My Favorite Things
pasta and udon on table for lunch
when get yelled at for asking it
standing between Dad and Mom
licking cleanly a plate with cream
after Mom ate strawberries
always calling for feed on my kind parents
They would gladly do like a servant
fresh water, flesh of freshly fish
crisp sand for my peeing
lying on my back in winter warm room
purring is all that I can do in return
stinging beard and soft chest
the blue of clematis outside of window
Is this the way one lives and dies?
watching over their delights and sorrows
the whole thing my loved ones do
from the transparent sky
父と母との間で背伸びして食べるうどん、パスタ、そーめん、らーめん
小さな手を出しては父に叱られる
母が苺を食べた後の
練乳の残った皿をピカピカになるまで嘗めること
決まって、朝と夜、優しい父と母を呼ぶこと、
そのとき彼らは私の召使い
水と食事を私に用意し
私のバスルームを掃除する
冬の日に、暖かい部屋でおなかを上にして寝ること
父と母の愛撫に喉を鳴らして応えてやること
痛いひげと柔らかな胸
窓から眺めるクレマチスの緑
こうして私は生き
こうして私は去る
でも、空の上から眺めている
彼らの歓び、悲しみ、彼らのすべてを
2011年4月27日水曜日
2011年4月25日月曜日
In memory of our cat called"Atom."
In memory of our cat called"Atom."
Some two inches from my nose
The frontier of our family lies motionless
Breathless, once that blows you like blazes.
Yet he beckons you to fondle himself,
Beware of rudely crossing it:
He has no gun, but he can scratch on your heart.
(note)
Atom is dead today. He was 21 years old.
There are some quotations in this poem. But I don't specify it.
2011年4月24日日曜日
Climb Every Mountain
16日、娘夫婦を心配して、こんな苦難の時に来日してくれたDonとDoloresを囲んでささやかなパーティを我が家で開く。二人は21日にテキサスに帰る。
21日、国立市公民館の古典講座「源氏物語の世界」(各月1回で全5回シリーズ)始まる。30名余りの受講者。終わった後、呼び止められる。非常勤で行っている高校の卒業生で、今上智大独文の3年生だというKさん。市の広報で見て(木曜日は大学の講義のない日だったし、先生の名前を見て懐かしかったから)受講者として申し込んだら当選したという。
びっくりしつつもうれしかった。この講座の前に、「奥の細道」を2年がかりで読みあげたが、そのときの受講者の男性陣も5名ほどいたので心強い。
23日、大佑(東高の卒業生)の結婚式。長駆、那須塩原まで、と書きたいのだが、新幹線で1時間余り、八王子から乗り換えなどを含めて3時間足らずで到着した。沛然たる雨。
塩原駅に待機していた送迎用のバスに40分ほど乗り那須高原のセント・ミッシエル教会という式場に着く。主イエスの前での結婚式である。そのあと披露宴は、降り止まぬ雨の中会場のミッシエルガーデンコートというイギリスのマナーハウスを模した館へバスで15分ほどの移動。雨のために視界は全然きかない。披露宴での大佑の挨拶に「下野の国、一宮の二荒山神社の龍神を招いたような雨で…」といような即妙の言葉があった。荒れ狂うかに見える龍神の神慮はすべてを癒し豊年を予告するものに他ならない。研ぎすまされた鋼鉄のような肉体を真っ白の礼服に包んだ現職の自衛隊員、終始笑みを絶やさぬ31歳の大佑を見つつ、そこに龍神の化身を感じたのは酔いのせいだったろうか。この男は式が終わればまた、被災地の支援に赴くのである。
