2012年9月29日土曜日

墓のうらに廻る

友人との読書会で、今日は『去来抄』の「同門評」のパートを読んだ。とくに心に残っているのは、次の記事だ。

―笠提げて墓をめぐるや初しぐれ― 北枝

先師の墓に詣でての句なり。許六曰く「是は脇よりいふ句なり。自ら何の疑ありて、や、とはいはん」。去来曰く「や は治定嘆息(じじょうたんそく)の や なり。かの常に人を訪ふには、笠を提げて門戸にこそ入れ。是は、思ひのほかに墓をめぐる事哉や、といへるなり。およそ、発句は一句を以て聞くべし。… ―
切字「や」の解釈がテーマだ。許六はこの「や」を疑いの「や」と取る。そうであるからには、「第三者が北枝のことを詠んだ句となる。自身の事なら何の疑いがあって、や、という疑問の語を使ったのであろうか」と言う。これに対して去来は「や」を「治定嘆息(じじょうたんそく)の や 」と取る。これは現代の高校の授業では詠嘆、感動の「切字、や」ということだ。「や」はこの時代には、両様の意味を持っていたというのも面白いが、その二つの意味が限定されていく分岐点がここにあるような気もする。

去来の言うことが妥当である、とくに「発句は一句を以て聞くべし―発句は一句全体の句意で判断すべき―」ということからも、と、註釈者(栗山理一)は去来の意見の妥当性を言うが、それはそれとして、許六の疑いの「や」と第三者性の理解の仕方も捨てがたいと私は思う。自らの、師への追悼のあまりの彷徨(墓をめぐる)を、第三者の眼によって捉え返すところに、北枝という弟子の芭蕉追慕の玲瓏とした悲しみを感じるのだ。

読書会のあとに、いつもの激安中華で飲みながら話した。友人が言うには、この北枝の句を見た時にすぐ思い出したのは、尾崎放哉の「墓のうらに廻る」という句だった、と。ここから破滅派の俳人はなぜ自由律に多いのか、最近刊行された正津勉さんの『河東碧梧桐 忘れられた俳人』―この人こそ自由律の源だが―の感想とか、破滅派讃仰の酔っぱらい談義になだれこんだのであるが、北枝と放哉の句の寂しさと悲しさは清らかなまま汚れることはない。

2012年9月24日月曜日

オスプレイ配備

 クローズ・アップ現代を見ていて、思ったこと。オスプレイ配備の問題について、先日ニューヨーク・タイムズの社説には、沖縄の古傷に塩をなすりつけるようなものだということが書かれていたが、アメリカの大新聞に、そのように書かせたのは誰だったのか?それは沖縄県(民)の地道な努力、知事公室に対アメリカの基地政策を分析する部門を設けたり、アメリカの関係者たちとの接触を重ねて、直接に沖縄の問題を訴え続けてゆくという努力、自治体の今までとは異なる情報収集能力やアメリカとの直接的なパイプ(専門家などとの)の建設などの、画期的な変化によるものであって、決して日本政府ではない、というようなことが報じられていた。私もそうだと思う(そのような部門がこれからも県民のために働いてくれることを望む)。ことほどさように、クニのアメリカとの安全保障(特にその地位協定など)における、その従属性とそれに慣れた政治家、官僚には到底できない対応だと思う。ここまで沖縄は歩いてきたのだ。何名かわからないが、自民党の総裁選に出ている候補者のおしなべての対米従属の考えには、今さらながら吃驚した。民主が壊したアメリカとの関係をしっかりしたものに直す、などと大昔の冷戦時代に逆戻りするかのような話ばかりだ。(仮想敵は中国とロシアと今度は韓国と言うのか。アメリカも驚くだろう。)

2012年9月18日火曜日

汽水域 

汽水域                          

本当に大丈夫なの?
いつもはこんな体育会系のようなこと嫌いなのに。

やりたくないのはあなたでしょう、そう言えばいいのに。

図書館にある島尾さんの記念室を見学する、
その前に旧居跡に行く、その後に行こうか。

最初からそう言っているでしょう。

作家がその家族と住んだという家が
作家を愛する人々の努力で残されていた。
旧約の言葉が自筆で刻印された記念碑。
「病める葦も折らず けぶる燈心も消さない」
昨日、レンタカーとフェリーで行った加計呂麻島のビデオも図書館で見た。

泣いているの?

