Home Word
TAIYO NAというニューヨーク在住の若い日系アメリカ人グループのヒップホップのCD "HOME:WORD" を聴いている。金曜日、千石氏の授業の特別ゲストとしてTAIYO(太陽)君と、弟の大地君が招かれていて、実際に彼らの話を聞いた。ニューヨークにおけるとくに日系の若いミュージシャンの置かれている差別的な状況など、そういうなかでヒップホップにこめるプロテストの意味など、はじめてで心に残る話だった。日本のいとこの結婚式のために来たということ、千石さんとは、彼の知り合いの中里さんというニューヨーク在住の画家(千石さんの話によれば、この夏、町田市立国際版画美術館で中里さんの展覧会があって、そのオープニングに中里さんは来日し、そして帰米するが、自宅で不慮の事故に遭い急死したという。)を介しての古い付き合いだということだった。千石さんが学生(大学院の授業だが)たちのために自分の授業に招待したわけだ。日本語も上手で、いとこの要望でその結婚式ではじめて歌ったという日本語の歌(「魔女の宅急便」のテーマソング?)をギターを弾きながら生で披露してくれた。これもすばらしかった。気持ちのいい若者たちだった。ニューヨークに来たら連絡してくださいとも言われた。
Asian Americanとしてのアイデンティティの問題、それが主なテーマのようだ。Bob DylanはNo Direction Homeと帰属を否定できるわけだが、彼らのように始終いろんな場面で、どこら来たのか?どこなのか?と問われ続けざるをえない場合、Homeを真っ正面から問題にせざるをえないし、そこから「歌」が生まれてきて、その歌はなにかとても切ない。
タイトルのHome WordはこれとHomeward(家の方へ)のpunになっている。
You tube にある彼らの代表的なアルバムを以下に紹介しておこう。
2010年11月23日火曜日
Rockaby
ベケットの"Rockaby"はマザーグースの"Rockabye, baby"の声をその奥にとどめている。たとえ、それが死にゆく老女の終わりの声と、柔らかな幼子を眠らせる声の響きの対照で際立っているにせよ。ベケットの"Rockaby"の終わりで、「声」が痛烈に言う、
fuck life(人生なんて、くそったれ)
このひとの目を閉じてあげて
rock her off(ゆらりゆらりこの人を眠らせてあげて)
rock her off(ゆらりゆらりこの人を眠らせてあげて)
マザーグースの"Rockabye, Baby"
Rockabye, baby, on the tree top, おやすみ赤ちゃん 木の上で
When the wind blows the cradle will rock; 風が吹けば ゆりかごゆれる
When the bough breaks the cradle will fall, 枝が折れれば ゆりかご落ちる
And down will come baby, cradle, and all. 赤ちゃんかごごと みんなみな落ちる
fuck life(人生なんて、くそったれ)
このひとの目を閉じてあげて
rock her off(ゆらりゆらりこの人を眠らせてあげて)
rock her off(ゆらりゆらりこの人を眠らせてあげて)
マザーグースの"Rockabye, Baby"
Rockabye, baby, on the tree top, おやすみ赤ちゃん 木の上で
When the wind blows the cradle will rock; 風が吹けば ゆりかごゆれる
When the bough breaks the cradle will fall, 枝が折れれば ゆりかご落ちる
And down will come baby, cradle, and all. 赤ちゃんかごごと みんなみな落ちる
2010年11月15日月曜日
Ohio Impromptu
どうしてこう疲弊するのだろうか?辛気くさい、老人の繰り言か。
ベケットの「オハイオ即興劇」を読む。何故か知らんが、ベケットのことが最近いつも気にかかる。なにも知らないのに。極北のようなものか、あそこまで行けば文学も根絶やしだろうと思うからかもしれない。とにかく最近、「文学」が嫌になってきた。詩もそうかも。小説は読む体力がない。リョサも借りてきたけど、ほったらかし。
英語で読みたいけど、面倒くさい。アマゾンの古書の出品のなかに、ベスト・オブ・ベケット3(白水社)「しあわせな日々・芝居」があって、そのなかに「オハイオ即興劇」も入っていた。700円ぐらいだった。今日届いていた。読んだ。このわけのわからなさの快感。現実と虚構と芝居と分身と読むことと聴くことの、すべてが曖昧な影を帯び、画定できない境や閾が息づきはじめて、いやすべてが…、
最初に読み手は聞き手に向かって「語るべきべきことはもうほとんど残っていない。これを最後の…」と始まるテキストを読むのだが、これが舞台上の二人の役者(reader とlistenerという役柄)によって演じられる。この二人は区別不可能なほどに似ているという設定がある。聞き手は机の上をノックすることにより、朗読の部分を後退させたり進行させたりする。
そのテキストの内容は、聞き手に対する誰かからの(聞き手が愛して、別れた人)メッセージのようでもある。その話は聞き手の経験のすべてがそこに記録されたもののようでもある。しかし読み手もすべてを理解して読んでいる、一つの身ぶりは、これは間違いないな、と言いながら、本を覗き込むのだが、これは間違いないな、と書かれているそこを読んでいるのである、そういう身ぶりがある。自分が書いたものを確認することの、その文字が、そのとおりそのページに書かれていて、それを読んでいるという仕掛け。
その読まれるテキストの中の印象的な部分、