知性高く美貌をも兼ねそなえた新婦については、大佑の高校時代の友人たち、中村哲也、佐久間隆介、豊田秀秋などの、「あいつにこんな美人が、ラッキーなやつだ、…」という言葉にならぬため息交じりの羨望の様がすべてを語って余りあるものだ。
隆介は余興で斉藤和義の二曲を玄人のような素晴らしいギターの弾き語りで歌ってくれた。彼はこの演奏のためにノンアルコールビールで控えていたから、式が終わって塩原駅前のいかにも田舎の定食屋という風情の店で二人で地酒の熱燗を傾けていろいろ語り合ったのも深く思い出に残ることになった。
私は挨拶で、大佑が高校1年の時の文化祭でミュージカルsound of musicのトラップ大佐を演じたことなどを紹介し、彼の人となりについて、苦労をいとわぬ、そして悩む力を持った人間であるとまとめたが、思うことの半分も言えなかったような気がする。よせばいいのに、これこそがsound of musicのテーマソングだと私が思う次の曲の詩を朗読した。この二人のこれからの「生」にふさわしいと思ったからだ。
Climb Every Mountain
Climb every mountain
Search high and low
Follow every byway
Every path you know
Climb every mountain
Ford every stream
Follow every rainbow
Till you find your dream
A dream that will need
All the love you can give
Everyday of your life
For as long as you live
Climb every mountain
Ford every stream
Follow every rainbow
Till you find your dream
すべての山に登りなさい
高い所も低い所も探しなさい
知っているすべての脇道や
あらゆる小道をたどりなさい
すべての山に登りなさい
すべての流れを渡り
すべての虹を追いかけなさい
あなたの夢を見つけるまで
その夢をかなえるには
あなたの愛すべてが必要だから
来る日も来る日も与え続けなさい
あなたの命がある限り
すべての山に登りなさい
すべての流れを渡り
すべての虹を追いかけなさい
あなたの夢を見つけるまで
(以上、イースターの日に記す)
21日、国立市公民館の古典講座「源氏物語の世界」(各月1回で全5回シリーズ)始まる。30名余りの受講者。終わった後、呼び止められる。非常勤で行っている高校の卒業生で、今上智大独文の3年生だというKさん。市の広報で見て(木曜日は大学の講義のない日だったし、先生の名前を見て懐かしかったから)受講者として申し込んだら当選したという。
びっくりしつつもうれしかった。この講座の前に、「奥の細道」を2年がかりで読みあげたが、そのときの受講者の男性陣も5名ほどいたので心強い。
23日、大佑(東高の卒業生)の結婚式。長駆、那須塩原まで、と書きたいのだが、新幹線で1時間余り、八王子から乗り換えなどを含めて3時間足らずで到着した。沛然たる雨。
塩原駅に待機していた送迎用のバスに40分ほど乗り那須高原のセント・ミッシエル教会という式場に着く。主イエスの前での結婚式である。そのあと披露宴は、降り止まぬ雨の中会場のミッシエルガーデンコートというイギリスのマナーハウスを模した館へバスで15分ほどの移動。雨のために視界は全然きかない。披露宴での大佑の挨拶に「下野の国、一宮の二荒山神社の龍神を招いたような雨で…」といような即妙の言葉があった。荒れ狂うかに見える龍神の神慮はすべてを癒し豊年を予告するものに他ならない。研ぎすまされた鋼鉄のような肉体を真っ白の礼服に包んだ現職の自衛隊員、終始笑みを絶やさぬ31歳の大佑を見つつ、そこに龍神の化身を感じたのは酔いのせいだったろうか。この男は式が終わればまた、被災地の支援に赴くのである。
知性高く美貌をも兼ねそなえた新婦については、大佑の高校時代の友人たち、中村哲也、佐久間隆介、豊田秀秋などの、「あいつにこんな美人が、ラッキーなやつだ、…」という言葉にならぬため息交じりの羨望の様がすべてを語って余りあるものだ。
隆介は余興で斉藤和義の二曲を玄人のような素晴らしいギターの弾き語りで歌ってくれた。彼はこの演奏のためにノンアルコールビールで控えていたから、式が終わって塩原駅前のいかにも田舎の定食屋という風情の店で二人で地酒の熱燗を傾けていろいろ語り合ったのも深く思い出に残ることになった。