あそこで雨宿りしようよ。

図書館の先にマリア教会が見えた。

聖堂にはだれもいなかった。暑さとスコールをしのいで
古仁屋行きのバスを待つ。

原生林の濃い緑の山が落ちて来るように迫り、その反対には入江が連なる、
道は海と山の間を曲折と昇降を繰り返し、その先を隠しているよう。

レンタカーより、やっぱり楽でしょう。
でもバスの運賃より、レンタカーを半日借りた方が安かったね。
お盆前で、空きがなかったじゃない。バスは住用の道の駅に唐突に停まった。

マングローブは「命のゆりかご」だって説明があったよ。
ヒルギの落葉や種子を食べたり、木そのものを生息場所としている小さな生物たちの。
シオマネキ、フジツボ、ハゼの類など。

カヤックに乗るために、そんなことまでも勉強したの?

赤いライフ・ジャケットをつけた君は、あっという間に先頭のガイドさんの
すぐあとについて、上手にパドルを操りながら進んでゆく。

少年たちの舟の間を抜けることができずに、ぼくはぐるぐる廻る。
右に曲がりたいときは左舷の方にパドルを入れて漕ぐ、
まっすぐ行きたいときは、どうするんだったけ。

そのうちに体の力が抜け、ただ揺られている。
赤ん坊のように。母に抱かれて口を開けて寝ている赤ん坊。
川と海が抱き合う河口のマングローブ。

汽水域に出たんだ。なにか匂うけど、その匂いを言えない。
二人乗りにしようよ。いいえ、一人がいい、と君は言った。
海と水の大きな混合が一人を浮かべる。パドルが水に入ると、水がパドルを重くし、
その重さが両手から脚に伝わってくる。

両側にヒルギの群生―緑葉で遮られたトンネル状の水路。
木漏れ日が一人の君を、「漕ぐ人」の絵に変える。
デジカメをロッカーに入れてきたのを後悔する。

ゆっくりと夢の中でのように漕ぐ。そして、
すべての人が静止する、少年たち、二人乗りの老人夫婦。
すべての流れと速さが混ざり合い、淀みが生まれる。

ガイドさんがカヤックから降りて
浅い水の中に立ち、静かに説明をはじめる。マングローブの意味、
ヒルギたちの性質、一つの葉が他の葉に代わって塩分を集中的に吸収して落ちるなど、
犠牲という物語、生きて流れることのなつかしい暗喩、シオマネキが掘った穴に
奇蹟のように着床する生の種子のことなど。

眠くなる。水中の垂訓は終わった。帰還のためのパドルが淀みを分けつつ起こして行く。
ゆっくりと、そしてはやくなる。
いつのまにか、君はまたトップに出ている。

水と水が出会うところ、というレイモンド・カーヴァーの詩を思い出す。
The places where water comes together with other water. Those places stand out
in my mind like holy places. それらの場所、心の中で聖地のように

息づいている場所。そういう場所をぼくは持っているのか。
加計呂麻島、呑之浦は確かに島尾敏雄にとっての聖地に他ならなかった。
その〈深く奥へ切れこんだ入り江〉の潮の干満のように、

死と生は出会いと別れをくり返し、そこに謎のような淀みをつくる。

淀みは場所なのか。
そこにパドルを入れると
淀みがゆっくりと一人、一人を、あるいは老夫婦たちを
送り出すのだ。ゆっくりと、そしてはやく。

さかのぼって、そして、くだっている
曲がっている、廻っている、でもいつの間にか元に
そう、背筋を伸ばして漕ぐ、前や後ろに寄ったりしないで

住用川と役勝川が流れ込む住用湾。
その広大な干潟がマングローブの母で、
奄美にのみ生息するリュキュウアユの母でもある、彼らは

湾の汽水域、君のカヤックの水路、そこに集まり遡上のために
その初期の生活を送るという。初期生活者は淡水に馴致しなければならない。
だから、海と水が混ざるところ、低塩分で、
しかも低温である汽水域が君にとっての初期の必須の生の訓練の場所になったのだ。

稚魚の前、孵化の後の君を、何と呼ぶのだろう?  初期生活者ではなくて。
仔稚魚(しちぎょ)?  君の心臓が透けて見える。
血が君の中で虹を架ける。

ほら眼を覚まして、ついて来てよ。

眠くなる、汽水の上で眠くなる。
母の乳の匂い、放たれた精液の匂い、放たれた幾万の卵の匂い
役勝橋の岩の藻の匂い、瑠璃カケスの糞の匂い、ハブさんの蹲る匂い

あなたはそこに、いなさい。
君はゆっくりと、そしてはやくカヤックを漕いでゆく。
あなたの場所に、〈深く奥へ切れ込んだ入り江〉の汽水域に!

