舎西の柔桑 葉とるべく
江畔の細麦 復た繊繊
人生 幾何ぞ 春已に夏になり
香醪(こうろう・香しい濁り酒)をして蜜の如く甜からしめざらんや
家の西のやわらかな桑の葉はもう摘み取ってもいいころだし、
川べりの細い麦もすいすいとのびだしている。
私の命はあと幾らあるというのだ、春はもう夏になりかけているではないか。
香しい酒をして蜜のようにあまくさせずにはおけるものか。
杜甫エグザイルの土地、四川省は成都での小康状態のときの詩の一つ。また「花は錦官城に重からん」と詠じた錦官城・成都周辺、蜀の四川、孔明の地が壊滅状態になっている。
1200年余り昔の政府は安史の乱で衰退に向ったが、日の出の勢いだった今の政府は未曾有の天災の前に手をこまねいているようにも見える。その間にも、杜甫が歌った絵のようにのどかな農漁村(その変化はめざましいが)の「人民」たちの命は危殆に瀕したままである。
ビルマのサイクロンも含めて、広大なユーラシア大陸の東北、東南で多くの命が奪われる。一方は世界経済市場で先進国のなかにぬきんでようとする国、一方はクメール・ルージュを思わせるような軍事独裁の国。それを対岸の火事のようにながめる資格は、どんな意味でも、ここにはないけど。
つかの間の平穏にすぎないが、杜甫の同じ頃の成都の草堂での律詩、
江村
清江 一曲 村を抱いて流る
長夏 江村 事事幽(しず)かなり
自ずから去り自ずから来る梁上の燕
相い親しみ相近づく水中の鴎
老妻は紙に描いて棊局(ごばんのこと)を為(つく)り
稚子は針を敲いて釣鈎(ちょうこう・つりばりのこと)を作る
多病 須(ま)つ所は唯だ薬物なり
微軀 このほかに更に何をか求めん
せめて、こういう幸せをマン・メイドの制度や天地の変異に対置したくなるのだ。そこから見えてくるものを考えつつ。
4 件のコメント:
僕は、漢文に関しては、高校生のとき少し習ったきりで、その後まったく見向きもしなかったのですが、最近石川九楊の本を読んで以来、漢文つまり古代中国語と日本語の関係がとても気になっています。
例えば杜甫の二番目の詩ですね。
清江一曲抱村流
長夏江村事事幽
自去自来堂上燕
(下略)
これはれっきとした古代中国語つまり外国語ですね。だから中国語の読み方があるはずです。ところが、これに一字も変更をを加えずに、日本語流に読むわけでしょう。
清江 一曲 村を抱いて流る
長夏 江村 事事幽なり
自ら去り自ら来る 堂上の燕 云々
実際にこのように書かなくても、上記の漢文を、読むとき、わが日本人は、中国語で読まずに、このように読んだわけですね。このことを考えるだけでも、弥生以来の初期日本人が、漢語(中国語)と苦闘したさまが、うかがい知れようというものです。
紀元前後に渡来した長江下流の人たちが、中国語と漢字(いわゆる呉音の中国語と思われる)をもたらしたにせよ、それが日本中を席巻して、列島全体が中国語に支配されなかったということは、彼らの数が圧倒的に少数であったことの証左だと思いますね。だから彼らも、縄文以来脈々と受け継がれてきた列島語に妥協せざるを得なかったわけです。もちろん文明の力(水田稲作を中心とする)としては、完全に日本列島を制圧したわけですが。
驚嘆すべきことですよね。しかし、これがなかったらと思うと、(弥生式純粋なんて文明も文化もありえないことですが、)ちょっと想像しにくい流れを、「日本」なるものもたどったのでしょうか?
杜甫や李白、それに白居易などの「詩」のない、「日本」文化・文学は考えることができません。その受容の仕方や文字の問題などを含めて、依然として考究・解明すべき課題であると思います。
このへんの、中国語と日本語の動態に関しては、私ナリワイで最近やった、光文社新書『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(笹原宏之著)が面白いですよ。漢字と日本語の関係は、まるで、目が回るようです。
確かに訓読の歴史と中国語との関係は、それだけでもう膨大な研究の積み重ねがありますね。
これを文化の問題としてとらえるとき、中国周辺諸国の中華「言語」の受容と発展の変化としても様々なそれこそ目の回るような問題が取り出されてくるのでしょう。
コメントを投稿