私は挨拶で、大佑が高校1年の時の文化祭でミュージカルsound of musicのトラップ大佐を演じたことなどを紹介し、彼の人となりについて、苦労をいとわぬ、そして悩む力を持った人間であるとまとめたが、思うことの半分も言えなかったような気がする。よせばいいのに、これこそがsound of musicのテーマソングだと私が思う次の曲の詩を朗読した。この二人のこれからの「生」にふさわしいと思ったからだ。
Climb Every Mountain
Climb every mountain
Search high and low
Follow every byway
Every path you know
Climb every mountain
Ford every stream
Follow every rainbow
Till you find your dream
A dream that will need
All the love you can give
Everyday of your life
For as long as you live
Climb every mountain
Ford every stream
Follow every rainbow
Till you find your dream
すべての山に登りなさい
高い所も低い所も探しなさい
知っているすべての脇道や
あらゆる小道をたどりなさい
すべての山に登りなさい
すべての流れを渡り
すべての虹を追いかけなさい
あなたの夢を見つけるまで
その夢をかなえるには
あなたの愛すべてが必要だから
来る日も来る日も与え続けなさい
あなたの命がある限り
すべての山に登りなさい
すべての流れを渡り
すべての虹を追いかけなさい
あなたの夢を見つけるまで
(以上、イースターの日に記す)
2011年4月14日木曜日
柳田國男の発言
朝日新聞に「社説余滴」というコラムがある。今日は駒野剛という人が書いているが、それを読んで溜飲が下がる思いがした。我が都知事、石原慎太郎批判である。批判と言うよりは揶揄か。私は彼のことをを「我欲の人」と呼ぶことにしているから、以下そう書く。
さて、このコラムの内容を適宜引用もまぜながら紹介してみよう。
「己の気分を天や神に仮託する政治家」として駒野は「我欲の人」と前大阪府議会議長の発言、もちろん3.11の大震災へのそれを取りあげている。前者の「天罰」、後者の「天の恵み」。後者は橋下が構想する府庁舎移転先が地震で少し壊れた故に、反橋下である自分にとって「惠」だというような意味での発言だったと弁解したらしい。これは取りあげるに値しない。しかし「我欲の人」は4選を果たし、後者の前議長は可哀想に落選した。これも「天意か、はたまた天の配剤か」と駒野は書いている。私がこのコラムで注目したのは、天変地異などに遭遇したときに「天罰」などの、所謂「天譴」説発言は昔からあり、そのことを痛烈に批判した柳田國男の発言が紹介されていたからである。関東大震災のとき、柳田はロンドンにいたのだが、デンマークで開かれた万国議員会議に列席した日本の代議士たちがロンドンに立ち寄った。そして林大使宅に集まり「悲しみと愁いの会話を交えている」時のことだった。ある年長の議員が「もっも沈痛なる口調をもって、こういうことを言った。これは全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れていたからだと言った」と、柳田は書いている。(これらは柳田全集25巻所収の「青年と学問」の「南島研究の現状」という節から、仮名遣い漢字などを適宜変えて私が引用していることを註記しておく)。これを読むと、この長老議員の「もっも沈痛なる口調」と「我欲の人」のそれとは大いに異なるが、発言の主旨はほぼ同様だ。さて、これに対して柳田はどう反論したか。このコラムに載せられていない部分も含めて引用しておく。
私は柳田の「他の碌でもない市民に代わって」という部分を「我欲の人」やその他の同類の政治家などに変更したいほどであるが、それはさておき、柳田の発言にはさすが「常民」の研究に一生を捧げた人の発言だと改めて感じ入ったのである。この発言を知っていれば、「我欲の人」の「天罰」発言をもっと根底から批判できたのにとも思った。駒野は最後に次のように書いている。
いや、「天の声」は、この結果こそ「天罰」と正しく言ったのだと、私は思う。柳田のこの発言をネットで調べたところ、石原の発言にからませて最初に言及していたのは「琉球新報」社の4月8日付けのコラム「金口木舌」であった。これにも脱帽する。
さて、このコラムの内容を適宜引用もまぜながら紹介してみよう。
