういささか揶揄的な異名をたてまつられることもあるのだが、この読解はみずみずしくロマン主義的である)がどう解釈するかを同エッセイから抜き書きしておこう。まずアイヒェンドルフの詩。

憧憬

星々が金色に輝き、
一人で窓辺に立っていた僕に
遠くのほうから聞こえたのは
静かな田舎に響く郵便馬車の角笛。
心が身体のなかで燃え上がって、
僕は秘かに考えた。
ああ、郵便馬車に乗って行ける人はいいなあ
こんなきらびやかな夏の夜に!

二人の若者が
山の斜面を通り過ぎて行った、
僕には彼らが、静かな山道を歩きながら、
歌うのが聞こえた。
めまいがするような峡谷で、
森が穏やかにざわめいているのを、
清水が、断崖から
夜のような森に流れ落ちるのを。

彼らは歌う、大理石の像の数々を、
庭園が、岩の上で
夕暮れの樹々の蔭で荒れ果てるのを、
月の光に照らされた宮殿で、
少女たちが窓辺でじっと耳を澄ましているのを、
リュートの響きが目覚めるときに、
泉が寝ぼけてざわめくときに、
こんなきらびやかな夏の夜に。


以下○印は特記すべきアドルノの解釈、つまり私の好きな言い方。

○夜の風景について、それが靜かだと言うほど、いい加減な言い方はないし、郵便馬車の角笛ほど陳腐を極めるものもない。だが、静かな田舎に響く郵便馬車の角笛となると、これは意味深長な矛盾である。なぜなら、角笛の響きは静けさを破壊するのでなく、静けさ自身のアウラとなって、静けさをはじめて静けさにするからである。

○山についての四行が「君は知るや。レモンの花咲く国を」の影響下にあることは明白である。だが、「断崖をなす岩を、清水が駆け下りる」という、力強い、呪縛するようなゲーテの詩句と比べると、アイヒェンドルフの「森が穏やかにざわめいているのを」というピアニッシモはまるで天と地ほどに違う。アイヒェンドルフのこの詩句は、いわば聴覚の内空間でしか聞こえないような、微かなざわめきというパラドックスであり、そのなかへと消え去る壮大な風景は、イメージのはっきりした輪郭を犠牲にして、開かれた無限へと逃れてゆく。そうであればこの詩のイタリアも、官能的欲求の確固とした到達点なのではなく、それ自身が憧憬のアレゴリーにすぎず、うつろいやすいものの、荒れ果てたものの表現に覆われ、充足された現在ではほとんどないのだ。

○音楽の再示部と同じように、詩は円環をなして閉じている。きらびやかな夏の夜に一緒に旅に出たいと思っている者の憧憬の実現として、きらびやかな夏の夜がやはり憧憬自身として、再び姿をあらわす。この詩はいわば、「至福の憧憬」というゲーテの詩のタイトルのまわりを縁どっている。憧憬は自己自身を到達点として、自己自身のなかへと流れ込むのだ、それはまさに、憧憬をいだく者が、憧憬の無限性のなかに、あらゆる特定なものを超越したところに、自己自身の内的なあり方を見出すのと同じことである。愛は恋人のためにあるのと同様に、愛のためにもある。詩の最後のイメージが、窓辺でじっと耳を澄ましている少女たちに辿りつくことから、憧憬がエロティックなものであることはわかる。だが、アイヒェンドルフが至るところで肉欲を覆い隠す沈黙は、幸福の最高の理念に転化する。幸福のこの理念にあっては、憧憬そのものが充足に他ならず、神性の永遠の観照に他ならない。(訳はすべて、恒川隆男のものによる)


なんという読解であろうか。あの憂鬱なアドルノも、アイヒェンドルフの詩をシューマンの曲とともに「自明なもの」としてギムナジューム時代の親密な記憶と共に生きてきたのであるからか、これを書いているアドルノの中になにか明るいものとして輝いているのはたしかである。

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