ぼくは眼を覚ます、背筋を伸ばして遠くを見つめて漕いでいる君に
沈黙の中で問いかける。

鮎、君が人間なら、留まることと出発のどちらを選ぶ?
どちらも、と君は笑いながら答える。
選んでも選ばなくても同じだ、と。

2012年9月17日月曜日

『フォークナー、ミシシッピ』を読む①

【〈全―世界〉氏ムッシュ-・トゥモンド(Monsieur Tout-monde)】 
 
 今日は、書きかけの詩「汽水域」、自分にとっては最も長い詩になるが、まだ完成に到らないそれの続きを考えながら、グリッサンの『フォークナー、ミシシッピ』(中村隆之訳・インスクリプト)の最初の章「ローワン・オークに向かってさまよう」と、中村隆之の「訳者解説」を読んだ。 正直言って、フォークナーは「エミリーへの薔薇」などの短編などしか満足に読んだ覚えはない。しかし、このグリッサンのフォークナーをめぐるエッセイ(そう言ったほうがいいほど、それ自体が自由で詩的な文章である)は文句なしに面白いし、引き込まれる。「ローワン(ローアンとも)・オーク」はフォークナーの邸宅の名前だ。グリッサンはマルティニックの詩人で、訳者の博士論文は彼の文学についての研究であった。訳者「あとがき」に一読して忘れられない印象的なエピソードが述べられている。中村隆之は2010年一月に研究員として滞在していたマルティニック島でグリッサンの自宅に迎えられ、敬愛する詩人と会った。以下引用する。
―詩人はヴェランダに私を招き、ゆったりとした椅子を勧め、自分は小さな肘掛け椅子に腰掛けた。身長一メートル九十センチ、体重百キロほどに見えるその大柄な体軀が窮屈そうにその小さな肘掛け椅子に座っている様子は、遠方からの客に対する歓待の精神以外の何ものでもなかった。私はそのヴェランダで、本書における花々の風景に思いを馳せながら、小さな質問をした。「マルティニックを花に喩えるなら何でしょう。たとえばセゼールであればバリジエの花(その色と形から燃えさかる剣に見える花)を自分の政党の象徴に選びましたが」。老齢の詩人は私の言葉に耳を澄ませながら、ゆっくりとこう答えてくれた。「マルティニックを一つの花に喩えることはできない。私にはマルティニックは無数の、繁茂する、様々な花々だ」。―
まさに、この本も「フォークナー、ミシシッピ」をミシシッピだけでなく、アメリカス、いや全―世界の他者、花々のためにさまよいながら開いてくれた、大きな、優しい人グリッサンの「遺書」のようなものだとおもう。もちろん、1996年に発表されたこの本はグリッサンの最後の著書ではないが、訳者中村隆之さんにとってはいろんな意味でそうであろうと思う。よけいな忖度かもしれないが。グリッサンに手渡すべきこの書物は、2011年2月3日の彼の死(享年82歳)によって「叶わなくなってしまった」。中村君は続ける、「しかし、この作家の場合、当人の死によって作品の存在感は弱まるどころか、ますます強まるようだ。今はエドゥアール・グリッサンのこの著作が一人でも多くの読者に出会うことを心から祈りたい」と。ぼくもそう思う。それに値するすばらしいさまざまな示唆を含んだ著作だ。とくに、今の、この状況は以下の恐ろしい認識と全く変わりはない以上、グリッサンの開いて行く全―世界の混合を探求するしかないと思う。
―「彼は(フォークナー)私たちの世界が見棄てられてあることを、部族や民族や国民などのあいだで交互に繰り返される虐殺を―彼らは相手を虐殺することが急務であるという点でのみ意見を一致させる―徹底的に預言した」―