「己の気分を天や神に仮託する政治家」として駒野は「我欲の人」と前大阪府議会議長の発言、もちろん3.11の大震災へのそれを取りあげている。前者の「天罰」、後者の「天の恵み」。後者は橋下が構想する府庁舎移転先が地震で少し壊れた故に、反橋下である自分にとって「惠」だというような意味での発言だったと弁解したらしい。これは取りあげるに値しない。しかし「我欲の人」は4選を果たし、後者の前議長は可哀想に落選した。これも「天意か、はたまた天の配剤か」と駒野は書いている。私がこのコラムで注目したのは、天変地異などに遭遇したときに「天罰」などの、所謂「天譴」説発言は昔からあり、そのことを痛烈に批判した柳田國男の発言が紹介されていたからである。関東大震災のとき、柳田はロンドンにいたのだが、デンマークで開かれた万国議員会議に列席した日本の代議士たちがロンドンに立ち寄った。そして林大使宅に集まり「悲しみと愁いの会話を交えている」時のことだった。ある年長の議員が「もっも沈痛なる口調をもって、こういうことを言った。これは全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れていたからだと言った」と、柳田は書いている。(これらは柳田全集25巻所収の「青年と学問」の「南島研究の現状」という節から、仮名遣い漢字などを適宜変えて私が引用していることを註記しておく)。これを読むと、この長老議員の「もっも沈痛なる口調」と「我欲の人」のそれとは大いに異なるが、発言の主旨はほぼ同様だ。さて、これに対して柳田はどう反論したか。このコラムに載せられていない部分も含めて引用しておく。
私はこれを聴いて、こういう大きな愁傷の中ではあったが、なお強硬なる抗議を提出せざるをえなかったのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に逃げこんで一命を助かろうとした者の大部分は、むしろ平生から放縦な生活を為しえなかった人々ではないか。彼らが他の碌でもない市民に代わって、この残酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこにあるかと詰問した。
私は柳田の「他の碌でもない市民に代わって」という部分を「我欲の人」やその他の同類の政治家などに変更したいほどであるが、それはさておき、柳田の発言にはさすが「常民」の研究に一生を捧げた人の発言だと改めて感じ入ったのである。この発言を知っていれば、「我欲の人」の「天罰」発言をもっと根底から批判できたのにとも思った。駒野は最後に次のように書いている。
さて都知事選結果を見ると「天の声」は、発言を忘れたか、大したことではないと判断したのだろう。それとも、まかり間違って共感したか?
忘れたと言えば、新銀行東京や五輪招致騒動も、はや忘却の彼方か。そんなに忘れっぽいと、忘れたころにやってくるという「天」の動きにはひとたまりもあるまい。
いや、「天の声」は、この結果こそ「天罰」と正しく言ったのだと、私は思う。柳田のこの発言をネットで調べたところ、石原の発言にからませて最初に言及していたのは「琉球新報」社の4月8日付けのコラム「金口木舌」であった。これにも脱帽する。
2011年4月11日月曜日
One month since the quake
One month since the quake,
However many aftershocks still have been jolting Japan.
We welcome flowering of Sakura, having no resentments against the merciless circle of the seasons.
The poem that follows is one of the most famous in the Japanese canon.(in the Heian period)
"Is not the moon--
or the spring,
the spring of the past?
Alone I remain
my selfsame self."
Must I say I feel the same way?
However many aftershocks still have been jolting Japan.
We welcome flowering of Sakura, having no resentments against the merciless circle of the seasons.
The poem that follows is one of the most famous in the Japanese canon.(in the Heian period)
"Is not the moon--
or the spring,
the spring of the past?