「川の二つの腕は、なんと喜ばしい渦を巻きながら相混じり、相抱いて流れ去ることか」、これには訳者(高橋康也)の注釈があって、「ベケットには珍しい抒情的エロティシズム」とある。
最後の部分で読まれるテキストの内容、それは読み手と聞き手の「今」を語るものでもある、
「そこで例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直され、二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。ひとつしかない窓からは、夜明けの光も差さなかった。外の通りからは、ひとびとのめざめる物音も聞こえなかった。それとも、ゆえ知らぬ思いに耽っている二人の男にとって、それらのことはどうでもよかったということなのか?朝の光とか、めざめの物音などは。いかなる思いか、知るよしもない。思い?いや思いではない。心の深き淵だ。故しらぬ心の深き淵に沈んで。心呆けたる深き淵。いかなる光も届きえぬところ。いかなる物音も。かくして二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直された」、
注意、これはその読まれる物語であるということを忘れるな。この芝居の二人の訳者への言及とまがうこのテキスト、テキストと舞台上の区別が一気に混同される。
そして最後、もちろんこれもその読まれるものに書かれている内容を読み手が読む、
「語るべきことはもうなにも残っていない」、もう一回、この台詞がある。
そして最後のト書き、
―― 二人は同時に右手をテーブルにおろし、顔をあげ、互いに見つめあう。まばたきをしない。表情のない顔。十秒。 溶暗。――
「考え、いや、考えではない。こころの深み。どんな深みだか誰も知らないところに沈められ。こころの、ではない、こころのない深みに」(...profounds of mind. Of mindlessness.)
というような訳もある。こちらの訳のほうが好きだ。
ベケットの「オハイオ即興劇」を読む。何故か知らんが、ベケットのことが最近いつも気にかかる。なにも知らないのに。極北のようなものか、あそこまで行けば文学も根絶やしだろうと思うからかもしれない。とにかく最近、「文学」が嫌になってきた。詩もそうかも。小説は読む体力がない。リョサも借りてきたけど、ほったらかし。
英語で読みたいけど、面倒くさい。アマゾンの古書の出品のなかに、ベスト・オブ・ベケット3(白水社)「しあわせな日々・芝居」があって、そのなかに「オハイオ即興劇」も入っていた。700円ぐらいだった。今日届いていた。読んだ。このわけのわからなさの快感。現実と虚構と芝居と分身と読むことと聴くことの、すべてが曖昧な影を帯び、画定できない境や閾が息づきはじめて、いやすべてが…、
最初に読み手は聞き手に向かって「語るべきべきことはもうほとんど残っていない。これを最後の…」と始まるテキストを読むのだが、これが舞台上の二人の役者(reader とlistenerという役柄)によって演じられる。この二人は区別不可能なほどに似ているという設定がある。聞き手は机の上をノックすることにより、朗読の部分を後退させたり進行させたりする。
そのテキストの内容は、聞き手に対する誰かからの(聞き手が愛して、別れた人)メッセージのようでもある。その話は聞き手の経験のすべてがそこに記録されたもののようでもある。しかし読み手もすべてを理解して読んでいる、一つの身ぶりは、これは間違いないな、と言いながら、本を覗き込むのだが、これは間違いないな、と書かれているそこを読んでいるのである、そういう身ぶりがある。自分が書いたものを確認することの、その文字が、そのとおりそのページに書かれていて、それを読んでいるという仕掛け。
その読まれるテキストの中の印象的な部分、
「川の二つの腕は、なんと喜ばしい渦を巻きながら相混じり、相抱いて流れ去ることか」、これには訳者(高橋康也)の注釈があって、「ベケットには珍しい抒情的エロティシズム」とある。
最後の部分で読まれるテキストの内容、それは読み手と聞き手の「今」を語るものでもある、
「そこで例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直され、二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。ひとつしかない窓からは、夜明けの光も差さなかった。外の通りからは、ひとびとのめざめる物音も聞こえなかった。それとも、ゆえ知らぬ思いに耽っている二人の男にとって、それらのことはどうでもよかったということなのか?朝の光とか、めざめの物音などは。いかなる思いか、知るよしもない。思い?いや思いではない。心の深き淵だ。故しらぬ心の深き淵に沈んで。心呆けたる深き淵。いかなる光も届きえぬところ。いかなる物音も。かくして二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直された」、
注意、これはその読まれる物語であるということを忘れるな。この芝居の二人の訳者への言及とまがうこのテキスト、テキストと舞台上の区別が一気に混同される。
そして最後、もちろんこれもその読まれるものに書かれている内容を読み手が読む、
「語るべきことはもうなにも残っていない」、もう一回、この台詞がある。
そして最後のト書き、
―― 二人は同時に右手をテーブルにおろし、顔をあげ、互いに見つめあう。まばたきをしない。表情のない顔。十秒。 溶暗。――
「考え、いや、考えではない。こころの深み。どんな深みだか誰も知らないところに沈められ。こころの、ではない、こころのない深みに」(...profounds of mind. Of mindlessness.)