Alone I remain
my selfsame self."
Must I say I feel the same way?
2011年4月8日金曜日
「想像」臨時号から
昨晩は脳天気なことを日記に書いていたら、突然揺れ出した。前回のことがあるから、少しは余裕があったけど怖かった。東北沿岸の被災地の人々はやりきれないだろうと思う。水と電気がなんとか復旧したと思ったら、わずか2日ばかりで、また断水と停電、疲れ切った顔で話している人々をテレビ画面で見ている。原発の無事故を喧伝しているニュース。 鎌倉にお住まいの羽生康二さんは、いつもその個人誌「想像」を送って下さる。今日はその132号と臨時号の二冊が届いた。臨時号に「とうとう原発大事故が起きた」というタイトルで書いていらっしゃる。その終わりを引用しておく。
羽生さんのように30年間の長きにわたり反原発を主張してこられた人の「今は無力感でいっぱいだ」という嘆きはこのうえもなく重い。他にもこのような嘆きを抱えている人は多いと思う。未来に向かって日本は(エネルギー政策を含めて)どのような選択をするかが問われている。その議論が次のような利益がらみのやり方で封殺されてはならないと思う。広河隆一氏のツイッターでの発言から。
1号機から4号機までの事故が報じられたとき、わたしは心配しおびえながらも、これで日本の原発はすべて廃止することになるだろう、と思った。日本中の人々が、原発のおそろしさを悟り、原発即時廃止という世論がわき上がるだろう、と思った。ところが、わたしの考えは甘かった。メディアには原発廃止の意見はほとんど見られず、世論も盛り上がる気配はない。電力確保のためには原発は必要だから安全対策をしっかりやってほしい、という声が大部分だ。
日本がこのまま原発を運転しつづけたら、必ずまた大事故が起きる。こんどと同様に地震が引き金となる可能性が大きいが、人為的なミスによることも充分ありうる。もし浜岡原発が地震でこわれたら、関西も関東も放射能まみれになるだろう。福井県には十数機もの原発があり、高速増殖炉もんじゅもある。これらのどれかが事故を起こしたら?と考えるとおそろしい。
「想像」を読み返してみると、1981年3月の12号から原発反対を主張してきた。1986年のチェルノブイリ原発事故以降は、JOCなど大きな事故があるたびに特集を組んで原発反対を訴えてきた。反原発運動の、高木仁三郎(原子力資料情報室)、山口幸夫(同)、小出裕章(京大原子炉実験所)、中嶌哲演(原発銀座・福井県小浜市の明通寺住職)などの方々に依頼して書いてもらった。「想像」で30年間原発反対を訴えてきたことが無駄だったとは思わないが、今は無力感でいっぱいだ。福島第一原発の大事故を機会に、日本中の人々が原発のおそろしさを悟ってほしいと願っている。(2011年3月29日)
羽生さんのように30年間の長きにわたり反原発を主張してこられた人の「今は無力感でいっぱいだ」という嘆きはこのうえもなく重い。他にもこのような嘆きを抱えている人は多いと思う。未来に向かって日本は(エネルギー政策を含めて)どのような選択をするかが問われている。その議論が次のような利益がらみのやり方で封殺されてはならないと思う。広河隆一氏のツイッターでの発言から。
広瀬隆と広河隆一を起用したとして、電事連(電力業界の宣伝をになう)が、上杉隆さんのやっているニュースターから広告を引き上げました。東電を批判したということで他のラジオ局からも引き上げたそうです。
2011年4月7日木曜日
パラピリプルペレポロ
先々日、久しぶりの山の上の職場での打ち合わせ。研修会なるものあり。NHK放送研修センター日本語センターの講師で、もとNHKのアナウンサー花田和明氏のワークショップのような講演を3時間聴く。書き言葉に対して「音のことば」という観点から様々のことを教わる。国語教師として長年やってきたが、ほとんどは読解や小論文などの分野で、「音のことば」話し言葉の特性を理解して、生徒たちに考えさせたことはあまりなかった。60過ぎの手習い。
○「千葉の石山さん?滋賀の西山さん?」「岡山県?和歌山県?」ちゃんと言えますか?言えません。
○次は、「耳で聞いて一度でわかるようにはなしてください」という問題の一つ。ちゃんとできますか?