というような訳もある。こちらの訳のほうが好きだ。
2010年11月1日月曜日
佐藤泰志・国分寺・海炭市
11月3日(文化の日)、国分寺駅8階のエルホールというところで、『佐藤泰志ゆかりの国分寺で海炭市叙景に出会う』というタイトルのイベントが午後2時から開催されます。
佐藤泰志はご存じの方も多いと思いますが、すぐれた小説家で、痛みと歓び、無残さと救いが同居したようなすばらしい光と影に満ちた青春の小説を多く書きました。
かれの残した「海炭市叙景」という作品が、彼の故郷北海道函館の市民発のエネルギーの結集の賜物として映画化されたことはメディアなどの報道などにより耳目に新しいところです。佐藤が生前住んでいて、その作品の舞台にもしている国分寺で、この映画の応援を兼ねて、監督や出演者などのトークや朗読などを行います。詳しいプログラムは以下の通りです。あがた森魚さんはこの映画に出演しています。
プログラム
第1部/2時~2時45分
◆予告編の上映
◆俳優・キタイマコトさんによる
「まだ若い廃墟」の朗読
◆あがた森魚さんミニコンサート(赤色エレジー他)
☆休 憩/15分
第2部/3時~4時半
◆トークショー
出演/熊切和嘉監督
越川道夫プロデューサー
あがた森魚さん
岡崎武志さん(書評家)
◆観客からの質疑応答
(会費は千円ということです)
詳しいことは、この企画の中心である井田ゆき子さん(泰志の高校の後輩)に。
TEL;090-7724-6311
FAX;042-361-8728
ぼくは佐藤とは面識がありませんが、佐藤の友人たちの一人木村和史の知り合いです。また佐藤が現在のようにまとめられてはいない「海炭市叙景」の1、2、3すなわち「まだ若い廃墟」「青い空の下の海」「冬を裸足で」を1988年最初に発表した雑誌『防虫ダンス』(加藤健次編集)に書いたこともあります。佐藤の海炭市叙景と一緒の号だったかは定かではありませんが。かれの長編「きみの鳥は歌える」などをリアルタイムで読んだことを思い出します。
本来なら木村がこの会の司会をするはずでしたが、よんどころない事情でできないということで、ぼくが代わりにやることになりました。皆様のご来場をお待ちします。
佐藤泰志はご存じの方も多いと思いますが、すぐれた小説家で、痛みと歓び、無残さと救いが同居したようなすばらしい光と影に満ちた青春の小説を多く書きました。
かれの残した「海炭市叙景」という作品が、彼の故郷北海道函館の市民発のエネルギーの結集の賜物として映画化されたことはメディアなどの報道などにより耳目に新しいところです。佐藤が生前住んでいて、その作品の舞台にもしている国分寺で、この映画の応援を兼ねて、監督や出演者などのトークや朗読などを行います。詳しいプログラムは以下の通りです。あがた森魚さんはこの映画に出演しています。
プログラム
第1部/2時~2時45分
◆予告編の上映
◆俳優・キタイマコトさんによる
「まだ若い廃墟」の朗読
◆あがた森魚さんミニコンサート(赤色エレジー他)
☆休 憩/15分
第2部/3時~4時半
◆トークショー
出演/熊切和嘉監督
越川道夫プロデューサー
あがた森魚さん
岡崎武志さん(書評家)
◆観客からの質疑応答
(会費は千円ということです)
詳しいことは、この企画の中心である井田ゆき子さん(泰志の高校の後輩)に。
TEL;090-7724-6311
FAX;042-361-8728
ぼくは佐藤とは面識がありませんが、佐藤の友人たちの一人木村和史の知り合いです。また佐藤が現在のようにまとめられてはいない「海炭市叙景」の1、2、3すなわち「まだ若い廃墟」「青い空の下の海」「冬を裸足で」を1988年最初に発表した雑誌『防虫ダンス』(加藤健次編集)に書いたこともあります。佐藤の海炭市叙景と一緒の号だったかは定かではありませんが。かれの長編「きみの鳥は歌える」などをリアルタイムで読んだことを思い出します。
本来なら木村がこの会の司会をするはずでしたが、よんどころない事情でできないということで、ぼくが代わりにやることになりました。皆様のご来場をお待ちします。
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