【あなたは出張先の静岡から教務主任の田中先生へ電話をしましたが、不在のため、電話に出た先生に伝言を頼みました】
「あすの11時から1時間ほど、静岡で打合せが入ったので、午後3時からの研修会には少し遅れるって、教務主任の田中先生に連絡しておいてください」
○「天気予報です」を一息で何回言えますか?というのは発声・発音の基本としてやらされたことの一つ。これは「息は声のエネルギー」という主旨での練習。「天気予報」は約1秒、小さな声や早口にならないよう、4~5m先に声を届けるつもりで、目標は15回、一回の息でです。退屈なときやってみてください。朗読などが好きな人は特に。
○パラピリプルペレポロ マラミリムルメレモロの発声練習
唇を使う音と舌を使う音との練習。
話し方のポイントや情報の整理の仕方などを押さえてグループに別れて発表もした。久しぶりに何も考えずに楽しく声を出した時間であった。
2011年4月4日月曜日
さへの神のい添ひまもらさん岩手
正岡子規の明治三十四年(彼の死の一年前だが)の短歌、例の有名な「瓶にさす藤のはなぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」の連作がある年だ。次のような連作もある。前書き(詞書)を含めてすべて書き写す。
後の三首は子規自らの母への思いも(孝子になれず、かえって母と妹とに看護されるしかない病牀の人としての)潜めていよう。
三陸岩手を思っているとき、子規集をめくって「岩手の孝子」の歌を目にすることができたのも何かの縁だろう。明治29年の大津波、昭和8年のそれを思い、そして今回の激甚なる被害を見るとき、「いのち」の不条理な変転を思わずにはいられない。「子」としての、「親」としての「いのち」の。
「さへの神」は旅の安全を守る神であるとともに悪霊の侵入を防ぐ神でもあるという。子規の歌のように、被災地の人々の「いのち」の「旅」を、どうか「い添いまもらさん」ことを。
岩手の孝子なにがし母を車に載せ自ら引きて二百里の道を東京まで上り東京見物を母にさせけるとなん。事新聞に出でゝ今の美談となす。
たらちねの母の車をとりひかひ千里も行かん岩手の子あはれ
草枕旅行くきはみさへの神のい添ひ守らさん孝子の車
みちのくの岩手の孝子名もなけど名のある人に豈劣らめや
下り行く末の世にしてみちのくに孝の子ありと聞けばともしも
世の中のきたなき道はみちのくの岩手の関を越えずありきや
春雨はいたくなふりそみちのくの孝子の車引きがてぬかも
みちのくの岩手の孝子文に書き歌にもよみてよろづ代までに
世の中は悔いてかへらずたらちねのいのちの内に花も見るべく
うちひさす都の花をたらちねと二人い見ればたぬしきろかも
われひとり見てもたぬしき都べの桜の花を親と二人見つ
後の三首は子規自らの母への思いも(孝子になれず、かえって母と妹とに看護されるしかない病牀の人としての)潜めていよう。
三陸岩手を思っているとき、子規集をめくって「岩手の孝子」の歌を目にすることができたのも何かの縁だろう。明治29年の大津波、昭和8年のそれを思い、そして今回の激甚なる被害を見るとき、「いのち」の不条理な変転を思わずにはいられない。「子」としての、「親」としての「いのち」の。
「さへの神」は旅の安全を守る神であるとともに悪霊の侵入を防ぐ神でもあるという。子規の歌のように、被災地の人々の「いのち」の「旅」を、どうか「い添いまもらさん」ことを。
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